2019.3.10「永遠の命に至る水がわき出る」
ヨハネによる福音書4章6〜26節
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
1.サマリアを通るイエス
この伝道礼拝では毎月聖書からイエスに出会った人々についてのお話を学んでいます。今日はヨハネによる福音書4章が紹介している物語、私たちがこの礼拝で使っている新共同訳聖書では「イエスとサマリアの女」と言う表題がつけられている箇所を学びます。
この聖書箇所について、私には今でも忘れられない思い出があります。それは私が神学生のときに、教会の礼拝で最初にお話をしたときに取り上げたのがこの物語ったからです。当時、京都にあった小さな伝道所の礼拝で私は私以外の三人の出席者の前でこのお話を語りました。それはとても心地のよい午後の礼拝であったせいもあると思います。私がふと気づくと目の前に座っている三人の聴衆全員が眠ってしまっていました。私はそれでも準備して来た原稿を話し続けたという思い出が残っています。ですから今日の礼拝でもそんなことにならないように用心してお話を進めたいと思っています。
ところで私がどうして自分にとって記念すべき最初の礼拝でこの物語を取り上げたのかと言えば、それだけこの物語の内容に関心があったからだと言えます。その頃の私はこの物語の最初に記されている「しかし、(イエスは)サマリアを通らねばならなかった」(4節)と言う言葉を特別な思い入れを持って読んでいました。それは神と私との出会いは偶然に起こったものではなく、この出会いは最初から神によって準備されたものであることを確信させるような言葉だと考えられたからです。
イエスはこのときユダヤを去り、ガリラヤに向かう旅の途中にありました。巻末の聖書地図をご覧になると分かりますが、ユダヤとガリラヤを直線で結ぶとちょうどその途中にサマリアと言う場所があることが分かります。ですからユダヤからガリラヤまで行くには必ずこのサマリアを通る必要があるのです。ところが当時の事情をよく知る者はこのイエスの旅の行程が特別なものであったことが分かるのです。なぜなら、当時のユダヤ人はこのサマリアの地域に住む人々と仲が悪く、いつも争い合っていたからです。だからユダヤ人がガリラヤに向かう場合にはわざわざヨルダン川の西側に渡り、このサマリア地方を大きく迂回するコースを選んだのです。その事情を知ればイエスが普段はユダヤ人が選ばないサマリアコースを進んだのには相当の訳があったと考えることができるのです。 そこで想像できる一番簡単な理由は「イエスが旅を急いでいたからだ」と言う理由です。しかし、今日の物語を読むと、私たちはイエスがサマリアコースを選択したのは、「急いでいたから」と言う簡単な理由以外にもあると思わされるのです。なぜなら、ここでイエスはサマリアに住む一人の婦人との大切な出会いを経験されているからです。このイエスとサマリアの女との出会いは一見して偶然生まれたように思われます。しかし、実はイエスはこの婦人と出会うためにユダヤ人が通常選ばないコースを取ってこのサマリアにやって来られた。「サマリアを通らねばならなかった」と言う聖書の言葉はその事情を教えていると考えることもできるのです。
イエスがわざわざ一人の婦人に出会うためにサマリアにやって来らました。私たちと神との出会いも実はこの物語と同じような性格を持っていると言えるのです。私たちには偶然に見える出会いであっても、神の側からみると全くそうではないことが分かります。なぜならこの出会いは神の計画の中で予め備えられた出会いであったからです。神が私たちに出会うために、私たちを救うためにわざわざ準備してくださった出来事、それが私たちと神との出会いであり、イエスとの出会いであると言えるのです。私たちはこの素晴らしい神との出会いについて、今日もこの物語から考えて行きたいのです。
2.水を汲みにきたサマリアの女
この物語はイエスが旅に疲れてヤコブの井戸と呼ばれる場所で休んでいるところから始まっています(6節)。この時弟子たちはちょうど自分たちのための食料を買い求めるために町に出かけて行っていました(8節)。だから、そこにはイエス一人だけが残されていたのです。するとその場所に「サマリアの女」と呼ばれる婦人がやって来ます(7節)。ヨハネはこの時刻を「正午ごろ」とわざわざ福音書に記しています(6節)。そう記すのは普通この時間に井戸まで水を汲みにくる人はいなかったからです。水汲みは大変な重労働ですから、このような日差しの強い時刻にそれを行うことはめったにありません。それなのになぜ、こんな時間にサマリアの女は水を汲みに来たのでしょうか。それはこの物語が展開していく中で私たちにも少しずつ分かって来るのです。
イエスはこの婦人に「水を飲ませてださい」と話しかけられました。するとサマリアの女はイエスの言葉を聞いて驚きます。ヨハネはその理由をわざわざ「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」(9節)と解説しています。だからこの婦人はイエスに「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と尋ね返しています(9節)。ここのところ原語は「同じ器で飲むのですか」と言う意味の言葉が使われています。当時、ユダヤ人は汚れた人が触った食器をその人と共有して使えば、その食器を通して自分にもその人の汚れが移ると考えていました。だからユダヤ人は得体の知れない他人が提供する食器を使うことを極力さけました。ですからイエスのここでの行動は通常のユダヤ人の姿と大きく違っていたのです。
イエスはこの婦人の問いに直接答えるのではなく、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(10節)と語りました。この物語を読んでいくとこれ以後も、話題が微妙に変わって行っているのが分かります。イエスは婦人の質問に答えるのではなく、「わたしがあなたに生きた水を与えよう」と言われているのです。しかし、この話題はサマリアの女の関心を強く引き付けるものとなりました。なぜなら、彼女はこの水のことで普段から不便を感じていたからです。
そこで彼女は改めてそう語るイエスの姿を見つめなおして、新たな疑問を抱きます。この人は水を井戸から汲む道具も持っていないし、その水を飲む道具も持っていない…それならどうして水を私に与えることができるのだろうか…。彼女はその疑問をそのままイエスに投げかけています(11〜12節)。ところがまたしてもイエスの答えはサマリアの女の質問に直接答えるものではありません。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(13〜14節)。
サマリアの女はこのイエスの言葉を聞いてさらに「水」に対して好奇心を抱くこととなります。なぜなら、その水があれば自分はこんな井戸まで毎日水を汲みに来なくてもよくなると考えたからです(15節)。実は彼女にとってこの井戸まで水を汲みに来る作業は一番やりたくないことだったのです。その理由は水汲みが重労働であると言うだけではありません。日本でも「井戸端会議」と言う言葉がある通り、この井戸は通常たくさんの人が集まってうわさ話をする会場になっていたのです。そしてこのサマリアの女はこの井戸端会議を何よりも恐れていました。なぜなら町の人々はこの婦人の話題をいつも面白おかしくこの井戸の傍らで語っていたからです。だからそんな話を聞きたくない、そんな人々に出会いたくないと考えたこの婦人はわざわざ人が集まらない「正午ごろ」と言う時間を選んでこの井戸にやって来たのです。
3.本当の自分
それではどうしてサマリアの女は近所の人々が井戸端会議で取り上げるうわさの主人公になっていたのでしょうか。ここで続けて語られるイエスとサマリアの女との会話がその理由を明らかにしていきます。イエスの言葉にサマリアの女がすぐに「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)と願い出ると、この会話は意外な方向に進んで行きます。イエスが突然この婦人に対して「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)と語られたからです。するとサマリアの女はすぐにこのイエスの質問に「わたしには夫はいません」と即答しています(17節)。
ところがこの話題からサマリアの女の隠された身の上が明らかになっていきます。しかもそれを説明したのは当の本人ではなく、イエスの方だったのです。イエスはこのサマリアの女の身の上を不思議なことによく知っていて次のように説明します。
「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」(17〜18節)。
まるで週刊誌の話題にもなるような放縦ともいえるこのサマリアの女の男性関係がここで明らかになります。今まで彼女には五人の夫がいました。しかし今、彼女と一緒に住んでいるのは「夫」でもない男性だと言うのです。今までの夫と彼女は死別していたのか、それとも離縁されていたのか、あるいは自分の方から逃げ出してしまっていたのか、その事情はよく分かりません。いずれにしても彼女は不幸な結婚生活を繰り返し、今はまた結婚に失敗することを恐れているのか、別の新たな男性と同棲関係を続けていると言うのです。これでは近所の人々のうわさ話に花を咲かせる話題になってしまうことは当たり前です。
ところでイエスはなぜサマリアの女が明らかになることを避けていた事情をあえてここで取り上げて語られたのでしょうか。おそらくそれはイエスとこのサマリアの女との出会いが本当のものになるために必要であったと考えることができます。もし皆さんが、急病になって家に救急車を呼ぶことになったらどうでしょうか。そのとき大切なのは自分の居場所を正しく消防署に伝えることです。もし、誤ってそれを伝えたら救急車はいつまで経っても、自分の家にはやって来ないからです。しかし、そのとき、「自分の家は散らかっていて、はずかしい、こんなみすぼらし家を見せたくない」と考えて、誰か別の家の住所を消防署に教えたとしたらどうでしょうか。やはり救急車は自分のところに来ることはできなくなります。
私たちが神と出会う際に大切なことは、自分のありのままを神に伝えることです。ところが私たちは神の前であってもどこかで、自分を取り繕って、少しでも立派に見せよう、問題などない人間に見せようと振る舞うことがあります。しかし、それでは私たちはいつまでも神と出会うことができません。なぜなら、神は私たちの抱える問題を解決してくださるために私たちのところに来てくださる方だからです。
4.準備されている出会い
サマリアの女は明らかにされた自分の身の上に向き合うことができなかったのでしょうか。ここで話題を急に変えてしまいます。礼拝を献げる場所はどこが正しいのかと言う話題を取り上げています。当時、エルサレムには立派な神殿が建てられていて、ユダヤ人はそこで神への礼拝を献げていました。ところが、サマリアの人はゲリジム山と言う山にエルサレム神殿とは違う礼拝の場所を作っていました。実はこれがユダヤ人とサマリア人の争いを深刻にさせる原因ともなっていたのです。 神殿は神の住まいではありません。なぜなら神は人間の作ったような場所に閉じ込められるような方ではないからです。それでは神殿はどのような役目を果たすために建てられたのでしょうか。それは神と人間とが出会う場所となるためです。かつてエルサレム神殿を建てる任務を負ったソロモン王は「この場所で献げられる祈りを聞き届けてください」と神に祈りました(列王記上8章29節)。つまり、神殿はそこで献げられる祈りが神に確かに聞き届けられるという保証の役割を果たすものなのです。だから間違った場所で熱心に祈りをささげたとしても、その祈りは無意味なものであり、「骨折り損のくたびれ儲け」になってしまいます。礼拝の場所の問題はサマリアの女にとっても他の人にとっても重要なものであったと言えるのです。
イエスはこの婦人の問いに対して次のように答えられています。
「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」(23節)。
イエスはこれからやって来る新しい時代の礼拝をここで預言されています。今までのようにエルサレム神殿と言う限られた場所でしか礼拝を献げることができなかった時代が過ぎ去って、誰もが「霊と真理」を持って神を礼拝する時代がやって来るとイエスは語るのです。イエスは神との出会いの場が私たちに新しく提供されると言うことここで語っているのです。なぜなら、エルサレム神殿に代わって私たちの祈りを保証するために来られた方こそ、救い主イエスご自身だったからです。このイエスの救いが実現することで、いつでもどこでも私たちは神と出会い、神に祈りを献げることができるようにされるのです。
私たちが献げる礼拝が、そしてそこで献げられる祈りは本当に神に受け入れられていることを保証する方こそこのイエスなのです。このイエスの名前によって献げられる礼拝は、そして祈りは確かに神に受け入れられるものとなるのです。ですから、私たちがイエスの名によって献げられる礼拝に参加できると言うことは何よりも素晴らしいことだと言えるのです。なぜなら、神は確かにこの礼拝を通して私たちと出会ってくださるからです。
この出会いは私たちの人生に偶然に起こったような出来事ではありません。すべては神の計画によって備えられたものなのです。なぜなら、神はこの出会いのために私たちに救い主イエスを送ってくださったからです。イエスがこのサマリアの女と出会うために「サマリアを通らなければならなかった」ように、イエスは私たち一人一人の人生にも深く関わってくださり、その結果、私たちは神との出会いへと導かれているのです。私たちはこの素晴らしい出会いを私たちのために実現してくださった神の御業に心から感謝をささげたいと思います。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
不幸な人生をさまよいながらも真の救いを求めたサマリアの女に救うために、旅の疲れを覚えながらも彼女に語りかけてくださったイエスが、今日もこの礼拝で私たちに一人一人に聖書のみ言葉を通して語りかけてくださる幸いを心から感謝いたします。たとえ私たちの献げる礼拝が貧しいものであっても、私たちの献げる祈りがふさわしいものでなかったとしても、主イエスはそそのすべてをご自身の力でふさわしいものに変えて、神に聞き届けられるものしてくださることを心から感謝したします。私たちが揺れ動く感情や、頼りにならない自分の業に信仰の根拠を置くのではなく、救い主イエスの保証に信仰の確かさを覚え、さらに神との出会いを深めることができるように助けてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.サマリアの女はどうしてイエスの語る「水」についての話題に強い関心をもったのだと思いますか。
2.どうしてサマリアの女は礼拝する場所の問題に関心を持って、イエスに質問したのだと思いますか。
3.私たちが献げている礼拝と祈りが確かに神に受け入れられるという保証を私たちは何を通して確認することができますか。