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2018.1.21「何を聞いているかに注意しなさい」

マルコによる福音書4章21〜25節

21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。

22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。

23 聞く耳のある者は聞きなさい。」

24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。

25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」


1.福音の真理をどのように聞くのか

 今日も皆さんと一緒にマルコによる福音書からイエスの語られたたとえ話について学びたいと思います。前回は、イエスの語られた有名な「種蒔く人のたとえ話」を学びました。種蒔く人によって蒔かれた種はそれぞれ落ちた土地の状態によって豊かな収穫を手にすることができるか、あるいはそうではないかが決まります。ただ、この場合種蒔く人に求められていることは、諦めないで、豊かな収穫の時が訪れることを信じて種を蒔き続けることです。そうすれば、良い土地に蒔かれた種から豊かな収穫の実を刈り取ることができるからです。種を蒔かなければ収穫を期待することできません。ですから、私たちはみ言葉の種をまだ神を知らない人々に蒔き続ける必要があります。また、私たちが自身の心にもみ言葉の種を蒔き続けることが大切なのです。そのようにして種を蒔き続けるなら私たちの信仰生活にも豊かな収穫の時がやって来るからです。

 今日のたとえ話では「ともし火」と言う言葉が登場します。ともし火と聞くと、私たちは蝋燭の火のような灯りを想像します。調べてみるとイエスの時代のユダヤでは蝋燭はまだ一般的には使われていなかったと言うことですので、このともし火は油を燃やして作り出される灯りと考えたらよいでしょう。灯りは部屋を明るくするために使われます。ですからその灯りを使ってもっとも効率よく部屋を照らし出すためには、その灯りを置く場所をどこにするかが重要となってきます。「升の下や寝台の下」に灯りを置いても、それではわずかに足元を照らすことができるだけです。これではせっかく灯りを点けた意味がなくなってしまいます。灯りはその部屋全体を明るくするたに「燭台」(文字通りだと蝋燭を置く台ですが…?)つまり灯りを置く台の上に置くことが大切なのです。ただ、このイエスのたとえ話の強調点は次の言葉にあると考えた方がよいと思います。

「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」(22節)。

 この言葉は以前イエスがたとえ話をなぜ語るのかを説明されたときに語った言葉と関係していると考えることができます。イエスは自分がたとえで語る理由を次のように説明しています。

「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」(4章11節)。

 たとえ話でイエスが語るのは福音の真理、神の国の秘密を弟子たちにだけ伝えるためだと言うのです。だから、その真理はそれ以外の者には隠されていると言うのです。しかし、そこで語られる言葉が真理を語っているのなら、やがてすべての人にその真理が明らかにされるときが必ずやって来ます。なぜなら福音の真理はともし火の灯りと同じように、自らの存在を多くの人に明らかにすることができるからです。だから本当の真理は隠そうとしても、隠し通すことができません。なぜならその真理自身が自分の存在を周りの人々に明らかにしようとするからです。

 私たちがみ言葉の種を蒔くためには、そのみ言葉をはっきりと聞き分ける必要があります。イエスはだから弟子たちに「何を聞いているかに注意しなさい」(23節)とここで語っています。この言葉は直訳すると「何を聞いているかをよく見なさい」となります。聞いている言葉をはっきりと悟るためにはよく見る必要があると言うのです。つまり、神のみ言葉、福音の真理はいつもイエス・キリストを見つめながら聞く必要があるのです。そうすればその真理は確かに私たちの心の中を照らし、また世界を照らすことができるからです。しかし、福音の真理をこの方を見ないで、人間の科学や、個人的な経験などを通して聞こうとすれば、それはともし火を「升の下や、寝台の下に置く」ようなこととなり、結局はその福音の真理を正しく理解することができなくなってしまうのです。私たちはこのイエスのたとえ話をヒントに私たちが福音の真理、神のみ言葉に耳を傾け、その言葉を正しく聞くためにはどうしたらよいのかについて考えて見たいと思います。


2.人間の知識や科学を通して福音の真理を理解しようとする誤り

 福音の真理を私たちが聞き分けるために大切な点は、この真理はともし火のように自らの力でその確かさを証明し、自分やその他の人々の心を説得することができることを信じることです。ところが人間はこの点を誤解してしまうことがあるのです。むしろこの福音の真理を証しし、確かなものとするのは人間の知恵や自分の力だと考えてしまうことがあるからです。

 「聖書の言葉は誤りなき神の言葉です」。これはキリスト教会が最も重要だと考える信仰箇条の一つ、私たちの信仰の告白です。なぜならもし、聖書の言葉を他の人間の言葉と同列に置くなら、私たちの信仰は無意味なものとなってしまうからです。「もしかしたら間違っているかもしれない」と疑わざるを得ない人間の言葉に私たちは自分の人生を委ねることは決してできません。ましてや、その言葉から永遠の命の祝福を受けることはできないからです。

 ですから私たちが「聖書の言葉には誤りがない」ことを信じることは大切なことなのです。しかし、聖書の真理を巡ってある人々は大きな誤りを犯しています。つまり、ある人々は聖書の言葉と人間の科学を一致させることを通して、聖書の言葉の正しさを証明しようとするからです。

 アメリカの保守的なキリスト教徒の間では長年にわたって聖書と進化論の関係が問題となって来ました。進化論の見解に立つなら聖書の教える創造神話は明らかに否定されてしまうと考えるからです。そこで彼らは公立学校で進化論を教えることに反対しました。そしてそれだけではなく、彼らは聖書に基づく科学と称して、人類の歩みを説明する博物館まで作って自分たちの主張が正しいことを守ろうとするのです。一見このような活動は聖書を信じる敬虔な信仰から出て来ていると考えがちですが、実はそうではありません。なぜなら、彼らは聖書の主張 と一致しない科学をすべて否定しなければ、聖書が真理であると言うことを証明できないと考えているからです。逆に言えば彼らの主張は人間の科学を持って神の言葉が真理であることを証明しようとしていると言えるのです。実はここに大きな誤りがあります。なぜなら、神の言葉が真理であることを証明するのは、神の言葉自身であり、またその言葉と共に働かれる聖霊なる神の働きなのです。人間の科学の力を借りなければ聖書の言葉を証明できないと考えることは、聖書の言葉に対する私たちの信頼を覆すことにもなり兼ねないのです。

 私たちはここで進化論や人間の科学が正しいのかどうかを議論しようとしているのではありません。むしろ私たちは人間の科学を含めたすべての文化を与えてくださるのも神だと考えています。ですから、真の信仰者は科学を否定することなく、その成果を受け入れます。しかし、人間の科学や文化は神のみ言葉が真理であることを、福音の真理の確かさを明らかにすることはできません。真の科学者は自分たちがまだ何も知っていなことを知っています。だからこそ彼らは謙遜になって科学の探求を熱心に続けているのです。ですからそのような人間の科学を持って聖書の言葉を証明しようとすることは、ともし火を「升の下や寝台の下」に置くようなものでしかないのです。聖書の言葉は私たち人間の力を借りなくても福音が真理であることをともし火の灯りのように自らで明らかにする力を持っているのです。ですから私たちは「神の言葉には誤りがない」と言うことを信じて、そのみ言葉に信頼して耳を傾ける必要があるのです。


3.自分の経験を通して福音の真理を理解しようとする誤り

①大いなる神をミニチュアにしてしまう私たち

 私が神学生のときに、それまでインドネシアで宣教師として働いておられた入船尊先生が日本に帰国し、神学校の寮監を引き受けられて、私たち神学生と一緒に生活することとなりました。私は神学生として一時期、入船先生と共に生活しながら先生からいろいろなことを学ぶことができたことを今でも感謝しています。入船先生は日本でのすべての生活を棄ててインドネシアにまで行くほどの大胆な信仰を持っておられた反面、人を配慮する細やかな心を持っておられた方でした。先生はとても繊細な心を持っておられた方だと言ったらよいでしょうか。ところがその一方で先生の語られる聖書のメッセージには一貫して「神は大いなる方」、「大いなる神である」と言うものでした。真の神は私たちの心や頭の中に納まってしまうような小さな神ではなく、天地万物を創造し、天地万物を造り変える力を持つ絶対的な力を持つ方であると先生は繰り返して説教されたのです。

 考えて見ると、私たちはいつもこの大いなる神を自分の小さな心や知識の中に閉じ込めてしまって、小さなミニチュアのような神にしてしまう傾向があるのではないでしょうか。自分の経験や自分の心からだけ神を理解しようとしてしまうため、いつの間にかその神は何もできない、自分一人の人生さえ変えることのできない方になってしまいます。私たちの知っている神は小さな神になってしまって、聖書の語る大いなる神とは全く違ってしまうのです。実はこれこそ主イエスがたとえ話で教えようとしたともし火を「升の下や寝台の下に」置くような誤りだと言えるのです。


②自分の内側だけを見てはいけない

 先日まで私たちは礼拝の後、NHKが制作した100de名著の番組から内村鑑三の記した「代表的日本人」について学んで来ました。明治から大正時代に渡って活躍した内村鑑三は日本でも多くの人に知られる思想家の一人です。若くして札幌農学校で学び、そこでクリスチャンとなった内村は生涯にわたってその信仰を守り抜いた人物でもあると言えます。しかし、若かった頃の内村は理想に燃えたクリスチャンとして歩む反面、様々な心配を繰り返しては悩み続ける人物であったと言われています。彼は理想的な信仰者の家庭を夢見て、同じ信仰を持った女性と結婚するのですが、その結婚生活も七か月で破綻してしまうという経験をしています。そこで傷心の内村はその人生を挽回すべく、当時の彼が理想的キリスト教国と信じていたアメリカに向かって旅立ちます。しかし、アメリカに渡った内村はそこでも挫折や失敗を繰り返して悩み続けます。なぜなら、彼が理想としていたアメリカにはキリスト教国とは思えない現実が山のように存在していたからです。当時彼は、札幌農学校を創立したクラークが学んだアマスト大学に学生として通っていました。おそらくそこでも内村は見るからに暗い顔をして学生生活を送っていたのでしょう。その彼を心配して、当時のアマスト大学の校長であったシーリーと言う人物が声を掛けました。敬虔なキリスト教徒だったシーリーは内村の話を聞いて彼にこうアドバイスしたと言うのです。「君は自分の内側ばかり見るからいけない。なぜ、十字架上のイエスを仰ぎ見ないのか」。

 私たちがいくら自分の人生を反省したとしても、またその心の内を確かめたとしても、そこから真の神を見出すことはできません。もしそれを無理にしようとしたら、そこから見出すことのできる神は、自分の人生さえ変えることができない、小さな神、力のない神になってしますからです。だからイエスは「何を聞いているのかをよく見なさい」と語られたのです。それはシーリーが言うように神のみ言葉を「十字架上のイエスを仰ぎ見」ながら聞くことが大切であると言うことなのです


4.十字架のイエスを通して明らかにされた福音の真理

 それでは神のみ言葉を十字架のイエスを仰ぎ見ながら聞くとはいったいどのようなことなのでしょうか。毎日聖書を読みながら信仰生活を送るための助けとして作られている月刊リビングライフ誌では現在、パウロの記したコリントの信徒への手紙一を毎日学び続けるようになっています。教会で開催されている金曜日のフレンドシップアワーでもこのリビングライフ誌をテキストに使いますから、私たちは今、コリントの信徒への手紙をフレンドシップアワーでも学んでいるのです。この手紙を読むと当時のコリント教会には様々な混乱があったことが分かります。内部分裂や様々なスキャンダルが教会の中に起こっていて、正しい信仰生活を続けることさえ困難になっていたのです。だからパウロは手紙の中でこれらの問題に対して一つ一つ丁寧なアドバイスを送っています。パウロは彼らの犯している過ちを決して見逃すことはありません、その誤りを厳しく叱責し、細かな指示を送っています。ところがパウロはこんなに問題が山のように存在し、どうにもならないと思えるようなコリントの教会の人々をどう見ていたのかと言うところで大変私たちが学ぶべきところがあります。なぜなら、パウロはこの手紙の冒頭でコリントの教会の信徒たちを次のように評価していると言っているからです。

「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります」(1章2節)。

 パウロはここでコリントの教会の信徒たちが「私がこれから教えるアドバイスにまじめに従えば聖なる者とされるだろう」と言っているのではありません。人間の目から問題ばかりで、どうしてこの人たちが信仰者なのかと疑わざるを得ない人々に対して「あなたがたはすでに聖なる者とされている」と断言しているのです。それはどうしてでしょうか。罪人を聖なる者、神の民とするのは人間の力ではなく、神の力、イエス・キリストの十字架の力だからです。その確かな神の力が人に働くからこそ、人は聖なる者とされるのです。そして、パウロは自分がコリントの教会の信徒たちに送った様々なアドバイスもこの神の力が彼らの上に働くからこそ、無意味でなく、確かな信仰生活をコリントの教会の人々に回復させることができると信じたのです。 「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」。

 神の言葉、福音の真理はともし火のように自らの力でその存在を多くの人に知らせることができるのです。また私たちの信仰生活の上にも、その力を発揮し、確かに私たちの神は大いなる方であると言うことを私たちに教えてくださるのです。私たちはこのみ言葉の力、福音の真理に信頼して、そのみ言葉を聞いていくべきなのです。決して人間の科学や知識、あるいは個人的な経験や私たちの心のありようを通して聞こうとしてはならないのです。なぜならそれはともし火を「升の下や寝台の下に」置くようなものとなってしまうからです。私たちがみ言葉の光を燭台の上に、つまり十字架のイエスを仰ぎながら聞くならば、私たちがこのみ言葉の力によって変えられ、また祝福された人生を送ることが可能となることを信じたいと思います。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神さま

 「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」。あなたは聖書の言葉、福音の真理を私たちに与えてくださいました。その言葉はともし火の灯りのように、私たちの世界と私たちの人生を照らし出してくださいます。私たちが、人間の科学や自分の経験を通して聖書の言葉を理解しようとする過ちに陥ることなく、十字架上のイエスを仰ぎ見つつ、この言葉に耳を傾けることができるようにしてください。そして私たちが聖書が教える大いなる神を私たちの神として信じ、喜びを持って従うことができるようにしてください。

 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ともし火は部屋の中でどこに置くのが理想的ですか(21節)

2.隠れているものや秘められたものは必ずどうなりますか(22節)

3.私たちが福音の真理を正しく聞くならば、私たちはどうなるとイエスは教えていますか(24〜25節)。

4.聖書が語る大いなる神を私たちが何もできない小さな神にしてしまう誤りから免れるためには何が大切だと思いますか。

2018.1.21「何を聞いているかに注意しなさい」