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2012.1.8「すべての民が祝福を受ける」

使徒言行録3章17〜26節(新P.218)

17 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。

18 しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。

19 だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。

20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。

21 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。

22 モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。

23 この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』

24 預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。

25 あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。

26 それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。


1.すべての人が傍観者ではない

 エルサレム神殿の美しの門の前で起こった生まれつく足の不自由な男の癒しの出来事、その出来事に興味を持った人々がソロモンの回廊にいたペトロとヨハネの元に集まりました。そしてペトロがその人々に説教をし始めます。その説教の前半部分を私達はすでに前回の礼拝で学びました。ペトロはこの男の癒しがイエス・キリストによって起こったことをそこで語り、そのイエスが神から遣わされた救い主であることを語ったのです。ところが、本来その救い主の到来を歓迎し、受け入れるべきであったイスラエルの民はこの救い主に無実の罪を背負わせ、十字架につけて殺してしまったのです。ペトロはこの罪の責任が明らかにイスラエルの民にあることを人々に語りました。

 ペンテコステの出来事の際も同様でしたが、このペトロの話を聞きいている民衆は、エルサレム神殿で起こった出来事に単なる好奇心を持って集まった人々でしかありませんでした。つまり彼らはペトロの元に真剣に自分の人生についてのアドバスを求めてやってきた人ではなかったのです。ところがペトロはその説教の中で、「あなたたちはこの出来事について単なる傍観者ではなく、当事者の一人である」と語っているのです。「イエスを十字架にかけて殺してしまったのはあなたたちではないか」と彼らの罪を激しく追求したのです。

 教会にはじめて訪れる人は誰もが「こんなところに自分は来てもよいのか」と悩んだり、むしろこのような躊躇を覚えて教会の門をくぐれない人がもいるようです。たまに「礼拝にはクリスチャンではなくても出席できますか」と言う質問を電話で受けることあります。教会のことをよく知らない人は「自分は場違いのところに来てしまったのではなか」と考えるのです。しかし、その心配は無用です。なぜなら、神様の救いの計画の中で私達は傍観者ではなく、当事者とされているからです。今日の聖書の箇所では『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』(25節)と旧約聖書の時代、神とアブラハムが結んだ契約の言葉が引用されています。この「あなたから生まれた者」こそ、神が私達のために遣わされた救い主イエスを指し示しているのです。またこのイエスによって地上のすべての民族が祝福を受けると約束されているのです。私達はこの神の救いの計画の傍観者ではなく、当事者として取り扱われているのです。


2.無知の故に

 ところで神はすべての人を招かれていると言いながらも、やはりそこには制限があるのではないかと考える人が中にはいます。「確かに自分以外の人は神様から救われるかもしれない。しかし、私はとてもだめだ。神様も私を救うことはできないに違いない」と考える人がいます。このような言葉を語る人は一見自分の罪の深刻さをまじめに受け止めているような真摯な態度を示しているように見えるのですが。決してそうではありません。なぜならこの考えが一番問題な点は、全能なる神の力をこう発言する人は決して信じていないからです。神が全能であるならば、神はどんな人でも救うことが可能なはずです。ですから神の全能の力を信じる人は決して「私はだめです」とは言えないのです。むしろ「私はだめです」と言う人は、その神の力より自分の方の方の問題のが大きいと考えているわけですから、その人は自分が神よりも大きな存在であると言っているようなものなのです。これは決して信仰的な態度とは言えません。

 ペトロは今日の部分で大変に興味深いことを語っています。

「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています」(17節)。

 聖書を読むと分かるように、イエスの十字架につけて殺害した出来事に対して、民衆が関わった内容と、その指導者たちが関わった内容は大きく異なっています。ある意味で民衆は指導者たちにそそのかされて「イエスを十字架につけよ」と叫ぶようにされたと考えることができます。指導者たちが民衆を扇動してイエスを十字架につけたと言えるでしょう(マルコ15章11節)。ところが指導者たちの方はイエスを最初から殺害する目的を持っていました。そしてそのために民衆をも扇動したのです。つまり、指導者たちはイエスを十字架に就けた出来事の「首謀者」であって、その罪は極めて重いと考えることができます。ところがペトロはここで民衆と指導者たちは全く同罪であると言っているのです。その上で彼は、その罪の原因も同じであると説明しています。ペトロはその原因について「皆、無知のために」そうしてしまったのだと語っているのです。

 ルカによる福音書はイエスが十字架につけられたときに、その十字架で語られた次にような言葉を記録しています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(23章34節)。ペトロはここでこのイエスの言葉を思い出していたのかもしれません。イエスのこの執り成しの祈りは、彼を「十字架につけよ」と叫んだ民衆だけではなく、その指導者たちのためにも献げられているのです。つまり、ペトロはこのイエスの言葉に促されて、民衆もその指導者も同じ原因で、同じ罪を犯していると語り、その上で、民衆も指導者もイエスの救いを受けることができると教えているのです。イエスの十字架の贖いによって、すべての人が神の赦しを受けることができます。イエスの十字架の贖いの力が通用しない人間の罪はこの地上にはありえないのです。


3.悔い改めて立ち帰る

①本来あるべきところで得られる安らぎ

 しかし、その救いを受けるために私達に求められていることがあります。ペトロはそのことについて次のように語ります。

「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(19節)。

 イエスの贖いのみ業を通して与えられる罪の赦しについて、ここでは「自分の罪が消し去られるため」と言っています。どちらも同じ意味で、私達の罪の問題を解決する方は救い主イエスしかおられないことを語っています。そしてその赦しを得るためには「悔い改めて立ち帰りなさい」とペトロは民衆に勧めているのです。「あなたたちには悔い改めが必要である」と言うのです。それは私達が「立ち帰る」ためにです。それではいったい何に立ち帰るようにと言っているのでしょうか。それは私達が本来あるべき場所に立ち帰ると言うことです。なぜなら私達の不幸の原因は私達が罪を犯すことによって本来あるべき場所から失われた状態になってしまったことにあるからです。

 古代教会の有名な神学者の一人にアウグスチヌスと言う人がいます。彼は人間が本当の平安を回復し、安らぎを得るれるところは一つしなかいと私達に教えています。アウグスチヌスはそれを「神の御許」と言っています。なぜならば私達は最初から神の「御許」で生きるために創造されたからです。ですから私達人間はその本来の場所に戻れば必ず平安を受けることができると彼は教えているのです。

 ペトロはこのすぐ後で「慰めの時」と言う言葉を使っています。これは主イエスが私達の救いを完全に完成させるためにもう一度この地上に来られる「時」のことを言っています。そしてここでの「慰めの時」と言う言葉はもともとは「息継ぎができる時」と言う意味を持った言葉が使われているのです。苦しい状態が続いているとき、私達は息も絶え絶えに生きています。その私達が「息継ぎできる」ためにイエスは再び地上に来られて、私達のために救いを完成してくださるのです。「息継ぎできる時」、つまりそれは私達が本当の安らぎを受ける時です。イエスはそのために私達を本来あるべき場所、神の「御許」へと導いてくださるのです。


②心の方向転換をする

 「悔い改める」とは「方向転換」をすると言う意味の言葉です。山で道に迷った人は、その山の頂上を目指して昇っていくべきだと言うようなアドバイスを聞いたことがあります。頂上に登れば自分が今どこにいるのかがはっきり分かり、そこから下山する方法を見いだすことができるからです。しかし、山で遭難するほとんどの人は下山することだけを考えて、さらに深い茂みに迷い込んでしまい、道を完全に見失ってしまうのです。

 私達人間もそのようなものであると言えます。罪のために本来あるべき場所を見失った私達は、自分の力でなんとか元に戻ろうとあがいています。いろいろな方法を試せば試すほど、私達はますます罪の深みに入ってしまってどうすることもできないのです。ですから私達が救われるために大切なのは、心の方向転換です。自分で自分の人生を何とかしようとしたり、また神ならぬものに助けを求めることをやめて、神にすべてをお任せすることです。「悔い改め」とは私達を救うことができる唯一の方、イエスに私達の人生をお任せすることを言っているのです。

 今日の聖書研究会のテキストの中で「悔い改めの伴わない偽りの信仰」についての設問があったと思います。そこで使徒言行録の8章の物語が参考箇所として指定されています。この物語はペトロとヨハネが手をおいて祈るとその人々に聖霊が降った出来事がきっっかけとなっています。ある人がこの不思議な力を手に入れたいと考え、ペトロとヨハネの元に大金を持って訪れ、「是非その力を自分にも譲ってほしい」と願ったと言うのです。ペトロはこの人の考えを激しい言葉で叱責しています。ここで明らかになるのは悔い改めの伴わない信仰とは、どこまでも自分の願望を実現するためのに行われるものだと言うことです。「悔い改め」が起こっていなければ、以前としてその人は誤った方向に突き進んでいます。どんなに神の不思議な力を借りたとして、その人はますます滅びへの道をさらに加速しながら進んでいかなければなりません。それでは私達を罪から救う信仰ではなくなってしまうのです。

 ペトロは私達が神の赦しを受けるために「悔い改めよ」と勧めているのです。


4.私達の「悔い改め」を可能とする神の救いみ業

 私がキリスト者になるために求道生活をしていた教会は改革派教会ではありませんでした。ですからそこでは「教理」と言うものを教えてもらう機会があまりありせんでした。それに対して熱心に聞くことや読むことを勧められたのは先輩のすばらしいクリスチャンと呼ばれる人たちの「証し」、つまり信仰体験談と言うものを学ぶと言うことです。確かにその体験談には信仰を求める者として励ましを受けるものがたくさんありました。しかし、それだけではなく自分の迷いを深めるようなものも中にはあったことを記憶しています。

 私が読んだ信仰者の証しのいくつかには真の「悔い改め」を示すために、自分が罪を犯した相手に実際に罪を告白し、謝る必要があると言ったものが多くありました。たとえば子供のときにおもしろ半分に万引きしてしまった駄菓子屋の主人に何十年かぶりに謝罪の文章とそのとき万引きした駄菓子の代金を添えて送ったと言うようなものが記されていました。私はこの証しを読んだときに、こんなことをしないと信仰者になれないのかと正直に言って悩んだことがありました。しかし、はっきり言ってこのような行為は悔い改めがもたらす実の一つであって、悔い改め自身ではないと言えます。

 確かに悔い改めは自分の古い生き方を捨てることを意味します。しかし、なぜ私達はいままでこだわって、守り続けていた古い生き方を捨てることがな可能になるのでしょうか。それは私達がもうその古い生き方にしがみついて生きる必要がないことを知っているからです。神が私達の人生のために最善の道を準備してくださるのですから、私達は今までの古い生き方にこだわる必要は一つもないのです。ですから「悔い改め」とはこの神様の救いに目を向け、それに頼って生きる決心をすることです。ですから大切なのは私が悔い改めて何をしたのかではなく、私が悔い改めることができるために神が何をしてくださったかを知ることだと言えるのです。すべてを可能とする全能の神の力を知らなければ、私達は何もできないままにそこでとどまってしまうしかありません。しかし、神の救いは私達に新しい命を提供し、私達を古い生き方から解放する力を与えるのです。

 ペトロはですから「悔い改めて立ち帰りなさい」と人々に勧めた後、私達が何をすべきかを教えるのではなく、私達のために神がどんなにすばらしい救いの計画を立てられていたかを語り、イエス・キリストによってその計画が実現したかを人々に教えているのです。この救いの計画は、旧約聖書の中に約束され続けてきたものです。神はかつてアブラハムに『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と約束してくださいました。そして、その約束がイエス・キリストによって今実現したのです。

 神がこのようにすばらしい計画を実現してくださったからこそ、私達はもはや自分の古い生き方にこだわる必要も、束縛される必要もありません。私達はこの神によって自由に「悔い改める」ことのできる力をいただいているのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様。

 あなたのたてられた救いの計画の中に私達一人一人が確かに招かれていることを教えてくださり感謝します。御子イエスが十字架を通して実現した完全な救いによって、私達は本来あるべき場所に、神の御許に安らうことができることを感謝します。私達がこのあなたの提供してくださった救いのすばらしさを日々、知っていくことで、私達が日ごとに真の悔い改めをなし、あなたに自分の人生を委ねていくことができるように導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ペトロは民衆やその指導者たちが無実のイエスを十字架につけて殺してしまった理由について何と説明していますか(17節)。

2.ペトロは同時にこの出来事の本当の原因は何であったと説明していますか(18節)。

3.神が遣わしたメシアを殺してしまった罪が消し去られるために、彼らには何が必要であるとペトロは言っていますか(19節)。

4.「主のもとから慰めの時が訪れ」とペトロは語っています。「慰めの時」はもともと「息継ぎできる時」と言った意味を持っている言葉です。ペトロはそのときがどのように訪れると言っていますか(20節)。

5.この「慰めの時」には具体的に何が起こるとペトロは語っていますか(21節)。

6.モーセはメシアが神のもとから遣わされることについてどのような預言をしていますか(22~23節)。

7.ペトロの説明によれば神がアブラハムと結ばれた契約の中心は何であったと言っていますか。そしてその契約がどのように実現したと言っているのですか(25~26節)。

2012.1.8「すべての民が祝福を受ける」