2019.2.10「帳消しにされた罪」
ヨハネによる福音書8章1〜11節
1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
1.後代に付け加えられた物語
私たちが学んでいる聖書はすべて神の言葉を記していると言う点では一冊の書物と言えます。しかし、聖書は詳しく言えば旧約39巻、新約は29巻、合計66巻の書物の集まりであるとも言えます。それぞれの書物にはそれを記した著者が存在しています。彼らは神の言葉を、各自でその書物に書き記したのです。ところがこの聖書66巻すべての書物は最初に著者が書き記したオリジナル原稿が残っているものは一つもありません。現在まで残っているのはそのオリジナル原稿を移し書きして伝わった写本と呼ばれる文章だけなのです。写本には新しいものもあれば、古いものもあります。その中には写本記者が書き移していくなかで、本文自身に変化が生じることもありました。ですから、この写本を研究して本来のオリジナルな原稿を推理していくという学問も存在しているのです。実はこの『聖書本文学』という学問は現代ではかなり進んでいて、その結果、私たちは安心して本来のオリジナルな本文に近い聖書の言葉を読むことができていると言えるのです。
今日のテキストは7章53節から8章11節の部分ですが、多くの人が「姦通の罪を犯した女」と呼んでいる物語です。この物語は私たちの新共同訳聖書ではそのまま括弧(〔〕)で囲まれています。この不思議な印の意味はこの文章が本来のヨハネの福音書には記されていない、後代になって写本記者によって書き加えられたものであることを表す印です。実はこの物語が記されているヨハネによる福音書の写本は5世紀以後に作られたものだけで、それ以前の古い写本にはこのお話は書かれていないのです。それを証明するように5世紀以前にヨハネによる福音書を解説した文章にも、この箇所の存在は全く触れられていません。つまり聖書本文学ではこの箇所は本来のヨハネによる福音書の文章には無かったものと取り扱われているのです。
しかし、この物語は後になって誰か知らない人が創作して勝手に記した文章だとも考えられていません。なぜなら、このお話を読めば誰もがこれが本当の話だと信じることができるからです。このお話には救い主イエスの福音を正しく伝える力強さがあります。実際、5世紀以前に記されたキリスト教文書の中でもこの物語の存在が触れているものがあります。ですからこの物語は本来福音書のどこかに記されていたものだったものが、後になって事情があって外されてしまったと考える説が有力なのです。ところがこの物語はそれでも忘れられてしまうことなく、多くの人々の間で言い伝えられて来ました。そしてそれがこのヨハネの福音書の中に写本記者の誰かによって再び書き加えられたと考えらえているのです。いずれにもしてもこの物語はキリスト教会の中で様々な取り扱われ方をして現在の私たちに伝えられたと言う特別な経緯を持っています。おそらく、この物語がそのような数奇な運命をたどった理由は、この物語の主人公とされる女性が姦通の罪を犯したという理由にあったとも考えられているのです。
2.姦通の罪を犯した女をどうするか?
①姦通の罪の現場で捕まった女
この物語は当時エルサレムの町に建てられていた神殿を舞台にして描かれています。マルコによる福音書の学びでも取り上げましたが、イエスはエルサレムに来られた際は近くにあったベタニヤ村と言う場所を宿泊先と決めていたようです。そしてそこから毎日エルサレムの神殿に通われていたと考えらえています。この物語でもそのベタニヤ村から朝早くに神殿にやって来られたイエスの周りにたくさんの群衆が集まっています。そしてイエスは彼らに神についての教えを語られたのです。するとそこに律法学者やファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえられた女を連れてやって来ました。そして彼らはイエスに次のように質問したのです。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(4〜5節)
姦通の罪は結婚した配偶者以外の人物と性的な関係を結ぶ行為を指すものです。モーセの十戒の中には「姦淫してはならない」(第七戒、出エジプト20章14節)と言う神の戒めが納められています。この戒めは本来、結婚制度の大切さを教え、その制度を守ることを求めているものです。つまり、姦通の罪はこの第七戒に背く罪であると言えるのです。律法では姦通の罪を犯した者には死刑を執行すべきだと教えられています(申命記22章22節)。ただこの物語で不思議なのは姦通の罪には必ずその姦通の相手が存在するはずなのに、ここに連れて来たのは女性だけで、相手の男性の姿は影も形もないことです。
このことについてこのお話を説教しているある人の文章の中にとても面白い説明がなされています。それによれば当時でも姦通の罪を犯した者が現場で捕らえられると言うのは極めてまれなケースだと言うのです。なぜなら、この罪を告発するには、その行為が行われた現場を確かに目撃した二人の証言者の存在が必要だからです。そして二人の人物がたまたま姦通の現場に遭遇するというのはきわめて現実的ではないと言うのです。これはむしろ初めからこの女性を陥れる策略があって、その結果彼女は姦通の現場で捕らえられたと考える方がつじつまが合うと言うのです。つまり、ここに連れて来られていない姦通の相手である男性は彼女をこの罪に陥れた一味の一人だったと推測することができるのです。そう考えると彼女は姦通の罪を犯したと言う点では責められても当然ですが、ある意味で被害者でもあるとも言う点では、同情される存在でもあったと言えるのです。
②律法学者やファリサイ派の人々の魂胆
この女性をここに連れて来た律法学者やファリサイ派の人々の関心はこの姦通の罪を犯した女性にあるのでは決してありませんでした。彼らの関心はたくさんの人々の人気を集めているイエスを陥れることにだけありました。実際、当時のユダヤ人の社会ではたとえ姦通の罪を犯した者でも処刑されるようなことはまれで、大概の場合は律法学者たちが当事者たちと話し合って納得のいく解決策を探すことが多かったようです。なぜなら、当時のユダヤ人にはたとえ犯罪者であっても、その人物を死刑にする権限が与えられていなかったからです。この権限はローマ政府だけに許された特権だったのです。
彼らの質問に答えてもしここでイエスが「この女を律法の定めに従って死刑にしなさい」と言うなら、「自分は罪人を招くためにやって来た」といつも語っているイエスの言葉に反することを言ったことになります。そうなればイエスも他の律法学者たちとそんなに変わりがないと言うことになって、人々のイエスに対する評価は下がるはずです。またイエスがこの女性を「寛容な愛を持って赦してあげなさい」と言えば、彼らはやはり「イエスは律法の教えを真剣に守ろうとはしていない」と非難することができる口実を得ることになるのです。だから、彼らはイエスに対して「さあ、どうする。どうする」とこの質問に対する答えを迫ったのです。
3.イエスの答え
①イエスの答えを聞いて立ち去る人々
イエスはご自分を罠に陥れようとする質問者たちの魂胆をよく知っていたようです。だから、イエスは簡単に彼らの質問に答えようとはしませんでした。イエスはこの時、かがみこんで、指で地面に何かを書き始められたと聖書は言っています(6節)。そのイエスの態度は質問者たちを苛立たせます。だから彼らはしつこくイエスに問い続けました。そこでイエスは身を起こして初めて彼らに口を開き、次のように答えられたのです。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。私は中学生のときにロシアの文豪トルストイの書いた「復活」と言う小説を買い求めて、読んだことがあります。確かその本の表紙の裏に、この聖書の言葉が書かれていたと思います。不思議なことに私は「復活」と言う小説の内容は忘れてしまいましたが、この聖句の言葉だけは今でも心に残っているのです。この言葉は当時、中学生だった私にもよく分かる言葉だったからなのでしょうか。ここでもそうです。この言葉を聞いてその意味が理解できない人は一人もいなかったようです。
「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしま(った)」(9節)と書かれています。なぜなら、誰も胸を張って「自分は今まで一度も罪を犯したことがありません」と言える人はいないからです。誤解してはならないのは、ここでイエスが言っている「罪」はこの世の刑法に該当するような罪だけを言っているのではないと言うことです。ここでイエスが問うのは、神に背き、神に従うことのできない者の罪、神に対する罪を語っているのです。そして聖書はすべて人が神の前に罪を犯し続ける罪人だと教えているのです。だからここで語られているように、イエスの言葉を聞いた人の中で年長者から始まって一人一人そこから立ち去って行かざるを得なかったと言うことは正しい反応であったと言えるのです。
②自分の罪と向き合う
この聖書の箇所を読んでもう一つ誤解され易いのは、このイエスの言葉から考えて私たち人間には他人の罪を裁く権利はないと考えることです。そうなると犯罪者の罪を誰も裁くことができなくなります。つまり裁判所で人を裁くことも信仰者には許されていないと言う結論に至ってしまうのです。先ほど、この物語は元々、福音書に記されていたのに、後になって意図的に外されて、またその後で付け足されるようになったと言う複雑な取り扱われ方をしたと説明しました。この物語がそのように取り扱われた理由の一つに初代教会が姦通の罪に対してきわめて厳しい態度をとっていたことがあったと言うものがあります。当時、ローマの社会秩序は乱れに乱れていました。その社会で神の言葉に従って生きようとする信仰者は、この世の価値観とは違い、結婚制度の神聖さを守るということが大切だと考えたのです。ところがこの物語に描かれているイエスは、この姦通の罪を犯した女性を簡単に赦してしまっています。「どうしてイエスが赦した罪を教会はうるさく問うのか」。この物語が聖書の中に残されるならそのような抗議が教会は受ける可能性がありました。だから問題が起こらないように、この物語は予め福音書の中から取り除いてしまうと言うことが起こったのです。
しかし、このような心配は明らかにこの聖書の物語を読む、読み方が正しくないところから生まれるものなのです。なぜなら、この物語は人間には他人の罪を裁く権利はないと言うことを教えているものでないからです。だから法律を犯した人が裁判所で裁かれることは決して聖書に反することではありません。また、もし私たち信仰者が裁判員に選ばれたとしても、裁判員としてその任務を果たすことは可能なのです。
イエスがここで問題にしているのは私たちが自分の罪と向き合うことを忘れてはならないと言うことです。聖書には「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタイ7章3節)と言うイエスの語られた有名な言葉が残されています。私たちは他人の犯した罪には敏感に反応するのに、自分自身の罪には鈍感であり、あまりにも寛容であると言う性質を持っています。イエスはその自分の犯した罪に敏感であるようにと私たちに教えているのです。なぜなら、神は私たちの犯した罪を必ず裁かれる方だからです。神は私たちの犯した罪を一つも曖昧にしたり、見逃されることはないのです。ですから私たちは皆、自分の犯した罪の責任を必ず追わなければならないのです。
4.十字架のイエスと出会う
それではなぜ、ここで姦通の罪を犯した女はイエスから赦されることができたのでしょうか。彼女を訴えるすべての人が立ち去ってしまったとき、彼女だけはイエスの元にとどまり続けました。彼女を追いかけて捕まる人はもう誰も残ってはいませんでした。だから彼女もここから逃げてしまってよかったのです。しかし、彼女はそうしませんでした。そしてだからこそ、彼女はここで彼女に向かって語られたイエスの赦しの言葉を聞くことができたのです。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(11節)
聖書は私たちの犯した罪を赦すことができる方が一人だけおられることを教えます。それが私たちの救い主イエスです。この方に赦していただかなければ、私たちの犯した罪は決して帳消しになることはありません。イエスに赦していただかなければ私たちは必ずその罪の報いである死を免れることはできません。しかし、イエスにはそのような私たちを赦し、その罪を帳消しに、私たちの命を救う力を持っておられるのです。それではどうしてイエスだけにはそれが可能なのでしょうか。それはイエスだけが私たちの罪の責任を代わりに担われて、その罰である十字架の死を引き受けてくださった方だからです。だからイエスだけが私たちを罪から救う力をもっておられるのです。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
この言葉を聞いて自分の犯した罪を思い出してこの場から立ち去った人は、ある意味で正しい反応を示したと言えるのですが、その結論は明らかに間違っていました。なぜなら自分の犯した罪を私たちは自分で何とかすることはできないからです。もし、私たちが自分の犯した罪から解放されたいと願うなら、この女性のように救い主イエスの元にとどまり続ける必要があるのです。そしてそのイエスから「あなたの罪は赦された」と言う赦しの言葉を聞く必要があるのです。かつて旧約聖書の預言者イザヤはこのイエスによる罪の赦しを予言して次のように語りました。
「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。」(1章18節)。
このときこの女性がイエスの言葉を聞いて、自分の犯した罪が赦されたことをどこまで理解することができたのははっきりとはわかりません。しかし、この後、イエスはこのエルサレムの町で十字架にかかって死なれることとなりました。この女性がエルサレムの町の住民であったなら、この出来事を彼女が知らなかったはずはありません。もしかしたら、彼女は群衆の後ろに隠れて十字架にかかるイエスの姿を目撃していたのかもしません。もし、そうなら彼女はそこで自分の罪が赦されることのできる根拠をはっきりと見ることができたはずです。
イエスの十字架は当時の多くの人にとって好奇心を満たす対象、あるいは失望の対象でしかありませんでした。しかし、イエスに罪を赦されたことを信じる者にとっては違います。十字架は私たちの罪を帳消しにしてくださる神の救いを表す象徴なのです。この物語は私たちが私たちの罪に向き合うことを勧めると同時に、その罪が赦される根拠となられた十字架にかかった救い主イエスとの出会いが大切であることを私たちに教えているのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」。今年一年の私たちの教会の歩みをこの詩篇の言葉のようにあなたが導いてくださいますように。そして私たちが心からあなたに従うことができるようにしてください。私たちの教会の礼拝を祝福してください。私たちがこの礼拝で恵みの主に出会うことで、力づけられ励まされ、あなたの準備してくださった道を歩むことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.神殿の境内で人々に教えるイエスの元にどんな人がやってきましたか(3節)。彼らはイエスにどのような質問をしましたか(4〜5節)。
2.どうして彼らはこのような質問をイエスにしたのでしょうか。この質問をした彼らの関心はどこにありましたか(6節)。
3.しつこく問い続ける彼らに対してイエスはどのような答えを語られましたか(7節)。
4.このイエスの言葉を聞いた人々はどのような反応を示しましたか。彼らがそのような反応を示した理由についても考えて見ましょう(9節)。
5.自分を捕らえて訴える人たちがいなくなってしまった後、この女は何をしましたか(9節)。その結果、彼女はどのような言葉をイエスから聞きくことになりしたか。このイエスの言葉は彼女にとってどのような意味を持つ言葉であったと言えますか。