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2019.2.3「主に養われる教会生活」

詩篇23編1〜6節

1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い

3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。

6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。


1.主は羊飼い

 毎年、午後に会員総会が開催される日曜日の朝の礼拝には、その年の年間聖句からお話をすることになっています。今年の年間聖句は詩篇23編1節の言葉、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」が選ばれています。またこの年間聖句の言葉をそのまま反映する年間テーマ「主に養われる教会生活」が既に小会の審議で承認されています。

 年間聖句で選んだのは詩篇23編の1節だけで、礼拝堂の前にもこの一節だけが掲示されているのですが、この詩篇23編は全体でこの1節の言葉を説明するような構造になっています。そこで今日の礼拝では23編全体を取り上げて皆さんと共に学び、午後の会員総会に備えたいと思っています。

 この詩篇23編は聖書の中でも最もよく知られた文章であると言えます。西洋で作られた映画やドラマの主人公がこの詩篇を朗読することをよく見かけてことがあります。もしかするとこの詩篇の言葉は救い主イエスが私たちのために教えてくださった「主の祈り」の文章に次いで、人々から愛され続けて来た文章だと言えるのかもしれません。ただこの23編の内容は祈りと言うよりは、むしろ私たちがよく知っている「使徒信条」のような信仰告白の文章に近いと言えるかもしれません。なぜなら、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と言う言葉はこの詩篇を作った作者の信仰を表す言葉であると言えるからです。また、この詩篇の言葉はこの言葉を愛するすべての信仰者の信仰を告白する言葉ともなっているのです。つまり、この詩篇の言葉は「わたしは主がわたしの羊飼いであることを信じます。主がわたしの羊飼いであるので、わたしには何も欠けることないことを信じます」と言う意味を持った信仰告白の文章だと言えるのです。

 信仰告白の文章は自分の信仰を自分以外の人に公に言い表すと言う役目を持っています。また、それだけではなく自分自身にも、その信仰を言い表す言葉、言葉を換えれば自分を説得し、絶えずその生き方を修正するための言葉にもなっているのです。私たちは度々、自分の信仰を見失ってしまうことがあります。それは私たちがどうしても自分の考え方や経験を優先して考える性質を持っているからです。「人生はそんな甘いものではない」、「誰も自分を助けてくれる者はいない。だから自分で何とかしなければ」。生まれつき私たちが持っている考え方は、またこの世の常識はいつもこの神の言葉とは違う結論を私たちに教えようとします。ですから、そんな私たちにこの詩篇の言葉は私たちの誤りを正し、私たちの生き方を修正する役目を果たしているのです。

 それでは私たちが「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と言う信仰を告白して生きるなら私たちの信仰生活どのように変わっていくと言えるのでしょうか。


2.魂を生き返らせてくださる

①私たちを導く羊飼い

 羊と羊飼いと言う関係は聖書の中で神と私たち人間の関係を表す言葉として何度も用いられています。イスラエルの民にとって、また私たちの主イエスにとって羊と羊飼いの存在は非常に身近なものでした。だから、神と人間の関係を「羊と羊飼い」の関係を通して語ることはとても意味があったのです。ところが、現代の日本で生活している私たちにとってはそうではありません。私たちはせいぜい動物園などでしか、羊の姿を実際に見ることはできないからです。ましてや「羊飼い」の姿など私たちにはめったに見る機会がありません。このような私たちにとって聖書を読むときに大切なのは、聖書が書かれた時代の人々の生活スタイルを理解した上で、その言葉の意味を考えると言うことです。

 たとえば2節で「主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い」と語られています。私たちはこの言葉を読むと広い草原のあちこちで羊たちが草を食むような牧歌的雰囲気の情景を想像するのではないでしょうか。ところが、この言葉が書かれたイスラエルにはそんな青草が豊かに生えているところはどこにもありません。青草や水は羊たちが生きていくために絶対に必要なものでした。しかし、イスラエルの自然環境ではそれを簡単に見つけ出すことができないのです。だから羊飼いの役割が大切になってくるのです。羊飼いは羊を青草のある場所、水のある場所に導く大切な役目を果たします。羊はこの羊飼いの指図に従えば、どんな困難な場所にいても生きていくための糧を得ることができるのです。ですから私たちにとって大切なことは、この羊飼いの指図に従い、その後をついて行くことなのです。神は私たちに聖書のみ言葉を与えることで、私たちを毎日導いてくださるのです。だから私たちは「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と言う信仰の宣言を大切にするのです。


②いつも希望を与えてくださる神

 詩篇記者は続けて「魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。」と語っています。

 この詩篇には「ダビデの詩」と言う表題がつけられています。ですから、昔からこの詩篇はダビデが作ったものだと多くの人々によって信じられて来たのです。しかし、近代の聖書学者は著者がダビデであると言う点を否定します。この23編の言葉を記したダビデの自筆の原稿が残されているわけではありませんからその真偽を確かめるすべはありません。しかし、ここに「ダビデの詩」と書かれていることは、聖書に記されているダビデの生涯を考えながらこの詩の言葉を読むことが大切なことを読者に教えようとしているとも考えることができます。そう考えるとこの詩の表そうとする信仰の内容が明らかになって来るからです。

 ダビデはイスラエルの歴史の中で最も理想的な王と考えられて来ました。しかし、彼の生涯は決して平坦なものではなく、まさに山あり谷ありと言うような様々な出来事を経験しました。ダビデの先の王であったサウルは、自分にとって邪魔者であったダビデの命を何度も奪おうとしました。だからダビデは何度も命の危機を感じるような状況に立たされました。彼が王になった後も同じようなことが起こります。有名なのはダビデの息子アブサロムの反乱の物語です。ダビデはこれらの事件の中で人間的に見れば何度も「もうだめだ」と言うような状況に追い込まれたのです。しかしダビデはそれでも決して諦めることがありませんでした。どうして、ダビデはそのように生きることができたのでしょうか。この詩篇は「魂を生き返らせてくださる。」と語っています。現実の厳しさの中でたとえ倒れるような絶望の状況に出会っても、神がそのたびにダビデを生き返らせてくださったのです。羊は弱い動物です。同じように私たちも弱い存在です。目の前の出来事に一喜一憂して、自分の力では担いきれない問題に出会えば、すぐに望みを失ってしまうのが私たちです。しかし、そんな私たちを神はそのたびに生き返られてくださるのです。絶望的な状態に立たされる私たちに希望を与えてくださるのです。私たちの羊飼いは私たちにとってそのような方なのです。だから私たちは「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と言う信仰の宣言を告白することができるのです。


3.あなたの鞭とあなたの杖

「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」

 私たちの神は私たちの調子がいいときだけそばにいて、そうでなくなると私たちから離れて行ってしまう方ではありません。私たちといつも一緒にいてくださると約束してくださる方なのです。そして神はその約束に基づいて私たちのために救い主イエスを遣わしてくださいました。聖書はこのイエスの別名をインマヌエル(マタイ1章23節)と紹介しています。このインマヌエルの意味は「神は我々とともにおられる」と言うものです。

 イエスは私たちに世界宣教の命令を語った後に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)とも約束してくださっています。ですから私たちにとって神が一緒にいてくださると言うことは何よりも確かな真実であると言えるのです。そしてその神は、ただ私たちのそばにいて、じっとしておられる方ではありません。「あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」と語られているからです。ここには大変面白い表現が記されています。鞭や杖が私を力づけると語っているからです。羊飼いは羊を導くために鞭や杖を使います。彼らの使う鞭や杖は羊をむやみにたたいたり、いじめたりするためのものではありません。羊が間違って危険なところに行ってしまうことがないように、羊飼いは鞭や杖を使うのです。

 ヘブライ人への手紙には次のような言葉が記されています。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」(12章5〜6節)。

 神は放任主義者ではありません。私たちが道を誤ればすぐにそれを正すために鞭を使い、また杖を使って私たちを正しい道に戻される方なのです。そしてヘブライ人への手紙の著者は神の懲らしめは神の私たちに対する愛の表れだと言っているのです。私たちは何か問題が起こったり、あるいは私たちにとって不都合な出来事が起こると「神の愛はどこに行ってしまったのだろうか」と思うことがあります。しかし、私たちに対する神の愛は変わることがありせん。むしろ、神はその問題を通して私たちを鍛錬されるのです。だから、わたしたちは主の鍛錬を軽んじてはならないのです。詩篇記者はこの鍛錬こそが私たちを力づけるものだと言っているからです


4.主の家で安らう

①安全地帯である教会の礼拝

「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」(5節)

 私たちを苦しめる者、私たちの敵が私たちを必死になって追いかけて来ると詩篇は語ります。その上でたとえ私たちを苦しめるような敵が私たちに迫って来たとしても、私たちにはいつも逃れの場所が準備されていると語るのです。それが私たちの教会の礼拝です。

 教会の礼拝は私たちのために神が準備してくださった豊かな食卓のようなものです。そこで神は私たちにみ言葉の糧を与えて、豊かに養ってくださるからです。もし、私たちが道で突然に暴漢に襲われるようなことがあったら、私たちはどこに逃げ込めばよいのでしょうか。もし、そのとき近くに交番や警察署があるならそこに逃げ込むことが一番安全です。なぜなら、そこに武装した警官がいるからです。暴漢はその中にまで入ることはできません。

 教会の礼拝は私たちのとっても最大の安全地帯です。神の言葉が私たちを守ってくださるからです。教会の礼拝を大切にすることは、私たちが自分の身を守るために最も大切なことだと言えるのです。だから私たちは私たちの羊飼いが備えてくださったこの安全地帯である、教会に集い神に礼拝を献げるのです。


②天国の先取りである礼拝

「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」

 教会の礼拝と言う安全地帯に逃げ込まなければ、私たちの魂は私たちを追って来た敵に一瞬のうちに飲み込まれてしまうはずです。しかし、私たちが教会の礼拝を大切にし、いつもこの安全地帯にとどまるなら、詩篇記者は私たちを追ってくるものが全く違って来るとここで語っています。敵から懸命に逃げて来た私たちですが、この安全地帯に入って自分の後を振り返ってみるとそこには恵みと慈しみが私を追ってかけて来ていることが分かるのです。教会の年報の原稿を整理していて改めて驚いたことは、昨年も計画されたことがほとんど実行に移されたと言うことです。残念ながら経済的な面では計画と現実の間に若干の開きが生じましたが、活動に関していえば昨年もたくさんの教会の活動が、そして礼拝が維持されて来たのです。これは神の慈しみと恵みの結果であると私たちは考えてよいのではないでしょうか。

 「教会の礼拝は天国のひな型である」とよく言われます。私たちは天国で何をするのでしょうか。私たちが今まで一度も行ったことのない天国のことを想像することは困難です。だから天国についての人間の様々な想像は漫画を見ているようで、現実味に欠けてしますのです。しかし、確かなことがあります。私たちは天国に行って、神の前にたち、永遠に神を喜ぶ礼拝を献げることができるようにされると言うことです。ですからこの天国を先取りして感じることができる場所が教会の礼拝だと言ってよいのです。

 私たちは教会の礼拝を大切する必要があります。それはただ礼拝に出席すればよいと言うことではありません。私たちは礼拝で実際に神の前に立っていること、神がこの礼拝の真ん中におられることを信じることが大切なのです。

 マルコによる福音書の中で、イエスが行われた宮清めの出来事を学びました。エルサレムの神殿では見かけは立派な礼拝が毎日献げられていました。しかし、イエスはその礼拝をご覧になって、様々な問題を感じられたのです。イエスは私たちが神への真の礼拝を献げることができるためにやって来た救い主でもあるのです。私たちはこのイエスによって可能となった真の礼拝を教会で献げる必要があります。そのためにいつもイエスの目を通して、私たちの献げる礼拝がふさわしいものであるかどうかを吟味する必要があります。

 私たちが教会の礼拝で真の礼拝を献げることができるならば、私たちの信仰はさらに強められ、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と言う信仰の告白がさらに確かにされることを覚え、新しい年の私たちの信仰生活の歩みを始めたいと思います。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」。今年一年の私たちの教会の歩みをこの詩篇の言葉のようにあなたが導いてくださいますように。そして私たちが心からあなたに従うことができるようにしてください。私たちの教会の礼拝を祝福してください。私たちがこの礼拝で恵みの主に出会うことで、力づけられ励まされ、あなたの準備してくださった道を歩むことができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.あなたも詩篇23編全体を何度も読んで、その言葉の一つ一つを味わってみましょう。

2.「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(1節)と言う詩篇の言葉はあなたの信仰生活にどのような慰めと励ましを与えますか。

3.今のあなたにとってあなたを苦しめている敵(問題)とはどのようなものだと思えますか。

4.あなたは自分が羊のように弱い存在だと言うことを認めることができますか。そのあなたにとって羊飼いである神はどのような存在であると言えますか。

2019.2.3「主に養われる教会生活」