2019.3.17「誰よりもたくさん入れる」
マルコによる福音書12章38〜44節
38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
1.二人の人物から学びなさい
数日前に朝日新聞の一面に掲載されている「折々のことば」と言うコーナーに書かれていた一文に目を止めることがありました。そこには「ハイ、売名です。あなたも売名したら? みんな助かるよ」と俳優の杉良太郎さんの語ったとされる言葉が掲載されていました。これだけ読んだら、皆さんもこの言葉にいったいどんな意味があるのかわからないはずです。私もその言葉に興味が沸いて、そこに書かれている解説の文章を読んでみました。どうやらこの言葉は杉良太郎さんが東北の震災の災害被害者を援助するために行ったボランティア活動の合間に語られたものであることが分かりました。
この時、杉さんは一生懸命に地震の被害にあった人々のためにボランティアでカレーを配っていたのです。すると一人のリポーターが「どうせ売名でしょう」と心無い言葉を投げかけて来ました。皆さんだったら、こんな言葉を言われたらどんな対応されるでしょうか。私なら一生懸命になって「そうではない」と言うことを説明し始めるかもしれません。しかし、この時の杉さんは違いました。彼はそんな応対に時間を使ってしまう場合ではないと言うことをよく知っていたのです。そんな無駄なことに時間を費やしてしまったら、せっかく、ここまでカレーを食べに来た被災者の人たちを待たせることになってしまうからです。
この文章には杉さんが18歳のときから60年間にわたって刑務所の慰問などのボランティアを続けて来たことが説明されていました。だから、彼はリポーターにそれらの事情を話して説明することもできたはずです。しかし、杉さんはそんなことのために大切な時間を費やしてしまうことはしなかったと言うのです。
私はこの文章を読んで、私たちが普段いろいろな人の言葉に傷ついたり、振り回されてしまう理由は、今自分が何をすることが大切なのかを忘れてしまっているところにあるのではないかと思いました。もし、それが分かっていればそれ以外の余分なことに時間を割くようなことはしないはずだからです。心無い人が口を挟んできても、「はい、その通りです」と軽く受け答えて、自分がやるべきことに専念すれはよいはずなのです。もし私たちもこんな風に生きられたら、私たちに人生はどんなに自由で祝福されたものとなるでしょうか。
今日の聖書箇所でイエスは二人の人物を取り上げています。そして私たちにこの二人の人物から学ぶようにと教えています。一人は私たちが決して見習ってはならない人物、それが律法学者と呼ばれる人です。そしてもう一人は貧しいやもめ、つまり夫を失くして生活する未亡人です。イエスはこのやもめの姿から私たちが積極的に学ぶようにと教えているのです。それでは私たちはこの二人の人物から何を学ぶことができるのでしょうか。皆さんと共にそのことを少し考えて見たいと思います。
2.自分を礼拝する律法学者
イエスはまず私たちが見習ってはならない人物として「律法学者」と言う教師を取り上げています。この律法学者は聖書によく登場する人たちです。彼らは常日頃から聖書を研究し、その知識に精通しています。そして人々に聖書の教えを語り、特に聖書に記された神の律法に従って生きるようことを勧めた人々です。ところがここでイエスが取り上げている律法学者はむしろその本来の任務を忘れて、全く違ったところに関心を持っています。
「彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」(38〜40節)。
彼らは「長い衣をまとって歩き回る」とイエスはここで語っています。そんな着物を着たら、歩きづらくて日常にかえって支障がでるかもしれません。だから、彼らがそれを切るのは決して仕事をするためではありません。彼らは人々の関心を買うために、わざわざ人とは違った服を着ようとするのです。一目で自分は律法学者であるということが分かるような服を着て、人々からそれにふさわしい尊敬を受けることに彼の関心の中心を置かれていたのです。律法学者の本来の役割は聖書が教えているように貧しいやもめを大切に保護することですが(申命記24章17〜19節)、彼は自分の利益のためにやもめの家を食い物にすると言われています。また、これも人々の関心を集めるためにわざわざ「見せかけの長い祈り」をささげます。これらの行為から分かるように、この律法学者の関心は自分に向けられていることがわかります。そして律法学者は人々が自分に敬意を払うことを、また自分に利益をもたらすことをいつも求めて生きているのです。ある聖書解説者はこの律法学者は「神を礼拝させるのではなく、自分自身を神のように礼拝している偶像崇拝者だ」と解説しています。
聖書に登場するイエスも聖書の知識に精通し、人々が神に従って生きるためにはどうしたらよいかを教えました。その意味ではイエスもまたこの律法学者と同じような使命を持って生きていました。しかし、イエスの生き方は、ここで取り上げられている律法学者の姿とは全く対照的です。
彼は特別に立派な服を着ることはありませんでした。おそらく、当時の一般の庶民が身に着けていた服と全く変わらない、むしろ、貧しい者たちが身に着ける服を着ていました。彼は人々が特別な取り扱い方を自分に対してするようにとは求めることありませんでした。むしろ、誰とでも分け隔てすることなく付き合うことを望まれたのです。確かにイエスはことあるごとに熱心に神に祈ったと聖書は報告しています。しかし、それは人に見せびらかすためではありません。むしろイエスは人目を避けて、祈ることを好んだからです。イエスは本来、神の御子であり、救い主としてこの地上に来られた方です。しかし彼は自分を人々によく見せることに対しては全く無関心であっようです。それはイエスが自分に与えられた救い主としての使命に対してだけ忠実に生きようとされたからです。イエスの使命は神のみ言葉を伝え、人々が聖書の証する福音を信じることにありました。だからイエスは限られた人生の時間を自分に与えられた使命を果たすためだけに用いようとしたのです。
また、イエスが人とは違う服を着ることをしなかったのは、イエスが神の子として何も着飾る必要もない身分を持っていたからだと言えます。私たちはなぜ、必要以上に自分をよく見せたいと思うのでしょうか。それはそうしなければだめだと思っているからです。私たちがそのままで自分の存在は素晴らしいと考えていれば、必要以上にそんな心配をする必要がなくなるはずです。ここに登場する律法学者は自分が本来持っている価値、神に造られた人間の本当の価値を忘れてしまっていました。だから彼は必要以上に自分を着飾ることに関心を払ったのです。イエスはこのような人物の生き方を決して見習ってはならないと教えているのです。
3.すべてを献げた貧しいやもめ
さてもう一人の教師としてイエスが示してくださった人物はどのような人であり、また何をした人なのでしょうか。彼女はここで「貧しいやもめ」と呼ばれています。やもめとは夫を失って一人で生きていかなければならなくなった女性のことです。当時のユダヤは男性を中心とする社会で構成されていました。婦人の身分は高く評価されるどころか、むしろ虐げられていたというのが実情です。特に夫を失くした未亡人は、生きていくために大変な苦労をしなければならなかったようです。なぜなら、女性が一人で働いて、自分の生計を立てることはこの時代にはほとんど不可能であったからです。やもめが生きていくためには夫が残した遺産のようなものが必要です。それさえ無いやもめは人々から施しを受けて生きていかなければならなかったのです。この物語に登場するやもめは、イエスの言葉から考えると人々からの施しで生きていくしかない、貧しい女性であったことが分かります。
当時の神殿には礼拝に訪れる人々が献金をささげるために、一三の献金箱が準備されていました。献金箱と言ってもその形状は箱ではなく角笛のような形をしていたようです。人々は自分の献げる献金の目的に従って、指定された献金箱にお金を献げる必要がありました。特にこの献金箱には当時、ユダヤで流通していたローマの貨幣は入れることはできません。ですから、この神殿の庭には両替商がいて、ローマの貨幣とユダヤの古い貨幣とを交換する商売をしていました。献金箱の横には祭司たちがいつも見守っていて、人々が掟通りの方法で、定められた金額を献金箱に納めるかどうかを監視していたと言われています。
私が神学生の時に奉仕していた大阪にあった韓国人教会の礼拝では、献金の後にすぐ、牧師は献金箱の中を確かめて、誰がどのような目的で献金を献げたのかを礼拝の中で発表していました。神殿の祭司たちは賽銭箱の横で、誰が何のためにどれだけ献金をささげているかをチェックして、それを発表していたのかもしれません。だから、この婦人がレプトン銅貨二枚だけをささげたことが、イエスたちにも分かったのです。
イエスの解説によれば、この貧しいやもめがささげたレプトン銅貨二枚は彼女の全財産であったと言われています。そうだとしたら、その全財産を献げることは決して彼女にとって簡単なことではなかったはずです。ここに登場する「レプトン」とういうお金の単位は当時の貨幣の中で一番小さなものでした。私が持っている解説書の一つにはこの貧しいやもめは「五円玉二枚を献金した」と意訳されています。彼女がここで献げようとした献金の金額は子どもの小遣いにも満たない僅かな金額でした。ですから、彼女は全財産を献げてしまうことに躊躇しながら、その一方では献げる金額の少なさのためにはずかしそうにその献金箱にお金を入れたのかもしれません。
しかし、その姿をイエスはちゃんと見てくださっていました。そして貧しいやもめの献金をイエスはたいへん評価されたのです。それはどうしてなのでしょうか。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」(43節)とイエスは言われています。そしてその理由について続けてこう語るのです。「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(44節)。
イエスは彼女が献金箱に入れた金額を見ているのではありません。おそらく、彼女の献げた献金の額を遥かに上回るような大金を献げる人もたくさんいたからです。イエスがこのとき見ておられたのは献げられた献金の額ではなく、残された金額です。彼女よりも多くの金額の献金を献げる人はいました。しかし、彼らの財布にまだ献げた献金とは比べることができないほどの大金が残されていたのです。ところが、貧しいやもめの場合はそうではありませんでした。彼女の財布にはもう一銭も残されていないのです。だからイエスはこのやもめが「だれよりもたくさんいれた」と言われたのです。実はこのやもめの姿がと先に語られた律法学者の姿はとても対照的であることが分かります。律法学者は自分のために立派な着物を着て、人々から尊敬されることを求めました。自分の利益のためには貧しいやもめさえ利用することもしました。自分をよく見せるために熱心に祈っているようなそぶりさえ演じたのです。それもまた自分のためにです。しかし、この貧しいやもめは自分のためには何も残すことなく、全財産を神に献げてしまったのです。
このお話は私たちも持っている全財産をすべて教会に献げるようにと言うような単純な適用を私たちに教えているのではありません。このお話は私たちが自分の大切な人生を何のために使うべきかを教えていると考えることができます。
インドで貧しい人々のために献身的に働いたマザーテレサはノーベル平和賞を受賞し、世界的にも多くの人に知られている人物の一人です。彼女は他人にはマネのできないようなすばらしい事業を行いました。このマザーテレサの生き方はむしろとてもシンプルであったと言われています。「神さまは私たちにできることしか望んでおられない」と彼女は、周りの人に語ったと言います。「できることしかしない」それが彼女の発揮することができた力の秘密であったと言えます。私たちがどうしても陥ってしまう誤りは、「余計なことをして、また余計なことを考えて、本来できるはずのことができなくなってしまう」と言うことだと思うのです。私たちは持っている力を余計なところで使い果たして、本来すべきことができなくなってしまっているのです。これはとても残念な生き方であると言えます。
心無い人が「売名行為ですね」と言って来ても、その言葉に「はい売名行為です。あなたも同じことをしてみませんか」。そう言って、杉良太郎さんのように自分がやるべきことをすることができたら本当にすばらしいことではないでしょうか。「神さまを信じるなんて馬鹿じゃない。日曜日に教会に行くなってよっぽど暇なので」。そんな風に言われても「わたしは馬鹿です。でもあなたも神さまを信じて見れば、日曜日に教会に行ってみれば、馬鹿になることがとても幸せなことが分かるでしょう…」。そう言って神に従うことができるなら私たちの人生は本来の力を発揮することができるのです。イエスはそんな素晴らしい生き方を選んだ貧しいやもめの姿をここで私たちに示し、私たちにも彼女のように生きえるようにと教えておられるのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
私たちの命を与え、私たちの人生を祝福していくださるあなたの御業に心から感謝します。こんなに素晴らしい人生をあなたから与えられながらも、余計なところに心を向けてしまって、愚かなことに自分の人生を費やしてしまうような私たちをどうか助けてください。私たちの心をあなたに向けることで、私たちにできることを行い、あなたが備えてくださっている祝福された人生を送ることができるように私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスは「律法学者に気をつけなさい」と言って彼らが普段何をしていると教えていますか(38〜40節)。
2.どうしてこのような律法学者は「人一倍厳しい裁きを受けることになる」のでしょうか(40節)。
3.律法学者は「見せかけの長い祈り」をしました。それは人々からの尊敬を自分が受けるためであったと考えることができます。それでは本当の祈りはどのようなものであるべきだと思いますか。
4.イエスは神殿にあった賽銭箱の向かいに座って何をご覧になられましたか(41〜42節)。
5.貧しいやもめは献金箱にいくらいれましたか(42節)。イエスはこのやもめの献金をどのように評価されましたか(43節)。
6.44節のイエスの言葉からこのときのイエスの評価の基準がどこに置かれていたことが分かりますか。
7.あなたがこの貧しいやもめの姿から学べる点は何ですか。