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2019.3.24「確かなものがなくなる時」

マルコによる福音書13章1〜4節

1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」

2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。

4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」


1.神殿崩壊の予言

 今日も皆さんと一緒にマルコによる福音書が伝えるイエス・キリストについての物語を学びたいと思います。イエスがエルサレムの町に入城された後に起こった出来事が続けてここでは語られています。イエスはこの後、エルサレムを支配するユダヤ人の指導者たちの手によって逮捕され、不当な裁判を受けることになります。その際に、イエスの逮捕の理由の一つとされた罪状は彼が「エルサレム神殿を打ち倒す」と人々に語ったと言うものでした(14章58節)。ユダヤ人の指導者たちは根も葉もない言いがかりをつけて、イエスを有罪としようとしたのです。このようにイエスが「神殿を打ち倒す」と言ったと言うことは彼らの考えた偽りにすぎませんでした。しかし、イエスは今日の箇所の物語でもわかるように、このエルサレム神殿がやがて崩壊すると言う予言は語られていました。  エルサレム神殿はイスラエルの王ダビデの考えによって建設計画が立てられ、その子であったソロモン王が実際には完成させたものでした。ただ、その後このソロモン王が建てた神殿は他国の軍隊の侵入によって破壊されてしまいます。この神殿はその後も再建と破壊を繰り返したのち、イエスの時代に存在したのは第三代目の神殿であったと考えられています。この神殿は有名なクリスマス物語に登場しているヘロデ王が再建したものでした。ただ、このヘロデが着工した神殿は紀元前19年に工事が開始され、ヘロデ王の死後も工事は継続されていました。実はイエスの時代にもこの工事は続けられていたと伝えられています。そしてこのヘロデの神殿が完成したのは紀元70年に起こったローマ軍によるエルサレム神殿の破壊の直前であったと言われているのです。

 もともとユダヤ人ではなかったヘロデ王はユダヤ人たちからの好意を集めるためと、自らの権力の巨大さを誇示するためにこの神殿を建てたと考えられています。記録によれはヘロデの建てた神殿はソロモンの建てた神殿よりも大きなものであったようです。きっとそれはエルサレムの町にやって来た誰もの目を奪うような壮麗な建物であったと言うことが想像できます。

 イエスの弟子たちはガリラヤの田舎町に住んでいた漁師たちでしたから、このエルサレム神殿の立派なたたずまいに目を奪われてしまっても仕方がありません。弟子たちはここでその素直な感想をイエスに語っています。

「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」(1節)

 イエスはこの弟子たちと違って漁師ではなく大工の家の出身でした。しかし、住んでいたところは弟子たちと同じガリラヤの田舎町です。ですから、弟子たちはイエスも自分たちと同じように反応するものと考えたのかもしれません。ところが、このときイエスの口から出た言葉は弟子たちが予想もしていなかったものでした。

「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(2節)。

 イエスはこの立派なエルサレム神殿がやがて跡形もなく破壊されてしまうと言う予言をここで語っています。実際にこの神殿は先ほども少しお話したように、紀元70年に起こったユダヤ人の反乱を鎮めるためにエルサレムにやって来たローマ軍によって徹底的に破壊されてしまいます。皆さんはよくニュースなどの映像で現代のエルサレムの町に残る「嘆きの壁」と言う石垣をご覧になられたことがあるかもしれません。この「嘆きの壁」の前でユダヤ人たちが祈りをささげている光景がよくテレビの映像として流されています。この「嘆きの壁」はローマ軍によって破壊された神殿の一部が残されたものと言われています。だからユダヤ人たちは現代でも失われたエルサレム神殿を思い起こして、ここで祈りをささげているのです。

 しかし、イエスがこの発言をされた時代には誰も「神殿が跡形も無くなくなってしまう」と言うような思いも持ったものはいなかったのです。当時のユダヤ人にとって神殿はこの地上で唯一、真の神の存在を確信することができる場所でした。ユダヤ人にとってこの神殿が無くなってしまうと言うことは、神がユダヤ人を見捨ててどこかに行ってしまったと考えられるような、信仰深いユダヤ人には想像もつかない出来事だったのです。だから、弟子たちはそんなことが本当に起こるのだろうかと疑問に思ったはずです。弟子たちはこの後、しばらくしてイエスの発言の真意を問い正しています。

「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(4節)

 弟子たちにとって神殿が破壊されるなどと言うことは考えられないことでした。だからそれがもし起こるとしたら、世の終わり、つまり終末の時に起こる出来事に違いないと考えたのです。だから彼らはイエスに世の終わりはいつ起こるのか、それが起こる前にどんな兆候が表れるのかを質問したのです。


2.今を生きることを求めるイエス

 私たちもエルサレム神殿がいつまでもなくなることはないと勘違いした弟子たちのように、今の自分の人生がいつまでも続くと勘違いして生きてしまう傾向があります。だから、イエスがこのとき、弟子たちにエルサレム神殿が必ず破壊されるときがやって来ると語ったように、聖書は私たちの人生にも終わりは必ずやって来ること教えています。そして聖書は私たちの住む世界さえも終わりを迎える終末の時がやって来ることをも教え、私たちの生き方に警告を発しているのです。私たちがこれから学ぼうとしているマルコによる福音書13章の記事は多くの人たちから「小黙示録」と言われています。この箇所は有名なヨハネの黙示録の内容と同じようにこの世界の終わりである終末の時を予言する箇所と考えられているからです。ですから、私たちはここからしばらく、イエスによって語られた世の終わりの時、終末の時の予言を学ぶことになります。そこで今日はこの終わりの時についての小黙示録を学ぶ入り口として、そもそも私たちがこのような終わりの時を考えることは、私たちの信仰生活にどのような意味をもつのかと言うことについて皆さんと少し考えて見たいのです。

 日本の古い映画で世界的にも有名な映画監督であった黒澤明氏が作った「生きる」と言う作品があるのを皆さんもご存知でしょうか。この教会でもだいぶ前にプロジェクターでこの映画を映して鑑賞会を行ったことがあります。この映画は市役所の市民課の平凡な課長であった主人公がある日、病となり、自分の死期を知るところから始まっています。いままで、主人公は市役所の職員として当たり障りもない生き方をして一生を送って来ました。ところが、自分の命の時間が後わずかしか残されていないと言うことを知ったとき、主人公は初めて自分が「生きる」と言うことについて真剣に考え、悩み始めるのです。彼は残された自分の人生のわずかな時間をどのように過ごすべきかを考えざるを得なくされたのです。

 キリスト教会の中でもこの世の終わりについての聖書のメッセージを聞いて、そのメッセージを誤解して受け取る人がたくさんいました。ある人たちは「どうせこの世は終わりのだからか、今までのような生き方をしても無意味だ」と考えて、日常的な生活を辞めて、山に籠ったり、教会の一室に閉じこもって祈りと瞑想をしながらそのときを待とうと考える人々が現れました。しかし、彼らは自分たちが予想した時間になってもこの世が終わらないことを知ると、自分は裏切られたと考え、信仰さえ失ってしまうこととなりました。

 映画「生きる」の主人公も最初は、自分が今まで生真面目一辺倒で生きて来て、決して味わったことのないような経験を味わってみようと町の歓楽街に足を踏み入れます。しかし主人公は華やかな町の喧噪の中に身を鎮めても決して心が満たされることはありませんでした。そんなことをしても自分が生きていると言う実感を彼は感じることができなかったのです。

 この映画には中盤でストーリが大転換を迎えるシーンが描かれています。町の喫茶店で、自分の残された人生をどのように生きるべきかを考える続ける主人公の姿、それと重なるように同じ喫茶店の中で女子大生たちが仲間のバースデーパーティーを祝っています。そしていよいよパーティーの主人公が仲間たちの「ハッピーバースディー、トゥユー」の歌声に迎えられて会場に入ろうとする時がやって来ます。するとその同じ瞬間に映画の主人公は「そうだ。まだ間に合うぞ。自分にはまだできることがある」と叫びながらその喫茶店を出て行くのです。おそらくこのシーンの「ハッピーバースディー、トゥユー」の歌は、自分の生きる目的を改めて見出した主人公の再生を祝って歌われているのだと思えます。

 自分の人生に終わりがあると言うことを知ることは、私たちが本当に確かな人生を生きることを考える機会となります。そしてその機会は私たちが新しい人生を始めることができるときでもあると言えるのです。ですから聖書が語る終末のメッセージは「今はとても辛い人生かもしれないが、やがてやって来る未来はとても素晴らしい、だからその未来だけを考えていれば、今の苦しみを忘れることができる」と勧めるような現世逃避を教えるものではありません。むしろ、聖書が教える終末のメッセージは私たちの人生にもこの世界にも必ず終わりの時がやって来るのだから、今の時を真剣になって生きる必要があることを教えているのです。

 もし、私たちが真剣になってその人生の生き方を探ろうとするならば、その答えを神に求める必要があります。なぜなら、私たちの命も人生も神が造ってくださったものだからです。神こそ、私たちの本当の人生の目的を知っておられるただ一人の方です。だから私たちは、残された人生の時を生きるためにまず神のみ言葉に耳を傾け、そのみ言葉に従う必要があるのです。


3.死に限界づけられた者の幸い

 かつて第二次大戦中にナチスドイツのユダヤ人迫害の犠牲者となり、強制収容所に送られて、そこで自分が受けた過酷な体験を「夜と霧」と言う書物に記した心理学者ビクトル・フランクルと言う人物がいます。この「夜と霧」は世界中の言語に翻訳されたくさんの人々に愛されている書物の一つです。最近でもフランクルと同じように過酷な体験をしたあの東日本大震災の被害者の中でもよく読まれていたと言われています。このように収容所で自らも過酷な体験をしたフランクルは今でもその著作を通して同じように苦しむ人々の心を慰め励まし続けていると言うのです。

 彼の語った講演集の「それでも人生にイエスという」(春秋社刊)の中には、人間の命が死によって限界づけられていることの意味を扱った興味深いお話が載っています。フランクルによれば人間の地上の命が死によって必ず終わりを迎えることには深い意味があると言うのです。なぜなら、私たちの人生がいつまでも終わらないとしたら、私たちは今日と言う日にしなければならない大切なことができなくなってしまうからだとフランクルは語るからです。もし、私たちの人生がいつまでも続いて明日がいつまでも繰り返しやってくるならば、私たちは今日しなければならないことを明日すればよいと考えてしまいます。私たちは面倒なことや大切なことをいつまでも先お切りして、結局何もできなくってしまう傾向があります。しかし実際には、私たちの人生に明日が必ずやってくるとは限りません。私たちの人生には必ず終わりがやって来るからです。だから、私たちは今、しなければならないことを、明日に引き延ばすことはできないのです。今、それをしなければ、もう一生それをすることはできなくなるのが私たちの人生なのです。

 聖書が私たちの人生やこの世についての終わりを私たちに語る意味も同じです。私たちが自分の人生について、また私たちの住むこの世界について決して先送りすることなく今真剣に考え、どう生きるべきかを考えるためにこの教えは語られているのです。


4.今を生きる者に約束されている永遠の命

 ここまで聖書が私たちの人生やこの世には必ず終わりがやって来ることを教えている意味ついて考えて来ました。私たちの人生に終わりがやって来ること、私たちの住む世界にも終わりがやって来ると言うことは決して私たちを苦しめたり、絶望させることではありません。むしろ私たちにとってこれらの終わりを考えることには意味があることを聖書は教えているからです。しかし、それでは聖書はなぜ私たちにもう一方で「永遠の命」の祝福を語っているのでしょうか。私たちの人生は死で終わってしまうのではなく、終わりの日に復活して、神と共に永遠に生きることができると言う希望を私たちに聖書は約束しているはずです。それではこの希望は私たちを現実逃避させるだけのものでしかないのでしょうか。

 決してそうではありません。聖書は私たちに確かに永遠の命を約束し、私たちが死んでも、再びキリストともに甦る希望を語っています。またこの世界も同じように神によって新しくされ、私たちはその新天新地で神と共生きることができると教えているのです。

 私たちはこの約束が誰に与えられているものなのかをここでもう一度思い返す必要があります。なぜなら、聖書はこの永遠の命の祝福をキリストの伝える福音のメッセージに応答して、今をキリストと共に生きる人々にだけ約束しているからです。私はこの教会でかつて信仰生活を送られすでに天国に帰られた一人の姉妹のことを時々思い出すことがあります。姉妹は深刻な心臓の病を抱えていて、晩年には教会の礼拝に来ることも難しくなっていました。それでもその姉妹が礼拝に出席されると、本当に真剣に私が語る説教に耳を傾けてくださる姿が講壇に立つ私からもよく見えました。あるとき、私はそのことについて姉妹に尋ねると「先生、私は礼拝に出席できたときには、一言も神さまの語るメッセージを聞き逃したたくないと思っているのです」と語られたことを思い出します。もしかしたら次の週はこの礼拝に出席できないかもしれない、そんな思いがその姉妹の礼拝での真剣な姿勢に現れていたのだと思うのです。

「今日、あなたたちが神の声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ人への手紙4章7節)。

 神は今日、語られる福音のメッセージを心に刻み、神に従って生きようとする決心する私たちに、豊かな祝福を与えてくださるのです。そしてその祝福はこの世の私たちの限られた生涯で終わってしまうのではなく、永遠に続くものであることを神は私たちに約束してくださっているのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 私たちを主イエスに導くために、また私たちを主イエスと共に歩ませるために律法を私たちに与えてくださったことを心より感謝します。私たちがこの律法を正しく学び、従うことで、私たちを救うことができる方は主イエス以外におられないことを悟り、その主を信じることができるようにしてください。そして、主によって救われすでに神の国の住人とされた私たちが、その喜びを表すために神を心から愛し、隣人を自分のように愛するという戒めを心に刻み、信仰生活を送ることができるように助けてください。自分の無力を悟ことができることが主の恵みであることを知り、また自分が懸命に努力できることも主の恵みによるものであることを確信することができるように聖霊を送って、私たちの信仰生活を導いてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.エルサレム神殿を見た弟子たちはイエスにどのような感想を語りましたか(1節)。

2.イエスはその弟子たちにどのようなことを語りましたか(2節)。

3.イエスの言葉を聞いて弟子たちはどんなことを考えたのでしょうか。4節に記されている弟子たちに質問の言葉から彼らの考えたことを想像してみましょう。

4.私たちが自分の人生にも終わりが来ることを意識して生きることは、私たちの人生にどのような影響を与えると思えますか。よかったら、あなたの素直な気持ちをここで整理しえ言ってみてください。

2019.3.24「確かなものがなくなる時」