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2019.1.6「イエスの権威」

マルコによる福音書11章27〜33節(新P. 85)

27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、

28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」

29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。

30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」

31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。

32 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。

33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」


1.権威とは何か

①イエスの行動に対する祭司たちの反応

 今日も皆さんと一緒にマルコによる福音書が伝える主イエスについての物語を学びます。イエスはエルサレムに到着された後、神殿の「異邦人の庭」で働く商人たちを追い出すと言う行動を起こされました(11章15〜19節)。それは本来、神を信じる異邦人、つまりユダヤ人以外の外国人が訪れて祈りを献げるために作られていた場所を商人たちが占拠してしまっていたからでした。当時のエルサレム神殿にあった「異邦人の庭」の光景は「ユダヤ人だけが救われればそれでよい」と言う彼らの利己的な考えを表すものでした。これは明らかに神の御心から外れた光景だったのです。だからこそ、イエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」という旧約聖書の言葉を引用して、異邦人の庭から商人たちを追い出すという行動に出たのです。このイエスの行動は神の御心に従って行われたものであったのです。

 しかし、この神殿で商売をしていた人たちは、そこに来て勝手に商売を始めた訳ではありませんでした。ここで商売をするためには神殿を管理していた祭司たちの許可が必要だったのです。ですから先日もお話したように、ここで働く商人たちの大半は祭司たちの使用人であったり、身内のものだったと考えられています。つまり、神殿を管理する祭司とここで働く商人たちはファミリー企業の一員であり、利益を共有する仲間たちだったのです。ですから、イエスが神殿から商人たちを追い出したことを祭司たちが黙って見過ごすということは決してありませんでした。祭司たちは自分たちの利益が失われることを恐れましたし、そのようなことをしでかしたイエスに対して一層の憎しみを抱くこととなったのです。今日の物語はその祭司たちの反応から始まっています。

「一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った」(27〜28節)。

 このとき神殿にやって来られたイエスの元に、「祭司長、律法学者、長老たち」が近づいて来ました。ここに集まった祭司長は神殿で働くサドカイ派のメンバーであり、律法学者はファリサイ派に属する人々です。また長老たちは町の顔役たち、今でいえば自治会長と言ったらよいでしょうか。ついでに言えば、この三者はそのままエルサレムにあった宗教議会「サンヘドリン」を構成するメンバーたちでした。イエスは彼らによって数日後に捉えられ、死刑に処せられるためにローマ総督に引き渡されています。


②誰の許可を得ているのか?

 その彼らがイエスのところにやって来て、次のような質問をします。

「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」(28節)

 「権威」という言葉がここでは使われていますが、簡単に言えば、「誰の許可を得たのか」というような問いを彼らはイエスにしているのです。もちろん、この場合の許可は誰が出してもいいというものではありません。許可を出す権限を持った者だけがそれをすることができます。権限を持たない者が出した許可は決して有効なものではありません。

 最近、教会によく「電話の回線を変えてほしい」というセールスの電話が教会にかかってくるとこの礼拝でも以前、皆さんにもお話しました。その際、電話の相手は「電話を管理している方をお願いします」とまず話し出して来ます。どんなにそのセールスマンの話に耳を傾けて聞いたとしても、電話の回線を変更する権限を持った人でなければ話は進みません。だから、電話の最初にいつもこのような質問をして来るのです。

 イエスは誰の許可を得て、神殿で働く商人たちを追い出すことができたのでしょうか。さらにイエスは神殿でそこに集まる人々に神についてのお話をされていたと他の箇所で紹介されています。ですから彼らはイエスが神殿でなされているこれらの行為は誰の許可によって行っているのかと尋ねているのです。もちろん、彼らがこう尋ねるのは、そのような許可を出せるものは自分たち以外にはいないという考えがあったからです。

 祭司長、律法学者、長老たちは自分たちから許可ももらっていないのに、どうしてこんなことができるのかとイエスに質問しているのです。またもし、神殿で聖書について教えているならば、その知識は誰から教えてもらったものなのかをイエスに尋ねているのです。もしその許可がなければイエスの行為は決して許されるべきものではありません。そうなるとイエスは罰を受けなければならない犯罪を犯してしまったことになります。

 ここではイエスはどんな権威を持っているのか、そしてその権威は誰から与えられたものなのかということが問題となっているのです。しかしこの問いに対する答えは簡単です。イエスは神の権威を持って、神殿で行動され、また教えられていたのです。イエスが持っていた権威は天の父なる神さまが直接に与えられたものだからです。

 イエスはこの後に十字架につけられ、さらに三日目に復活されます。そしてその後に、天に昇られています。そのとき地上に残された弟子たちにイエスは次のような言葉を語っています。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28章18〜19節)

 イエスは神が創造された天と地、この世界のすべてのものを自由に従わせることのできる権能、つまり権利と能力を神から授かっていると弟子たちに語っています。そしてそのイエスの権能に基づいて弟子たちが世界に派遣されたのです。


③神の言葉である聖書の権威

 先日、ある方とお話ししていて牧師の資格を得るための受けなければならない試験についてお話する機会がありました。その話をしたらその方は、「へえ!牧師になるのに試験が必要なのですか」と驚いておられました。当然ですが、牧師になるためには教会が行う試験に合格しなければなりません。だから、誰もが自由に牧師になれる訳ではないのです。それはどうしてでしょうか。お話がうまければ、あるいは教会経営の才能があれば牧師になれるのではないかと思われる方がいるはずです。しかし、そうではありません。なぜなら、牧師は教会に一切の権能を授けてくださったイエスのために働くという重要な勤めを任されているからです。そして牧師がこの権能を行使できるためにはそれを授けてくださったイエスの言葉に従う必要があるのです。

 だから牧師の役割には様々な制約が伴って来ます。特に牧師が教会の礼拝でこのようにお話をするためには、聖書に基づいたお話をしなければなりません。私たち改革派教会の牧師は、この聖書を教会で偏りなく、体系的に説明するとい勤めが託されています。だから改革派の牧師はウエストミンスター信仰基準という聖書の教えを体系的に記した書物の内容を踏まえて聖書のお話をしなければなりません。教師試験はその受験者が聖書を正しく伝えることができるかどうかを調べる重要な試験なのです。

 それでは牧師はどうして、それほどまでに聖書を正しく伝える必要があるのでしょうか。それは聖書の言葉が正しく伝えられるとき、神ご自身がそこで働いて下さるからです。聖書の言葉が教会で正しく伝えられるとき、その言葉はその人の理解力を超えて、神の御業を実現させるという力を発揮するのです。それはなぜでしょうか。聖書の言葉には権威があるからです。この権威は聖書の言葉を講壇で語る牧師自身が持っている権威ではなく、神ご自身の権威なのです。

 この聖書のみ言葉を語る権威は牧師だけにゆだねられているものではなりません。皆さんも、忠実に聖書の言葉を信じ、それを語り伝えていくならば、その言葉には神の権威が生じるのです。人を動かし、変えることができるのは人間の巧みな説得力の力ではなく、この神の権威です。だからこそ、私たちはいつでも、自分の考えや言葉ではなく、聖書の言葉を忠実に語り伝える必要があるのです。


2.洗礼者ヨハネの権威と彼の証言

 真の権威は神に基づくものでなければなりません。神だけがこの世界を変え、また私たちを変える力を持っておられるからです。私たちの主イエスはその神の権威を持ってこの地上に来てくださり、私たちのために救いの御業を成し遂げてくださったのです。

 ところがイエスに権威についての質問をした祭司長、律法学者、長老たちはそのことがよく分かっていませんでした。それは次に出されたイエスの質問によって明らかになります。

「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」(29〜30節)

 ここでイエスが取り上げているのは福音書の最初に登場する洗礼者ヨハネのことです(1章)。ヨハネは荒れ野で人々に悔い改めを求めるメッセージを語りました。そしてたくさんの人々がこのヨハネのメッセージを聞いて、彼の元にやって来て、罪を告白し、洗礼を受けたのです。この会話がなされた当時、すでに洗礼者ヨハネはヘロデによって処刑されていました。しかし、それでもなお多くの民衆が洗礼者ヨハネを忘れずにいて、彼を慕っていたのです。このヨハネは決して、エルサレムの宗教指導者から許しを受けて荒れ野で活動したのではありませんでした。彼の行動や彼のメッセージに権威があったのは、彼が神の御心に忠実に生き、神からいただいたメッセージを語ったからです。だからヨハネの語ったメッセージはそれを聞いた多くの人々の心を動かすことができたのです。

 彼らはこの質問を受けて困ってしまいます。それは彼らが次のように考えたからだと言うのです。

「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。」(31〜32節)

 彼らはここでジレンマに陥ってしまっています。彼らはヨハネの権威が神に基づくということを信じてはいませんでした。しかし、それを正直に語ったら、ヨハネを神からの預言者だと考えている民衆の敵意を買うことになります。また、もしヨハネを預言者だと認めてしまえば、なぜそのメッセージを信じないのかと言うことになり、これはさらに大きな問題を生みます。なぜなら、ヨハネが語ったメッセージの中心はイエスに関する預言であったからです。だからそのヨハネの権威を認めるなら、今、目の前におられるイエスの権威も同時に認めなければならないのです。結局、彼らはイエスに答えることができません。彼らは自らの答えを真理に基づいて得ようとしたのではなく、自分の利害、損得に基づいて考えたからです。

 そこでイエスは「分からない」としか答えることのできない祭司長、律法学者、長老たちに対して「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と答えるしかなかったのです。


3.イエスの権威

 私は神学校に入学する前に、町の小さな印刷屋で営業マンとして働いた経験があります。営業マンはお客と話し合って仕事を進めていくのですが、ときどき自分だけでは判断できない商談を取り扱うときがあります。そのとき営業マンは必ず自分の上司と話し合って、その決済を受けなければなりません。上司には自分よりももっと踏み込んだ決済ができる権限が与えられているからです。

 この間、テレビのドラマを見ていてとても面白いシーンがありました。主人公は自分たちの事業を続けるために新しいパートナーとなる企業を探していました。そのため何件もの会社を訪問しますがすべて断られてしまいます。相手先の会社の担当者は主人公の話にさえ、真面目に耳を傾けようとしないのです。それでも主人公は粘り続けます。ある会社で彼は担当者が不在だと言われても諦めずに受付で待ち続けます。何時間も何時間も受付の前で待ち続ける主人公に「担当者はもう今日は戻って来ない」という連絡が届きます。がっくりして引き上げようとする主人公に一人の人物が声を掛けます。「わたしが担当者に代わってお話を聞きましょう」とその人物は答えて、主人公の話に熱心に耳を傾けます。するとその人物は「わかりした。私たちでよければ協力しましょう」と主人公に答えます。この答えをにわかに信じられない主人公は「あの…、他の会社の皆さんと相談する必要はないのですか」と尋ね返します。するとその人物はきっぱりと「その必要はありません」と答えて一枚の名刺を差し出したのです。その名刺には代表取締役社長と書かれていたのです。

 イエスは私たちにとってこの社長のような存在ではないかと思います。イエスは天と地の一切の権能を持っておられる方だからです。だからそのイエスが語ること、また決められたことは決して無効にされることはないのです。私たちは何も心配しないでこのイエスを信じればよいのです。イエスの決定に誰も口を出すことができる者は一人もいなからです。そしてこのイエスは「私が救うと約束しているのだから、大丈夫です」と私たちに語ってくださる、それが聖書の伝える福音だと言えるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 私たちは人間の語る言葉がどんなに不確かなものなのかを知っています。また、この世界ではこれこそが確かなものだと人々が考えるものが簡単に倒れ、人々の期待を裏切る現実があることを知っています。しかし、私たちの主イエスはそのような方ではありません。イエスの権威はこの世ではなく、天から与えられるものであり、何よりも確かなものだからです。ですからイエスを信じる者は決して裏切られることなく、確かな希望を抱いて生きることができます。どうか私たちの新しい年の信仰生活も、このイエスの権威の上に立つものとなりますように私たちを聖霊の働きによって導いてください。私たちが何よりも確かなこの聖書の言葉を信じ、人々に取り次ぐことができるよう力を与えてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスとその一行がエルサレムにやって来るとそこにどんな人々が近づいて来ましたか(27節)。

2.彼らはイエスが神殿で行ったどんな行動を知っていましたか。そして彼らはイエスのその行動に関連してどのような質問をしましたか(28節)

3.イエスは彼らの問いにどのような問いを返されましたか。彼らがこのときのイエスの問いに答えることができなかった理由は何でしたか(28〜32節)

4.どうして洗礼者ヨハネの語るメッセージには権威があったのでしょうか。そのヨハネのメッセージに耳を傾ける者は、どのような信仰を持つようになりますか。

5.あなたは今まで聖書の言葉を読んで来て、どのようなときに主イエスの権威を感じたことがありますか。

2019.1.6「イエスの権威」