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2019.2.17「死者は復活する」

マルコによる福音書12章18〜27節

18 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。

19 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。

20 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。

21 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。

22 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。

23 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」

24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。

25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。

27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」


1.神も聖書も知らない人々

①「復活」信仰の重要性

 今日も皆さんと共にイエスの物語を記したマルコによる福音書から学びたいと思います。今日のお話は「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた」(18節)と言う言葉から始まっています。「復活はない」と言う言葉を聞いて、聖書に親しんでいる人はそれが「死人の復活」のことを言っていると考える人は多いはずです。しかし、聖書やキリスト教に全く馴染のない人にとっては「復活」と言う言葉を聞いても、その言葉が何を意味しているのか分からない人が多いはずです。

 キリスト教ではこの「復活」という教えが非常に重要な意味を持って取り扱われます。私たちの教会の教えを伝えるウエストミンスター信仰告白にはこの「復活」について「終わりの日に生存している者は、死を味わわないで変えられる。死人はみな異なった性質をもってではあるが別のものではない全く同じからだをもってよみがえらせられ、彼らの霊魂に再び永久的に結合される」(32章2節)と言う説明がなされています。

 私たち日本人の信仰にも「霊魂の不滅」と言うものがあります。死んでもその人の霊魂は消滅することなく、この世とは違った世界で行き続けることができると言う信仰です。実はこの霊魂不滅説は世界のあらゆるところに住む人々によって受け入れられています。有名なところでは、ソクラテス、プラトンと言ったギリシャの哲学者たちもこの霊魂不滅説を信じていたことが分かっています。ところが、キリスト教の信仰はこの「霊魂不滅」で終わってしまうのではなく、さらに死者の霊魂は最後の日に復活した身体と一つにされて、肉体を持つ人間として永遠に生き続けることができると信じるのです。

 キリスト教ではこの復活と言う教理が非常に重要視されます。これはカトリック教会でもプロテスタント教会でも、またギリシャ正教会でも同じです。キリスト教では神がこの世界を造り、また私たち人間を造られたと信じられています。その際、神は人間を肉体を持った者として創造してくださったと言う事実が重要になって来るのです。神は人間の霊魂だけを創造されたのではないのです。人間の魂と肉体は切り離すことのできない一つの人格として神は創造してくださったのです。ですから終わりの日、つまり神の計画が完全に成就される日には人間は体を持った一つの完全な人格として甦ることができと教えているのです。ですから、この復活を否定する者は、ある意味で神の創造の御業を否定する者と言ってよいのです。この神の創造の御業を知らない人は、人間の肉体には意味がない、かえって霊魂を縛りつけるようなものと考えます。だから霊魂は大切だが、肉体は汚れていると言う主張をする点ではギリシャ哲学も仏教も同じような考えを持っているのです。


②サドカイ派の人々の信仰

 今日の物語に登場する「サドカイ派」と呼ばれるグループに属する人々はこの「復活」を信じていなかったとここでは説明されています。どうして、ユダヤ人であり聖書の内容もよく知っていた彼らが「復活」を信じることができなかったのでしょうか。実はこのサドカイ派と言う名前が付けられた人々の存在の詳しい事情は現代ではほとんど分からなくなってしまっています。このサドカイ派の名は新約聖書の中に登場しますが、それ以外の文書で彼らについて説明されているものはないのです。どうして、このサドカイ派のことがよくわからなくなってしまったのかと言えば、彼らの存在は紀元70年に起こったローマ軍によるエルサレム神殿破壊の出来事の後に全く歴史から消滅してしまったからです。サドカイ派の人々はこのエルサレム神殿で働く祭司たちや、その神殿から利権を得ていた貴族たちによって構成されていたと考えられています。つまり、エルサレム神殿の破壊は、彼らの生活基盤を破壊してしまうものであり、その結果、サドカイ派自身の存在も歴史の中から消滅してしまったのです。

 新約聖書の記述からこのサドカイ派について分かることは、これも新約聖書の中に度々登場するファリサイ派と呼ばれるグループの人々と激しい対立関係にあったと言うことです。そしてその対立関係を生み出した原因が、今日の物語にも登場するような「復活」の否定と言った信仰内容の相違にあったと考えられるのです。サドカイ派の人々はファリサイ派の人々が信じている「復活」を否定し、他にも天使のような霊的存在も否定していたと言われています。それではどうして、サドカイ派の人々の信仰がそうなってしまたのかと言えば、彼らの持っていた聖書についての考え方に原因があったと考えられています。なぜなら、彼らは私たちが知っている旧約聖書の中でもモーセ五書と呼ばれる、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記と呼ばれる五つの書物だけを信じるだけで、ファリサイ派の人々が信じているような他の旧約聖書の文書を受け入れていなかったからです。

 神殿で働く祭司にとって必要なのはその神殿で行われる儀式の内容を詳しく記したモーセ五書があれば十分なのです。むしろ、彼らが聖書として採用しなかった旧約聖書の他の文書、預言者たちの書には、神殿で行われていた形ばかりの礼拝が厳しく批判されている内容が記されています。これは神殿で働く祭司たちには都合の悪い内容でしかありませんでした。だからサドカイ派の人々は自分たちに都合のよい書物だけを自分たちの聖書として採用していたのです。


2.復活はない

 このサドカイ派の人々がイエスのところにやって来て仕掛けた論争が、ここで取り上げられている「復活」についての論争です。私たちもよく聖書の話をしていると、「死人が復活するなんて信じられない」と色々な人から言われることがよくあります。その理由は「現代の科学の常識に反することだから…」と言うことが多いはずです。死んだ人の霊魂が幽霊になってこの世に現れるということなら、興味を持って聞く人も多くいますが、その人間の体が墓から甦るなどと言う話を聞くと、「そんなバカげたことがあるはずがない」、「そんな愚かな迷信は信じられない」と言うのです。

 ところがここに登場するサドカイ派の人々は決して科学万能主義を主張するような現代人とは違います。むしろ彼らは聖書の言葉を通して、「復活」と言う信仰が非聖書的であり、信じるに値しない教理だと主張しようとしたのです。

「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」(19〜23節)

 死んだ兄の妻をその兄弟が娶る、結婚するという掟は旧約聖書に記されています(申命記25章5〜10節)。これは「レビラト婚」と言う制度で本来は家を継ぐべき長男の家系を絶やすことがないように設けられた制度です。ですから長男の妻が、その夫の死後に、何人もの兄弟と結婚したとしても、その男たちはあくまでも長男の代理ですから、その妻は長男の妻と見なされるのです。またたとえその妻が兄弟の誰かと子どもを設けたとしても、その子供はやはり長男の子どもと見なされ、家督を継ぐ権利が与えられるのです。ですからこの聖書の教えを正しく理解しているならば、「復活したときに、その女は誰の妻になるのか」と言う疑問は生まれて来ないはずなのです。

 イエスは彼らに対して「あなたたちは聖書も神の力も知らないから」と言っています(24節)。確かに彼らは聖書を正しく読んで、理解することができませんでした。彼らは聖書をあくまでも自分の都合のいいように読もうとしていただけなのです。彼らは聖書から希望に満ちた神のメッセージを聞こうとするのではなく、自分の聞きたいこと、自分の考え方に合う言葉だけを選んで、聞こうとしたのです。だから彼らは聖書の教える「復活」と言う大切な真理が分からなくなってしまっていたのです。

 聖書の中から自分に都合のよい言葉だけを選び、自分の都合に合わせて解釈する、それはサドカイ派の人々だけが陥るような誤りではありません。私たちも日常の信仰生活の中で同じような誤りに陥る可能性があるのです。もし私たちもこのサドカイ派の人々と同じような聖書の読み方をしてしまったら、私たちの信仰生活はどうなってしまうでしょうか。結局、その人はいくら聖書を読んだとしても、最後に行きつく結論はいつも変わらない自分の考えとなってしまいます。私たちが持っている自分の考えには決して私たちを救う力はありません。その考えでは私たちに希望を与えることはできないのです。ですからこのような信仰生活はいつも同じ結論で終わってしまうでしょう。「信仰生活などこんなものだ」と言うような言葉を繰り返し語るだけで希望のない信仰生活を送ることしかできないのです。

 さらに聖書の中から自分に都合の良い言葉を選び、自分の都合に合った解釈を考えることの最大の悲劇は、肝心の神の力が分からなくなってしまうことにあります。だからイエスはここでサドカイ派の人々に「あなたたちは神の力を知らない」と語ったのです。この神の力を知らなければ、神が与えてくださる「復活」の希望も理解することはできないからです。


3.神の言葉から希望を受け取る

①新しい存在に変えられる私たち

 神の子であるイエスは誰よりも聖書の内容をよく知っておられました。なぜならイエスはこの聖書の著者である神ご自身でもあるからです。だからイエスの教えには何一つ誤りは存在しないのです。私たちはこのイエスの語る言葉を疑うことのできない真理として信じることができるのです。

「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」(25節)。

 自分の経験や世間の常識だけに縛られている人は聖書の語る真理を正しく理解することも、解釈することもできません。聖書が語る神の祝福はこの世で私たちが経験する次元をはるかに超えた世界のことが語られているからです。もし復活が私たちの人生がそのままの形で再現され、いつまでも続くものだとたら、それは決して私たちにとって祝福とは言えなくなってしまいます。もし復活したときの私たちの存在が以前のままなら、私たちは相変わらず悩みと苦しみの人生を続けなければならないからです。しかし、私たちの神は私たちの存在を復活の時、全く新しく変えてくださるのです。ですから復活のとき、私たちが味わうことのできる人生は神によって全く新しくされた人生です。イエスは私たちが古い自分の経験や考え方に希望を見出そうとするのではなく、全能の神の力に私たちの希望を置くようにと勧めているのです。


②神の力によって信じ、復活する私たち

 それではどうして復活のとき、私たちの存在は今までとは全く違ったものと変えられるのでしょうか。なぜなら私たちが復活のときに神からいただくことのできる命は神と共にある命だからです。私たちの復活の命はすべての命の源である神と共に生きることによって実現する命なのです。だからこの神が共にいてくださる命は私たちがこの地上で味わう命とは全く違う質を持っているのです。

 復活の命は神と共に生きる命と言えます。だからイエスは次のような言葉で、この復活の命について論証して、サドカイ派の人々の考えに反論されたのです。

「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」(26〜27節)。

 「神は死んだ者の神でなく、生きている者の神なのだ」とイエスは語ります。なぜなら神こそ私たちの命の源、命そのものだからです。だからその神が「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と語っている以上、彼らは決して死んだ存在ではく、今も生きている者として神から取り扱われており、彼らもまた復活の日を待つ者とされているとイエスはここで語っておられるのです。

 真の神を信じる者の命は決して失われることはありません。たとえこの世の死を体験しても、私たちの命は最後の日に復活させられた私たち身体と共に甦ることができるのです。残念ながら、この信仰は自分の都合に合わせて聖書を読み、自分の都合に合わせてその言葉を解釈するサドカイ派の人々には理解することも、受け入れることもできないものでした。しかし、神の力を信じ、神に希望を置く者には神の霊である聖霊が送られ、この真理を悟る力をいただくことができるのです。もし今、私たちがこの復活を信じると言う信仰を持っているなら、それはすでに私たちが神の力にあずかっていると言う証拠とも言えるのです。私たちを信じられない者から信じる者と変えてくださった神の力はやがて私たちを必ず復活へと導いてくださるのです。

 聖書が与える希望は私たちの経験や考え方をはるかに超えるものです。だからこそ私たちが聖書を読んでまずしなければならないことを「悔い改める」ことだと言えるのです。サドカイ派の信仰は悔い改めのない信仰でした。あくまでも自分の考え方に合わせて聖書を読み、自分の考え方に合わせて解釈するだけで終わってしまって、何も変えることのできない信仰だったのです。 イエスは私たちにサドカイ派のような信仰生活を送るのではなく、悔い改めて聖書の言葉に耳を傾け、その言葉に希望を置くことを勧めています。神はそのような者に聖霊を送り、必ず復活の希望にあずかる者としてくださるからです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 聖書のみ言葉を通して私たちが決して知ることができない真理を教えてくださり、私たちの人生の行きつく先に「復活」と言う確かな希望を備えてくださるあなたの御業に心から感謝いたします。私たちの愚かな知恵や力ではこの真理を受け入れることは不可能です。どうか私たちに聖霊を送ってくださり、私たちに確かな信仰を与えてください。私たちが聖書のみ言葉に示された確かな希望を見つめつつ、毎日の信仰生活を送ることができるように助けてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.サドカイ派の人々はイエスの元にやって来て何を尋ねましたか。このサドカイ派について分かっていることは何ですか。(18〜19節)

2.どうしてサドカイ派の人々は聖書が教える復活についての希望を持つことができなかったのですか。あなたは今、この復活についての信仰を持つことができていますか。

3.イエスは復活の時、人間はどのようになると教えていますか(25節)。

4.イエスはサドカイ派の人々の信仰をどのような言葉で非難していますか(24節)。

5.どうして神がご自分を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んだことが、死者の復活の証明となると言えるのでしょうか(26〜27節)

2019.2.17「死者は復活する」