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2019.1.13「水の上を歩くペトロ」

マタイによる福音書14章22〜33節(新P. 28)

22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。

25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。

26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。

27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」

29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。

33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。


1.弟子たちを送り出すイエス

①覆される印象

 今年も「主イエスに出会った人々」と言うテーマでこの伝道礼拝ではお話したいと思っています。私たちは人生の中で様々な人と出会うと言う体験をします。その中には一度だけの出会いで終わってしまうものもあれば、それからの一生を左右するような重要な出会いもあるはずです。人との出会いにおいて第一印象はとても大切であるとよく言われます。だからその第一印象を良くするために私たちは自分の身なりを整えると言う努力もします。しかし、この第一印象と言うのは案外、人の容姿や言葉遣いと言った人間の外側だけに関わる部分が多いようです。ですから実際、付き合いを始めて見るとその第一印象を大きく覆されるようなことも起こり得るのです。

 イエスの弟子たちもイエスに対して同じような体験を繰り返したと言えます。彼らはイエスとの付き合いを通して様々な体験しています。そしてそのたびに今まで自分たちがイエスについて抱いていた印象を覆されると言うことが起こったのです。今日私たちが学ぶ物語でも、弟子たちは同じような体験をしています。そしてその結果、弟子たちはイエスに対する自分たちの認識をさらに新たにされたのです。


②イエスを王としようとした群衆から弟子たち引き離す

 今日の物語は次のようなイエスの行動から始まっています。

「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた」(22節)。

 この物語の直前の部分でイエスは空腹だった五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で満腹にすると言う奇跡を行っています(13〜21節)。そしてこの体験をした群衆はイエスに対するある期待を抱き始めました。その期待とはヨハネによる福音書によれば「イエスを自分たちの王とするために連れて行こうとした」と説明されています(ヨハネ6章15節)。群衆はイエスに対して誤った期待を抱き始めていました。彼らはイエスを自分たちを苦しめるこの世の権力者たちから自分たちを解放するためにやって来てくれた政治的リーダーだと考えたのです。そのためイエスはこのような期待を抱く群衆と弟子たちをここで引き離そうとされたと考えることができます。それは弟子たちが群衆の誤った期待に影響されることなく、イエスに対しての正しい理解を得るためでした。イエスはそのために彼らをだけを舟に乗せてガリラヤ湖の向こう岸に行かせようとしたのです。


2.イエスのいない舟

①ガリラヤ湖上の試練は何のために

 しかし、ここでどうしてイエスは弟子たちとともに舟に乗ることをしなかったのかと言う疑問が生まれます。なぜなら、イエスが弟子たちとともに舟に乗っていれば、この後に起こるようなガリラヤ湖上での弟子たちの苦難はなかったとも考えられるからです。聖書はかつてイエスと弟子たちが一緒に舟に乗っているときに激しい嵐に出会ったと言う出来事を記しています(マタイ8章23〜27節)。そのとき、弟子たちと同じ舟に乗っていたイエスは風や湖をお叱りになり、その結果、嵐はすぐに止んで凪になったと言う報告がなされています(同26節)。この時の体験から弟子たちは嵐が起こってもイエスが自分たちと一緒にいてくれれば大丈夫と言う確信を抱いたはずです。しかし、今回は違いました。イエスが一緒にいないからです。だから弟子たちは案の定、湖に浮かぶ舟の上で一晩中強い風や波にもてあそばれて恐怖に苦しめられると言う体験をしたのです。このように見るとイエスはわざわざ、このような体験を弟子たちにさせるために彼らだけを舟に乗せたと考えることができます。

 それではなぜ、イエスは弟子たちに彼らが苦しみ、恐怖するような体験をさせようとしたのでしょうか。それは弟子たちにご自分のことを正しく理解することができる機会を与えようとしてからだと考えることができます。つまり、弟子たちがガリラヤ湖上で一晩中苦しむという体験は、弟子たちがイエスを正しく理解するために必要な体験であったと言うことができるのです。ヤコブの手紙では「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うとき、この上ない喜びと思いなさい」(1章2節)と教えています。信仰の試練は私たちの信仰生活とって決してマイナスなことではありません。むしろ私たちの信仰を確かなものにするために試練は与えられると考えることができるからです。この言葉の通り、弟子たちはこのガリラヤ湖上での試練を通して、イエスに対する彼らの信仰を確かなものとすることができたのです。


②イエスの祈りによって

 私たちは信仰生活に起こる「試練」と言う出来事を、どこかで私たちの資格が神から試されているような「試験」のようなものと考えていないでしょうか。私たちは神に試される受験生で、私たちの試験に対する答えを厳しく採点し、合否を決めるのが神だと考えてしまうのです。そうなると私たちは試練に会うたびに、「まだ私は神の試験に合格していない」と考えなければならなくなります。試練が続くのは神が自分をまだ十分に信頼してくださっていないからだと考えるのです。しかし、イエスが与える信仰の試練はそのようなものではありません。なぜならイエスは、弟子たちが試練に会っている間、傍観者としてではなく彼らのために祈り続けてくださっていたからです。

「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。」(23節)。

イエスはかつて十字架にかけられる前に弟子のペトロに次のように語られたことがありました。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22章31〜32節)

 イエスは試練に出会おうとするペトロのためにここでも祈っています。だから、ペトロは自分の力ではどうすることもできないような厳しい試練に出会いながらも信仰を失うことがなかったのです。むしろ、この試練はイエスの祈りによって兄弟を力づけることのできるための貴重な体験と変えられたのです。試練に出会ったとき、私たちはこのイエスが私たちのためにも天でとりなしの祈りを捧げ続けてくださっていることを覚えるべきです。私たち自身には試練に打ち勝つ力はありません。しかし、大丈夫なのです。イエスはそのような私たちが試練に打ち勝つことができるように祈り続けてくださるからです。


3.逆風に苦しむ弟子たち

 聖書を読むとガリラヤ湖に船出した弟子たちは夕方頃にすでに逆風のために悩まされ始め、自分の力では先に進めない状況に置かれます。そしてイエスが湖の上を歩いて弟子たちにところに近づいて来られたのは「夜が明けるころ」と記されています。ですから彼らはほぼ一晩中、ガリラヤ湖の上で逆風に苦しめられ続けていたのです。

 私たちは試練に出会うときに、その試練からすぐに抜け出すことができるようにと必死になって祈ります。しかし、神は目的もないままに私たちを試練の中に置き続けることはありません。だから弟子たちはこのとき一晩中、ガリラヤ湖の上で苦しむ必要があったのです。それでは、弟子たちはこのガリラヤ湖での試練を通して何を学ぶ必要があったのでしょうか。それは彼らにイエスがいなければ、イエスの助けがなければ一瞬たりとも自分たちは生きることができないと言うことを痛感するためにでした。

 イギリスの神学者のフォーサイス(1848〜1921年)は「完璧な信仰者になりたい、問題のない信仰者になりたい」と言い願望を抱く私たちの考えには重大な誤りがあると指摘しています。彼は「あなたがもし自分の思っている通りの完璧な信仰者になったとしたら、あなたの人生に何も問題がなくなったとしたら、そのときあなたにキリストは必要でしょうか」と問うているのです。「あなたはいつの間にかキリストの助けがなど必要としないような信仰者になろうとしているのではないか…」とこの考えの重大な過ちを指摘するのです。

 しかし、私たちの信仰生活にとって最も大切なことは私たちの人生にはいつもキリストの助けが必要であることを知ることなのです。もしこの方がいなければ、私の人生は一歩たりとも前に進むことができないと私たちが思えるなら、それはどんなに幸いなことでしょうか。なぜならイエス・キリストはこのように切実に自分を必要としている者に答えて、十分な助けを与えてくださる方だからです。

 ガリラヤ湖上の試練を通して弟子たちが知らなければならなかったのは、このような自分たちとイエスとの関係です。イエスがいなければ、自分の人生はどうにもならない、そのことを実際に試練を通して彼らは知る必要があったのです。そして彼らがこのことをガリラヤ湖の上で身をもって知らされたとき、イエスが湖の上を歩いて彼らに近づいて来られたのです。


4.湖上を歩くイエス

①弟子たちを見捨てないイエス

 ところがイエスが実際に湖の上を歩いて弟子たちのところに近づいて来られた時、弟子たちはそのイエスをイエスとして認めることができないと言う悲劇が起こりました。

「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」(26節)

 弟子たちが自分たちに近づくイエスを「幽霊だ」と考えたのは、肉体を持つ人間が湖の上を自由に歩くことはできないと考え、だからそれは肉体のない「幽霊」に違いないと思ったからかもしれません。しかし、もしかしたら弟子たちはどこかでイエスはもう自分たちを助けに来てくれるはずがないと思い込んでしまっていたのかも知れません。だから「もう自分たちはイエスに見放されてしまった」、「自分たちはこの湖で死ぬほかない」と考えたからこそ、彼らは湖の上を歩いて来た人物を自分たちを迎えに来た死神のように考え、恐怖して見つめたのかもしれません。しかし、イエスは弟子を見捨てられることは決してありません。なぜならイエスはイエスを信じて生きようとする私たちを捨てて「みなしご」にはしないと約束してくださっているからです(ヨハネ14章18節)。


②ペトロの手を捕まえ続けるイエス

 さてここで恐怖に襲われた弟子たちはイエスの「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)と言う言葉を聞いて、我に立ち返り、その方がイエスであると理解します。そして、そのあとさらに印象的な出来事が続いたことが報告されています。なぜなら、弟子のペトロが湖の上を歩いて来るイエスに「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(28節)と願い出たからです。ペトロがなぜこのようなことをイエスに願ったのかはっきりしません。もしかしたら、ペトロは一刻でも早くイエスのもとに行きたいと思ったのからかも知れません。

 しかし、こんな無謀なペトロの願いにもイエスはすぐに答えられ彼に「来なさい」と命じられます。するとペトロは舟から降りてイエスと同じように水の上を歩くことができたのです(29節)。しかし、すぐにペトロは「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」と言うのです。この姿はペトロだけではなく私たち自身の信仰生活の姿を現しているのかもしれません。聖書の言葉を通してイエスが自分と一緒にいてくださると言うことを教えられながらも、目の前に起こる様々な問題に心奪われて、水に沈むペトロのように私たちも悩みの中に沈んで行ってしまうからです。しかし、イエスはそのようなペトロを見捨てることはりません。すぐに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言って手を伸ばし、彼を捕まえてくださったのです。

 私たちは本当に弱い存在です。聖書を通して私たちの人生には神の助けが必ず与えられることを教えられながらも、すぐにそれを忘れてしまう愚かな者たちだからです。「自分自身に愛想が尽きる」と言う言葉がありますが、まさに私たちはこのような体験を繰り返しています。しかし、たとえ私たちが自分に愛想を尽かし、絶望したとしても、イエスは私たちに絶望することは決してありません。イエスは私たちに「信仰の薄い者はもういらない」と言われないのです。そしてイエスは私たちをつかんだ手を決して離されることはありません。

 旧約聖書の詩篇を書いた記者はこのような私たちと神との関係を次のような言葉で表現しています。

「わたしは心が騒ぎ/はらわたの裂ける思いがする。わたしは愚かで知識がなく/あなたに対して獣のようにふるまっていた。あなたがわたしの右の手を取ってくださるので/常にわたしは御もとにとどまることができる。」(詩篇73篇21〜23節)

 ガリラヤ湖上での試練を体験した弟子たちは口をそろえて「本当に、あなたは神の子です」とイエスに告白しています。彼らはイエスの姿を通して、自分たちに対する神の愛をはっきりと知ることができたからです。自分たちを決して捨てず、自分たちの手を捕まえて離さない神の姿を、この湖の上の出来事を通して彼らは知ることできたのです。このように試練は私たちのイエスに対する理解を新たにし、さらに私たちの信仰を強めるために与えられることを私たちはもう一度この物語を通しても学ぶことができるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 ガリラヤ湖の上で突風に出会い一晩中苦しめられた弟子たち、私たちも信仰生活の中で同様な試練に苦しめられるときがあります。神の子としてのイエスの豊かな力を示されながらも、荒れ狂う波や風を見て恐れにとらわれたペトロのように、目の前に次々と起こる問題に心うばれて、心乱れる私たちです。しかし、あなたはそのような私たちを決して見限ることはありません。私たちの罪ある目には見えませんが、あなたはしっかりと私たちの手を捕まえて、私たちが試練に負けることなく、信仰を持ち続けることができるようにしてくださいます。そしてむしろこの試練を通して、私たちへの神の愛を知ることができるようにしてくださることを感謝します。どうか私たちがこれからもこのイエスにだけ希望を持ち、いつもその助けを祈り求めることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスは弟子たちをどのようにされましたか(22節)。そしてご自分では何をされましたか(23節)。

2.舟に乗ってガリラヤ湖の沖に出た弟子たちはそこで何を体験しましたか(24節)。

3.一晩中、湖に浮かぶ舟の上で苦しんでいた弟子たちは夜が明けるころに湖上で何を目撃しましたか(25節)。弟子たちはそれを最初は何だと思いましたか(26節)。

4.イエスは恐怖のあまり叫び声を上げる弟子たちに何と語りかけられましたか(27節)。

5.ペトロは湖の上を歩いて自分たちに近づいて来られる方がイエスだと分かるとどのような反応を示しましたか(28節)。

6.最初、湖の上をイエスのように歩くことができたペトロはそのあとどのようになりましたか(29〜30節)。

7.イエスは湖に沈みかけたペトロをどのようにされましたか(31節)。

8.湖の上での体験を通して弟子たちはイエスについて何を知りましたか。この知識は彼らの信仰生活にどのような影響を与えたと思いますか(32節)

2019.1.13「水の上を歩くペトロ」