2019.2.24「一番大切なことは」
マルコによる福音書12章28〜34節
28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」;p>
29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
1.律法学者の問い
①「あなたは、神の国から遠くない」
今日もマルコによる福音書から皆さんと共に学びたいと思います。今日の箇所は「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出(た)」(28節前半)と言う言葉から始まっています。この「彼らの議論」とは前回、私たちが学びましたサドカイ派の人々とイエスとの間に起こった「復活について」の議論を指しています(18〜27節)。復活信仰を否定するサドカイ派の人々は七人の夫の妻となった女性を例に出して、「復活のとき、この女性は誰の妻になるのか」とイエスを問い詰めようとしました。しかし返って、イエスの反論によってサドカイ派の人々が聖書をよく知らず、神の力を信じていなことが分かってしまいます。そしてだから彼らは復活と言う事実を信じることができないとイエスに指摘されたのです。今日登場する律法学者はこの議論を聞いた上で、イエスに語りかけています。
彼は「イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」と聖書には説明されています。おそらくこの律法学者は復活信仰を持っていたファリサイ派のメンバーに属していた人物と考えることができます。この復活の問題についてファリサイ派とサドカイ派の間にはいつも激しい論争が繰り広げられて来ました。ですからこの律法学者もサドカイ派をやり込める説得方法をいつも考えていたのかもしれません。ところが、イエスはここで見事にサドカイ派の人々の主張を聖書の言葉から論破されたのです。そして彼はその光景を目撃しました。「なかなか、やるじゃないか」。この律法学者はそんな風にイエスについて考えたのかもしれません。「この人は、聖書をよく知っているし、難問にも簡単に答えることができる」。彼はそう思ったのでしょう。そこで彼はおそらく自分がいつも考え続けていていながら、なかなか答えを得ることができない問いの答えをイエスに答えさせようとしたのです。
この律法学者とイエスとの対話は今まで取り扱ってきた様々な人々とイエスとの間に交わされた論争とは特徴が少し違っています。今まで、イエスに問いの答えを求めた人々の動機はイエスを陥れるためのであったとされて来ました。しかし、ここに登場する律法学者にはそのような陰謀を企んでいると言うような素振は見つけられません。この会話を読むと、イエスと律法学者のあいだにはきわめて友好的な雰囲気が漂い続けています。しかも、この律法学者は最後のところでイエスから「あなたは、神の国から遠くない」(27節)と言う言葉までいただいているのです。
しかし、ここで私たちは疑問を感じるのではないでしょうか。いったい「あなたは、神の国から遠くない」と語られたイエスの言葉はどのような意味を持っているのでしょうか。律法学者は確かに「神の国から遠くない」とは言われていますが、あなたは「神の国に入っている」とは決して言われていないのです。つまり、彼の信仰は「まだ未完成だ」と言われているとも考えることができます。この言葉は本当にこの律法学者に向けられたイエスのお誉め言葉だったのでしょうか。それとも彼を叱咤激励する言葉だったのでしょうか。あるいは彼の未熟な信仰を皮肉る言葉だったのでしょうか。私たちはこのイエスの言葉の意味を、これから少し考えて見たいと思うのです。
②たくさんの律法の中、第一の掟は何?
先日、聖書に登場したサドカイ派の人々はすでに歴史の中で消滅してしまっていることに触れました。それでは一方のファリサイ派の人々はどうなったのかと言えば、実はこのファリサイ派の人々が現代のユダヤ人の信仰の礎を築いたと考えてよいと言えるのです。現代のユダヤ人の信仰生活では、神殿が崩壊した後、動物犠牲を献げるような儀式は行われていません。その代わり、彼らは聖書に教えられている律法を厳格に守ることでその信仰を表現し続けて来ました。現代でも厳格なユダヤ教の信仰を持った正統派の人々の住む町に足を踏み入れ、安息日にやたらと動き回ったりすると石が飛んでくると言う話を聞いたことがあります。私の友人は昔ユダヤ教会の礼拝に見学に行って、そこで語られている英語のお話を忘れないようにメモしようとしました。するとすぐに礼拝係の人がやって来て「安息日に労働はやめてください」と注意されたと言うのです。
現代のユダヤ教徒の中にもいろいろな考え方があって、程度の差はあるようですが、皆、聖書に教えられている律法を大切にして守ると言う点では同じ考えを持っています。ただし、ユダヤ人が持っている律法は私たちが今、旧約聖書を通して知ることができる律法だけではありません。実は彼らは長い歴史の中でこの旧約聖書の律法を土台にしながら、細かな律法を追加してきました。もちろん、それは今までの律法とは全く違った、新しい律法というのではなく、今までの律法を細かく分析して作り出した「細則」と呼べるような掟です。通常は旧約聖書に記されている律法を「成文律法」と呼び、それ以外のものを「口伝律法」と呼んで区別しています。イエスのおられた時代にも成文律法に加えてかなりのかずの口伝律法が作られ、それを守るように教えられていました。ところが、膨大な数の律法を覚えることは簡単ではありません。しかもそれぞれの律法の関係も複雑になっていて、素人では理解が困難でした。ですから、律法学者のような人物の存在が必要になって来るのです。
ある婦人は子どものころから自分がハムをフライパンで調理するときにハムの四隅を切っていました。なぜなら彼女はその方法を自分の母親から学んだからです。そして長い間、彼女は何も疑問に感じないでこの習慣を守ってきたのです。ところがある日、彼女は自分の母親に「どうしてうちの家はこんなふうにハムを調理するの」と聞いてみたのです。ところがその母親も首を振って何も説明することができません。なぜなら、その母親も子どものころから自分の母親にその方法を教えられて育って来たからです。そこでこんどはその母親の母親である祖母にこの理由を彼女は尋ねてみました。すると祖母からは意外な答えが返ってきました。「あっ、それはね。最初の頃に家で使っていたフライパンが小さかったから、四隅を切らないと調理できなかったのよ…。いつのまにかそれが習慣になってしまったみたいね」。
私たちは案外、自分が頑固に守り続けているものでも、なぜそうするのかという意味を知らないまま守っているという習慣があるかもしれません。律法学者がここで尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と言う問いは、すべての掟を貫く肝心かなめの要点、つまりそれを忘れてしまったら律法の意味がわからなくなってしまう、そのような重要な意味持った掟を尋ねるものであったと考えることができます。
2.神を愛することと隣人を愛すること
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(29〜31節)。
このように第一の掟は神を愛すること、第二の掟は隣人を自分のように愛することだとイエスはここで教えられています。実はこの答えはイエスの考え出したオリジナルな回答ではありませんでした。この二つの掟は旧約聖書にすでに記されているもので、誰にでも知られていました。第一の掟は旧約聖書の申命記6章4〜5節に記されています。通常この言葉は「シェマー」と呼ばれ、イスラエル民族の信仰を表す大切な聖句と考えられて来ました。また第二の掟はレビ記19章18節に記され言葉の引用になっています。イエスは旧約聖書を引用してこの二つの掟が律法の中で最も大切なものであると語ったのです。この二つの掟の関係は密接ものであり、それはコインの裏表と同じだと考えることもできます。もし、どちらか一方の掟が軽視されるなら、もう一方の掟も不完全なものとなってしまうからです。
この掟の前提はイスラエルを救い出してくださった神の愛にあると考えられています。そしてイスラエルの民はこの神の愛への応答として自らも神への愛を誓い、それを実行する者となるように求められているのです。しかも、その神は私たちに私たちの隣人を愛するようにとも求めておられます。本当に神を愛する者は、隣人を愛そうとするはずです。なぜなら神が愛している隣人を憎むことは、その隣人を愛する神を憎むことにもなると繋がるからです。
律法学者はこのイエスの答えに満足したようで、次のように答えています。
「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」(32〜33節)。
興味深いのはイエスが「精神を尽くし、思いを尽くし」と語っている部分を律法学者は「知恵を尽くし」と言う言葉で置き換えて語っているところです。この言葉から律法学者は正しい答えを頭(知恵)ではよく知っていても、その答えを本当はよく理解していなかった。彼の語った答えは口先では立派なものでしたが、それは自分の答えとなっていなかったと考えられているのです。なぜならば、この模範解答を自分の答えにするためには血の滲むような体験をする必要があるのに、彼はそれをしてこなかったと考えられるからです。
3.神の国から遠くはないが、神の国に入っているのではない
①まだ合格点に達していない
ですからイエスがこのとき、この律法学者に「あなたは、神の国から遠くない」と言う言葉を語りました。確かにこの律法学者は頭だけでは模範解答をよく知っていました。しかし実は彼はその答えをまだ自分のものとしていないために、本当の答えを理解してはいなかったのです。彼の答えはまだ不十分なものでした。だからこれではまだ合格点をつけることはできないのです。
しかし、それならこの律法学者はどうすれば神の国に入れることができるのでしょうか。「神の国に入る」、それは「神の救いを受ける」と言う言葉と同じ意味を持った重要な言葉です。ですからこの時イエスは律法学者に向かって「あなたはこのままではまだ救われていない」と語ったともいえるのです。もし私たちがイエスからこんなことを言われたとしたら、私たちはどうしたらよいのでしょうか。もっと信仰生活を頑張って、努力して救いを手に入れることができるように、神の国に入ることができるようにしなければならないのでしょうか。そうなると、私たちの合格ラインはどこにあるのでしょうか、そして私たちはそこまでどんな努力をすべきなのでしょうか。
②救いも努力もすべて神の恵み
ここで私たちは思い違いをしてはなりません。なぜなら、私たちの救いはイエスだけが与えることができるものだからです。私たちが神の国に入ることができるのもこのイエスの御業によっているのです。となると「あなたは、神の国から遠くない」と言うこのイエスの語った言葉はもっと違った意味を私たちに教えていると考えることができます。
つまりこの言葉は私たちに救いを与えてくださる主イエスは私たちから決して遠くないところにおられると言うことを教える言葉だと考えることができるからです。この聖書の場面では律法学者の真ん前にイエスは立っておられました。だから肝心なのはこのイエスを信じることに尽きるのです。聖書の律法はすべて私たちをこのイエスに導く役目を持っています。そして同時に、イエスと共に生きる道をも私たちに教えているのです。聖書の掟はこのイエスを信じ、イエスと共に生きることを私たちに求め、教えているのです。だから使徒パウロが「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3章20節)と語っています。なぜなら、私たちも私たちの近くにおられるイエスを信じるなら、今ここで確かに天国の国民とされるからです。
キリスト者の生涯を寓話的に記した天路歴程という古い小説があります。その主人公は救いを求めて旅を続けます。彼は福音を伝える伝道者に十字架を目指して歩むようにと教えられながら、途中で方向を変えて律法の山に向かおうとします。なぜなら、彼の目には十字架を目指すよりも、律法の山を目指した方が近道のように見えたからです。しかし、律法の山は進めば進むほど険しくなり、ついにはどうにも先に進むことができなくなります。キリストの十字架こそが私たちを救いに導く唯一の道だからです。
そしてこのキリストの十字架によって神に国の住民とされた私たちには神の律法は新たな役を果たすことになります。それは私たちの感謝を神に献げるための方法を示すからです。私たちはこの律法によってイエスと共に歩む人生の方法を教えられるのです。だから神に救われた者は努力してこの律法に従おうとします。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」のです。「隣人を自分のように愛」そうとします。「私たちが努力したら、それは神の恵みではなくなってしまうのではないか」と考える人がいるかもしれません。しかしそうではありません。私たちが努力できることこそ神の恵みだと言えるからです。だから神の律法を理解し、神の律法に従うためには誰も、私たちの近くにおられるイエスを信じる必要があると言えるのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
私たちを主イエスに導くために、また私たちを主イエスと共に歩ませるために律法を私たちに与えてくださったことを心より感謝します。私たちがこの律法を正しく学び、従うことで、私たちを救うことができる方は主イエス以外におられないことを悟り、その主を信じることができるようにしてください。そして、主によって救われすでに神の国の住人とされた私たちが、その喜びを表すために神を心から愛し、隣人を自分のように愛するという戒めを心に刻み、信仰生活を送ることができるように助けてください。自分の無力を悟ことができることが主の恵みであることを知り、また自分が懸命に努力できることも主の恵みによるものであることを確信することができるように聖霊を送って、私たちの信仰生活を導いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスがサドカイ派の人々と復活について議論を交わした後に、その議論を聞いてどんな人がイエスの前に進み出て来ましたか。そして、この人はイエスにどのような質問をしましたか(28節)。
2.イエスはこの人の質問に答えてどんな掟が大切だと教えられましたか(29〜31節)。
3.この人はイエスの答えを聞いてどのような感想を示しましたか(32〜33節)。
4.イエスはこの人の答えにどのような評価を与えていますか(34節)。
5.イエスの語られた「あなたは、神の国から遠くない」と言う言葉の意味を考えて見ましょう。あなたは今、神の国から遠い場所にいますか。それともすでに神の国に入っていると思いますか。できればあなたのその答えの理由も教えてください。