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2019.1.20「捨てられたイエス」

マルコによる福音書12章1〜12節(新P. 857)

1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。

3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。

4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。

5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。

6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。

7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』

8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。

9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。

10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。

11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」

12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。


1.目的を見失った人の悲劇

 今日も皆さんとともにマルコによる福音書が伝える主イエスについての物語から学びます。エルサレムに入城されたイエスは、神殿の境内で働く商人たちを追い出すという実力行使を行いました(11章15〜19節)。この行動をそのまま見過ごすことができなかったのが神殿で働く祭司たちでした。ばなぜなら神殿での商売は彼らの利権を支えるために大切な働きだったからです。彼らは「何の権威でこのようなことをするのか」(11章27〜33節)とイエスに向って強く抗議しました。ところが、自分の利益だけしか考えていない彼らは返って、イエスが尋ねた「ヨハネの洗礼は天からのものか、それとも、人からのものか」と言う質問に答えることができません。彼らはイエスが何のためにこのような行動をされたのかを理解することができなかったのです。実はイエスはエルサレム神殿を「すべての国の人の祈りの家」という本来の目的を回復させるためにこの行動されたのです。当時のエルサレム神殿は自分たちの利益だけを求める祭司たちによってその本来の目的を果たせなくなっていたのです。

 これは神殿で働く祭司たちだけの問題ではありません。私たちは目先の利害に目を向けるあまりに自分の人生の本来の目的を見失ってしまうことがあります。確かに毎日、元気に過ごすことのできる健康な生活は大切です。しかし、私たちは人生の目的は健康な体を得ることだけにあるのではありません。問題は、その健康な体を使って何をしていくのか、本来の人生の目的を果たすことが大切なのです。どんなに老後のために素晴らしい環境が整えられていても、残された人生の時間を何のために使って生きるのか、そのことを忘れてしまえば、私たちは空虚な余生の時間を過ごすほかありません。

 イエスはこのエルサレム神殿だけではなく、私たちの人生をも本来の目的に戻してくださるために、私たちの元に来て下さった救い主でもあります。ですから、私たちがこのイエスの言葉に耳を傾け、私たちの人生に神が与えてくださった目的を知ることができるなら、私たちの人生は本来の輝きを取り戻し、祝福されたものとなるのです。

 イエスの神殿での行動は人々の生活を破壊し、彼らを滅ぼすためのものでは決してありませんでした。むしろ本来の目的を見失った人々の誤りを正し、彼らを救おうとされるためにあったのです。ところが、それをユダヤ人たちは理解できないのです。その彼らの無理解が続けて語られるのが、イエスが語るたとえ話、「ぶどう園の農夫」のお話です。


2.農夫たちのたくらみ

①イザヤ書のたとえ話とイエスのたとえ話

 イエスはここで突然、ぶどう園の話を語りだします。しかし、このぶどう園の話は聖書をよく読んでいる人々には聞き慣れた物語でもありました。なぜなら旧約聖書のイザヤ書にはこのお話とよく似た物語が記されているからです(イザヤ書5章)。そこでもぶどう畑の持ち主は「(その畑を)よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った」(イザヤ書5章2節)と語られています。ところが、イザヤ書では収穫の時期になって畑に実ったのは使い物にならない「すっぱいぶどう」だったと語られています。実はこのお話は神とイスラエルの民との関係を教えています。ぶどう園を作り、そこにぶどうの木を植えたのは神ご自身です。そして畑に植えられたぶどうはイスラエルの民を表しています。神はイスラエルの民に十分な恵みを与えたのに、イスラエルの民は神に背を向ける民となってしまったと言うことをこの話は語っています。

 イエスの語られたたとえ話はこのイザヤの語ったたとえ話とよく似ています。しかし、ふたつの話の焦点は少し違っています。イエスが語ったたとえ話の中で問題になっているのは畑に植えられたぶどうではありません。イエスのお話にはイザヤと違って新たに、このぶどう園の管理を主人から任された農夫たちが登場しています。そしてこのお話で焦点となるのはこの農夫たちの行動なのです。


②神のものを自分のものにしようとする誤り

 ぶどう園の主人の十分な準備の結果、収穫の季節になると、ぶどう園にはたくさんのぶどうが実りました。ところがここでぶどう園の管理を主人から任されていた農夫たちは、ぶどう園の収穫物のすべてを自分のものにしようと企んだと言うのです。彼らはそのために主人が収穫を受け取るために送った僕を「ふくろだだきにし、何も持たせないで帰し」てしまうと言う暴挙を行います。ところが主人はこの理不尽な農夫たちの行為にもかかわらず、再び僕をぶどう園に送ります。しかし農夫たちはこの僕にも同じような態度で臨み、こんどはその使いの「頭を殴り、侮辱し」ます。それでも主人は諦めずに、さらにもう一人の僕を送ります。すると農夫たちは、今度はその僕を殺してしまったのです。この後も主人は同じようにぶどう園に自分の僕を送りますが、農夫たちはこの僕たちを同じように殺したり、ひどい目にあわせたりしたと言うのです。

 この箇所の結論の部分でイエスからこのお話を聞いていた人々、おそらく彼らは11章27節に登場してイエスの持つ権威を尋ねた「祭司長、律法学者、長老たち」のことを言っているのだと思います。彼らは「イエスが自分たちにあてつけてこのたとえ話をされたと気づいた」(12節)と記されています。彼らはイエスがたとえ話の中で語った悪い農夫たちが自分たちであり、神が彼らにゆだねたぶどう園はイスラエルの民を表していることが分かったのです。そしてこのたとえに登場する主人の僕たちは洗礼者ヨハネのような旧約時代の預言者たちを表していると考えられます。なぜなら、彼らはこのヨハネのアドバイスに耳を傾けることがなかったからです。イエスはこの話の中でエルサレムの宗教指導者たちが神の民を神から奪い取って、自分のものにしようとしていると語ったのです。

 こんなお話があります。一人の子どもがめずらしくお母さんのお手伝いをし始めました。そして一通りお手伝いを終えたその子どもはお母さんに一枚の紙を渡しました。お母さんがその紙を見るとそこには「請求書」と言う文字が記されています。そしてその請求書には細かい明細が書かれています。お皿を洗ったこと50円、お風呂の掃除50円、犬を散歩に連れて行ったこと50円、部屋のお掃除50円、その請求書の金額は合計200円と書かれていました。子どもはこの請求書で自分がしたお手伝いの代価を求めたのです。しばらくして、その子どもは自分の勉強机の上にお母さん置いた200円と一緒に手紙が置かれているのに気が付きました。その手紙を開いて見るとそこにも「請求書」と言う文字が書かれています。ところがそこに書かれている項目は子どもが書いたものとは全く違っていました。毎日ご飯を作ってあげていること「ただ」、あなたが病気のときにお医者さんに連れて行って、一晩中看病したこと「ただ」、あなたのために洋服やおもちゃを買ってあげたこと「ただ」。いままであなたを育ててあげたこと「全部ただ」。

 当時のユダヤ人たちは「律法主義」言う誤った考えを持っていました。彼らは自分が行った善い行いに応じて神は恵みを与えてくださると考えたのです。しかし、神の与えてくださる恵みはすべて「ただ」なのです。神の恵みは私たちの行った行為に対する代価では決してないからです。むしろ私たちが毎日生きることができることすべては神が与えてくださる恵みの結果であると言えるのです。だから神に請求書を送るのは誤りです。しかし当時、エルサレムを支配した人々は神に不当な請求書を送るどころか、すべてのものを自分のものにしようとする大変な誤りを犯していたのです。


3.遣わされた息子

 イエスのたとえ話はさらに続きます。ぶどう園の主人は自分が遣わした僕たちが皆ひどい目に会って、殺されてしまった者もいるのに、それでも諦めませんでした。主人は、今度は僕ではなく、自分の「愛する息子」をぶどう園に送ることを決断します。それは農夫たちも「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と思ったからです。しかし、ぶどう園の農夫たちにはこの主人の心が全く理解できません。そして彼らは主人が最後に送った息子を「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と言って、その主人の息子を捕らえて殺し、ぶどう園の外に放り出してしまったのです。これは大変に残酷なお話です。農夫たちの行動は常軌を逸していると言ってもよいでしょう。しかし、このイエスの語られたたとえ話の内容はこの数日後に現実のものになったのです。なぜなら、祭司長、律法学者、長老たちは神がこの世に遣わされた、神の独り子であるイエスを捕らえ、十字架にかけて殺してしまったからです。

 主人はこんなにひどいことをした農夫をそのままにしておくはずがありません。そこで主人自らが戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えてしまうと言う結末がイエスによって語られています。私たちは先週の聖書研究会でローマの信徒への手紙から「ユダヤ人の罪」について学びました。ユダヤ人は神の言葉を与えられるという特権を与えられていました。ところが彼らはその特権を自分たちで独占しようとする過ちを犯しました。だから神の言葉は彼らから取り上げられ、ユダヤ人以外の異邦人に伝えられることになったのです。

 これはユダヤ人だけに限られた問題ではありません。私たちは今、イエス・キリストを信じて、その救いの恵みにあずかるという特権が与えられています。しかし、この特権は私たちだけが救われればそれでよいと言うことのために与えられているのではありません。救いの特権を与えられた者には、それをふさわしい方法でこの特権を用いることが求められているのです。だから先に救いの恵みにあずかった私たちは、その救いを神に感謝して、さらに多くの人々にこの恵みを証し、その人々にも同じ神の恵みが与えられるように行動することが求められているのです。


4.神の摂理と人の思い

 さて、イエスによって語られたたとえ話は農夫たちの悲劇的な最後で終わってしまうのではありません。なぜならイエスはその後、この物語の本当の意味を旧約聖書の詩篇118編の言葉を引用して説明されています。

「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える」(10〜11節)。

 家を建てる者が「使いものにならない」と考えて、捨ててしまった石が、建物を四隅で支える大切な親石(頭石)として使われるようになったとこの詩篇は語っています。そしてこの言葉はそのままイエスの十字架の出来事を表していると言うのです。なぜなら、ユダヤ人の指導者から邪魔者、いらない物として取り扱われ、十字架にかけられて殺されたイエスでしたが、同時にこのイエスの十字架によってこの世界を救おうとする神の計画が実現したからです。人の目から見れば、イエスの活動は失敗して、彼は人々から見捨てられて、十字架の上で無残な死を遂げたとしか思えないようなものでした。しかし、このイエスの十字架の出来事は神の救いの計画を完全に実現させる働きを担ったのです。「隅の頭石」がなくなってしまったらその家は崩壊してしまいます。イエスの十字架がなければ私たちの世界も、私たちの人生も滅び去るほかないのです。このイエスの十字架が実現したからこそ、この世界に希望が与えられ、私たちの人生に神の素晴らしい救いの御業が実現したのです。

 この言葉は同じ出来事であってもこの世の見方と、神の見方が全く違うことを私たちに教えています。人の目から見れば完全な失敗と判断されるものであっても、神の見方から見れば全くちがって見えるものがあります。神から見ればそれこそが大切であり、最も重要なことだと言えるものを、人は失敗だと判断することもあるのです。福音書はイエスを信じる私たちにも、神の計画を通してすべての出来事を判断するようにと教えています。

 このマルコによる福音書は最初、ローマに住む信徒たちのために書き送られたものだと考えられています。彼らは当時、ローマ帝国から激しい迫害を受けていました。なぜなら、ローマ帝国はすべての住民にローマ皇帝を神とするようにと命じていたからです。ところがキリストを信じる彼らは決してローマ皇帝を神とすることはできませんでした。彼らにとって神とは十字架にかけられたイエス・キリストであり、その独り子を遣わしてくださった天地万物を造られた神以外にはおられなかったからです。この信仰のゆえに、ローマに住むキリスト者は今まで持っていた財産や身分を失ったり、命さえ奪われるという立場に立たされていました。彼らはローマの市民から必要のない者たちとして見捨てられる立場にあったのです。

 マルコはこのローマの教会の人々を励ますためにこの福音書を書きました。ですから家を建てる人が捨てた石が、建物を支える親石となったと言う言葉は、直接にはイエスの十字架を指しているものですが、同時にこの言葉はローマで命がけの信仰の戦いを続けている人々のことでもあったのです。マルコはこのイエスのお話を通して「あなたたちの信仰の戦いは決して無駄ではない、あなたたちの存在はやがて実現する神の救いの計画のためになくてはならないものだ」と教えようとしたのです。私たちの目の前に起こる出来事もこの世の常識や価値判断からすれば、失敗であり、不必要なものと考えられるものがあります。もしかしたら、私たちは自分の存在自身をこの社会は不必要なものと判断されているのではないかと思わされることがあります。しかし、神の判断はこの世の判断と全く違うことを私たちは聖書の言葉を通して覚える必要があります。なぜなら、私たちのために建てられた神の計画はこの世の知識や経験を超えて確かなものだからです。イエスが隅の親石にされたように、このイエスに救われた私たちの命も、神の計画の中で重要な働きをするために用いられることを、私たちは今日の物語を通してもう一度確認したいと思います。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 家を作る人々に「つかいものはならない」と判断され、捨てられた石のように、私たちの主イエスはユダヤの支配者たちによって十字架にかけられ、その命を奪われました。しかし、神のすばらしい計画はこのイエスの死を通して実現しました。イエスの死が罪に支配されたこの世界と私たちの人生を救いへと導くものとなったことを心から感謝いたします。この「隅の親石」であるイエスの命によって救われた私たちの人生も、同じように神の計画の中で十分に用いられることができるように、私たちの信仰生活をさらに導いてください。私たちが与えられた救いの特権を用いて、人々にイエスの福音を伝え、神の救いの計画に信頼して生きていくことができるように助けてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスはここでどんなたとえ話を語られていますか(1〜9節)。このたとえ話はどんな人に語られたものでしたか(11章27節、12章12節)。

2.このたとえ話に登場するぶどう園を作った主人、その畑の管理を任された農夫、そして主人の元から遣わされた僕たち、さらに主人の愛する息子はそれぞれ実際には、どんな人を表していますか。

3.ぶどう園で働く農夫たちはどうして、ぶどう園で獲れた収穫物すべてを自分たちのものにしようとしたのでしょうか。

4.ぶどう園の主人が次々と送った自分の僕たちが農夫たちからひどい目に会い、殺されてしまっても、決して諦めることなく、最後に自分の愛する息子を送ったのはどうしてだとあなたは思いますか。

5.「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と言う詩篇の言葉を引用して、イエスはどんなことを説明していますか(10〜11節)。

6.あなたは今までに自分の存在を役に立たないとか、人々に捨てられてしまったと思うような体験をしたことがありますか。そんなあなたに今日のイエスの言葉は何を教えていると思いますか。

2019.1.20「捨てられたイエス」