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2019.1.27「神のものは神に返す」

マルコによる福音書12章13〜17節

13 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。

14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」

15 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」

16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、

17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。


1.ローマの信徒たちの戦い

①信仰者はローマ皇帝とどう付き合うか

 今日も皆さんと一緒にマルコによる福音書が伝えるイエスについての物語から学びます。今日の箇所ではイエスが語られた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言う言葉が記されています。おそらく、この言葉はイエスの語られた言葉の中でも最も有名な言葉の一つだと言えるかもしれません。少し前にテレビの連続ドラマを見ていたら、そのドラマの主人公の探偵が悪者たちに向かって「カイザルのものはカイザルに」と言う決め台詞を語っていました。このドラマの主人公は決して税金のことを言っているのではありませんでした。おそらく、このイエスの言葉は語った本人の気持ちから離れて、勝手に独り歩きをしているように思えます。確かにたくさんの人に知られる有名な言葉になりましたが、その言葉の本当の意味を理解する人は少ないのかもしれません。それではいったい、イエスはこの言葉をどのような意味で語ったのでしょうか。

 この言葉の中に登場する「皇帝」と言う言葉は私たちにはあまり縁のないもののように思えるかもしれません。しかし、実際には日本の天皇も外国では「エンペラー」つまり皇帝と紹介されていますから、全く私たちの生活に無関係なものとはないとも言えます。イエスがこの言葉を語られたときのこの「皇帝」は明確に当時のローマ帝国の皇帝のことを表しています。ローマはかつて地中海一帯のヨーロッパ、アジア、アフリカと言う広大な領地を支配した帝国です。イエスがここで語る「皇帝」はこのローマ皇帝を指しているのです。なぜならイエスが活動された時代のユダヤの国はこのローマ帝国の支配下に置かれていたからです。

 先日も少しお話したように、このマルコによる福音書は最初、ローマに住むキリスト教信徒を対象にして書かれたものだと言われています。ローマ皇帝の宮殿があったローマの町の住民がこの福音書の最初の読者だったのです。ですからこの福音書の読者たちにとって「皇帝」と言う存在はとても身近なものであったと考えることができます。彼らは実際にローマ皇帝の名のもとに迫害を受けると言う厳しい状況に立たされていました。だから彼らにとっては自分たちを苦しめるローマ皇帝とどう付き合っていくのかはとても重要な問題だったのです。このような意味でマルコはローマ皇帝に関するイエスの発言を取り上げて、ローマの教会の人々が信仰生活を送るためにローマ皇帝とどのように付き合い、どのように対処すべきかを教えたのだと言えます。


②礼拝を守り続けたローマの人々

 実際にこの時代の信仰者たちは私たちとは比べ物にならないほどの厳しい条件下で信仰を守り、教会で礼拝をささげていました。今、「教会」と言いましたが、この時代の信徒には特別に教会と名がつく建物はなかったと考えられています。おそらく彼らは仲間の信徒の家などを使って礼拝をささげていたようです。私たちは日曜日に日常の仕事を休んで教会に出席し、礼拝を献げることができています。それは日本でも明治時代に日曜日を休みとする西洋のカレンダーの制度が政府によって採用されたからです。そして西洋で日曜日が休日になった理由は、この日が一週間に一度教会で礼拝を献げる日と定められていたからです。

 しかし、マルコによる福音書が書かれたころ、日曜日に仕事が休みとなるという習慣は存在していませんでした。だから、この当時のキリスト教徒は毎日曜日の早朝、仕事を始める前に集まって礼拝を献げたり、あるいは夕方、各自の仕事を終わってからから教会に集まって礼拝を献げていたと考えられています。この時代、地方のある地方総督がローマ皇帝トラヤヌスにあてて当時のキリスト教徒が日曜日に集まって何をしているかを報告した文書が現存しています。

「彼らはある特定の日、日の出前に集まって、ともに神としてキリストに賛美をささげ、誓いを立てて、交わりをなしている。それは何か犯罪をたくらんでいるわけではなく、盗みや姦淫などをしないこと、約束に背かないこと、また預かり物の返却を求められた時にはそれを拒まないことを誓うのである。この集会の後、いったん解散してから再び集まって食事をするが、そのときの食べ物はごくふつうのものである…」

 この報告書には教会はローマ帝国に反乱を企てているような悪しき者たちの集団ではないことが記されています。ただ彼らは熱心に礼拝を守り、兄弟姉妹との間で交わりを深めていただけなのです。教会はローマ帝国と戦う武器を一つも持たない集団でした。しかし不思議なことにローマ帝国はやがてこのキリスト教信仰を受け入れています。ローマの皇帝さえも信仰を告白して信者になったのです。この事実を思い起こすとき、何よりも私たちにとって大切なのは教会に集って神を礼拝することであることがわかります。そしてこの礼拝こそが世界を変え、私たち一人一人の人生を変える力となるのです。


2.税金を納めるべきか

①イエスの殺害を計画する宗教会議のメンバーたち

 イエスのエルサレム入城後に起こった様々な出来事によって、エルサレムを支配する宗教議会の議員たちはイエスとの対立の溝を深めて行きました。そして彼らはイエスを殺害するための計画を実行に移そうとしていたのです。

 宗教会議のメンバーたちがイエスの殺害を実行するためには大きく二つの問題があったと考えることができます。一つはイエスを支持する民衆の問題です。もし民衆に人気のあるイエスを投獄したり、さらには殺害すれば、その非難を宗教議会のメンバーはまともに受けなければなりません。そうなれば民衆が自分たちに反感を抱き、反旗を翻すようになるはずです。自分たちの地位はもちろんのこと、命さえ危ぶまれる状況に追い込まれるかもしれません。だから、彼らはその民衆からの非難を免れるためにイエスに対する民衆の支持が失墜すること、民衆がむしろイエスに見捨てるような状況を作る必要があったのです。さらにもう一つの問題がありました。それは当時自分たちユダヤの宗教議会にはイエスを正式に死刑にする権限が与えられていなかったのです。当時このエルサレムの町で、死刑のような極刑を犯罪者に下すことができたのはローマの役人である総督だけでした。だから、彼らはどうしても総督がイエスを死刑にしてくれるような罪状を自分たちで見つけ出さなければならなかったのです。もし、イエスがローマの支配に反旗を翻すような反乱分子であれば、死刑を求める正当な理由となるはずです。この二つの問題をクリアするために、今日の福音書に記された質問内容が生まれたと考えることができます。

「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」(14節)。


②イエスを死刑にするための質問

 私たちがよく知るクリスマス物語の中でローマ皇帝が全領土の住民に対して登録を命じた勅令が出ています。この人口調査は何のために行われたのでしょうか。この調査はローマの領土のうちに住む人々から税金を徴収するために行われた命令でした。当時、ローマ帝国は全領土に住む人々に「人頭税」と言う名目で税金を支払わせていました。そしてユダヤではこの税金が大きな問題となって行ったのです。なぜなら、ローマに税金を払うと言うことは自分たちがローマの奴隷になったと言うことを認めることだと考える人々がいたからです。ですから、この税金の支払いを拒否して、ローマに対して反乱を起こす事件が実際にあったのです。もちろん、この反乱はすぐにローマ軍の巨大な力で鎮圧されてしまいました。しかし、この思想を受け継ぐ人々がイエスの当時にもたくさん残っていたのです。それが聖書の中で何度か登場する「熱心党」と呼ばれる人々です。イエスの弟子の中にもこの熱心党出身の人物が含まれていたと言います(熱心党のシモン)。この熱心党のメンバーの主張は当時、民衆に支持されて大きな影響力を持っていました。実際に当時の民衆はローマの圧政に苦しめられていました。そして民衆はエルサレムに入城して来られたイエスこそ、このローマの圧政から自分たちを解放してくれる救い主だと信じていたのです。だから、もしイエスが「皇帝に税金を払いなさい」と言えば、ローマの支配を快く思わない民衆の支持を失い、イエスと民衆の間を引き離すことに成功できるのです。

 それではもし、イエスが「ローマ皇帝に税金を払うべきではない」と答えたらどうでしょうか。宗教議会のメンバーはこの発言を理由にイエスが熱心党と同じようにローマに反乱を企てている反逆者であると訴えることができました。ここには「ヘロデ派」と呼ばれる人も登場しています。彼らはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスを支持する人々でした。ヘロデはローマ皇帝と結びついていましたから、イエスがもしローマ皇帝の支配に反する発言をしたら、すぐにそのことをローマに密告される可能性がありました。そうすればイエスは間違いなくローマの手で処刑されるはずでした。


③皇帝に借りているものは返す

 しかし、イエスはこの質問をした人々の魂胆を最初から見抜いていました。だからすぐに次のような指示を彼らに送ります。

「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」(15節)

 そしてイエスは銀貨を手に取って続けて質問します。「これは、だれの肖像と銘か」と。当時、流通していたローマの銀貨には皇帝であったティベリウスの肖像が刻まれ、「聖なるアウグストの子皇帝ティベリウス」と言う文字が刻まれていました。だから、彼らは「皇帝のものです」と答えざるを得なかったのです。そこでイエスは「皇帝のものは皇帝に」と語りました。

 ローマの通貨を使っていると言うことは自分がローマの支配の中で生きていることを表す証拠となります。だから、ローマのものをローマに返すことは、信仰に反する行為ではないとイエスは教えたのです。「借りたものを返す」と言う義務は信仰者にとっても大切な教えだからです。

 最初に紹介した初代教会の活動の報告にも「預かったものの返却」と言う話題が教会の人々の中で語られていたと記されていました。もしかしたら、これは実際にマルコによる福音書のこのイエスの言葉を読んだ人々の反応だったのかもしれません。国家の保護の下にある者はその国家に対する義務を果たすことが「借りたものを返す」と言うことになるからです。


3.神のものは神に返せ

 大変に興味深いことにイエスはここでローマ皇帝に対する納税の義務を論じるだけではなく、私たちにとってもっと大切なことがあることを教えています。それが「皇帝のものは皇帝に」と言う言葉に続く「神のものは神に返しなさい」と言う言葉です。私たちには国家に対する義務を果たすこと以上に大切なことがあります。それが「神のものは神に返しなさい」と言う教えです。それではイエスが言う「神のもの」とはいったい何のことなのでしょうか。私たちは神に何を返さなければならないのでしょうか。

 「神のもの」、それは神が創造してくださったこの世界のすべてのものであると言えます。その中にはもちろん私たちに人間も含まれています。特に人間にはローマの銀貨に描かれた皇帝の肖像や銘のように、神の像と銘が記されていると聖書を教えています。旧約聖書に記された人間創造の物語の中には次のような不思議な言葉が記されています。

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(1章27節)。

 この聖書の箇所を読むと、神と人間の形はどこが似ているのかと私たちは疑問に思うかもしれません。もちろんこの言葉には今まで神学的には様々な説明がなされて来ました。しかし、もし神の形を銀貨に刻まれた肖像、あるいは銘のようなものだと考えるなら、人間には最初から神のものであると言う印がつけられていることになります。だから「神のものは神に返しなさい」と言う言葉は私たちが私たち自身のものではなく、私たちを創造してくださった神のものであることを認めることだと言うことができます。私たちがこの間まで毎月学んできたハイデルベルク信仰問答第一問には私たちを支える慰めの核心が「それは私が私自身のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものであること」と教えています。私たちの人生が私たちのものではなく、神のものであるところにすべての祝福の源があると言っているのです。

 私は今から30年近く前に一時期、フルートを学んだことがあります。フルート教室の先生の元に通い、レッスンを受け、毎日、自宅でも熱心にフルートを吹く練習をしました。しかし、私のフルートはなかなか上達しません。私が不器用なせいもあったのかもしれません。練習曲もなかなかものにすることができません。その上、私がいつも感じたことは先生の吹くフルートと自分の吹くフルートの音色が全く違うのです。「先生のようにきれいな音色が吹けたら」と私は思いました。どんなに練習しても私の吹く音色は一向に変わりません。そのうちに私は、これは自分が持っているフルートに欠陥があるのではないかと思うようになりました。なぜなら、先生がいつも吹いているフルートは演奏家用に造られた銀でできた高級なものでした。一方、私のフルートは真鍮で作られた安物だったのです。お金を貯めてフルートを買い換えないとだめかなと思うようになったときです。先生が私の持っていたフルートを「ちょっと貸してみなさい」と言って、自分の手にとり、それで曲を吹き始めたのです。私はそのときのフルートの美しい音色に驚かされました。「何てきれいな音色だろう」と感動したことを今でも思い出します。問題はフルートではなかったのです。フルートを吹く人間が未熟だから美しい音色が出なかったのです。

 「神のものを神に返す」と言う言葉は私たちの人生を最大限に用いることができる元々の持ち主である神に返すと言うことを意味しているものなのです。ですから「神のものを神に返す」と言うイエスの勧めは、私たちが自分の人生を生きるために最も大切な教えであると考えることができるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 主イエスは私たちのために「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と教えてくださいました。この地上の生活の中で信仰者として正しく義務を果たすことができるように、私たちを助けてください。何よりも私たちが、私たちの自身の真の所有者である神に自分の人生をゆだねて生きることができるように助けてください。そのためにも、私たちが全身全霊を持って神を礼拝する生活を送ることができるように、聖霊を送り、私たちの信仰生活を導いてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ファリサイ派やヘロデ派の人々はイエスに何をするために質問をしましたか。その質問の内容は何でしたか(13〜14節)。

2.彼らはこの質問に対するイエスの答えをどのように予想していましたか。

3.イエスは自分に対してこの質問を向けた人々の下心を見抜いてどう対応されましたか(15節)

4.「皇帝のものは皇帝に返す」と言う言葉はあなたの人生に関係のある言葉だと思えますか。もしそう思えるなら、あなたは何をすることが大切だと思いますか。

5.同じように「神のものは神に返す」と言う言葉はあなたの人生とどのように関係してくると思いますか。

2019.1.27「神のものは神に返す」