2019.3.31「人に惑わされないように」
マルコによる福音書13章5〜13節
5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
1.希望の日を信仰を持って待つ
①終末論と人々が抱く不安
マルコによる福音書から今日も皆さんと共に学びたいと思います。前回に引き続いて今日も13章の伝えるイエスのお話から学びます。この13章は多くの人々から「小黙示録」と呼ばれているように、やがてやってくる世の終わりについての教えがイエスの口を通して語られて場所です。 聖書に限らず、世界の終わりを語る者は人類の歴史の中でも数えきれないほど現れ、また消えて行きました。私たちの最近の記憶を思い起こしても「ノストラダムスの大予言」と言う本が日本中の人々に注目されたことがありました。そのほかにもインカ帝国の残した暦が2012年で終わっているので、これは世界の終わりを示しているのではなかと言う話も語られることがありました。このように終末についてのメッセージがいつの時代にも世界中でもてはやされる原因は、誰もが「この世界が終わる日が近い」とひそかに考え、そのことについて不安を抱きながら生きているからではないでしょうか。現代でも大国の抱える核兵器が地球を何度も破壊するほどの威力を持っていると言われています。そのような意味では世の終わりは現代では、より現実味を帯びて私たちの心に不安を抱かせているのかもしれません。
②世の終わりは希望の時
聖書も確かに世の終わりについて語っています。しかし、聖書の語る世の終わりのメッセージは人々を不安に陥れるために語られているものではありません。むしろ、この地上の生活の中で様々な苦しみを味わっている私たちを救うために、世の終わりがやって来ると聖書は語っているからです。なぜなら、世の終わりとは私たちにとって、自分たちの救いが完全な形で実現するときと言えるからです。私たちが今、抱いている信仰は目に見えない確かな存在を信じることだと言うことができますが。世の終わりの時には、私たちは自分の目でそれらのものを確認することができるのです。そのとき目に見えないものを信じて生きて来た私たちは、はじめて私たちの信仰が間違いのないものであったことを目で見ることができるようにされるのです。そのような意味で世の終わりは、私たち信仰者にとっては待ち焦がれるべき希望の日であると言えるのです。
2.偽キリストの出現
世の終わりはいったいどのようにして訪れるのでしょうか。その時はいつ起こるのでしょうか。その出来事の前に何らかの兆候が表れるのでしょうか。この時、イエスの弟子たちはこのような疑問をイエスにぶつけました。彼らはイエスの答えを聞くことで、世の終わりに対する準備をしようとしたのかもしれません。ところがイエスは弟子たちに何か特別な準備するようにとはここで語っていません。むしろ、「人に惑わされないように気をつけなさい」と彼らに注意を促しているのです。世の終わりには私たちを惑わそうとする人々が必ず現れるからです。だから彼らに注意をするようにとイエスは弟子たちに教えます。
「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」(6節)。
「わたしの名を名乗る者が大勢現れる」、つまり偽キリストの出現です。「わたしがあなたの問題をすべて解決してあげますから、私に従いなさい」と偽キリストは甘い言葉をささやきながら私たちに近づいて来ます。
以前、心の病を抱えた女性が教会を訪れ、私たちの礼拝にも何度か出席されたことがありました。しかし、すぐにその女性は教会に来なくなってしまいました。その後、教会から何かの案内をその女性のところまで郵便でお送りしたことがきっかけだったのかもしれません。その女性から私は丁寧に書かれた葉書が届きました。そこには「わたしにぴったりの神さまを見つけたので。もう教会に行く必要はなくなりました」と言う内容の断りの文章が書かれていたのです。おそらく、その方は長い間、悩み続けた問題を解決してくれると言う人物か、宗教を見つけたのかもしれません。それに対してキリスト教信仰は自分の問題を解決することができないと彼女は感じられたのでしょうか。
確かに私たちの信仰は私たちの願望をそのまま実現するためのものではありません。私たちがこの礼拝でも祈っている主の祈りには「みこころが天で行われるように、地上でも行われますように」と言う言葉が記されています。この主の祈りには「わたしたちの願望がそのまま実現しますように」とは祈られていません。それはどうしてでしょうか。私たちを本当に幸せにできるのは真の神以外にはおられないからです。ですから私たちの願望が私たちの人生にそのまま実現しても、私たちは幸せになることはできません。それはなぜでしょうか、私たちの人生も、そしてこの世界も神がお造りなられたものだからです。だから、私たちの神は私たちの人生にとって何が一番必要なのかを、そしてこの世界に何が必要なのかをよく知っておられるのです。一方、偽キリストにはそれがわかりません。彼らには私たちの願望を実現するという甘い言葉をかけることができても、自分自身も他の誰をも救うことはできないのです。ここでイエスはこのような偽キリストの言葉に耳を傾けてはならないと語られたのです。
3.始まっている生みの苦しみ
①戦争と災害
イエスは続けて戦争や災害が次々とこの世界を襲うことを予言しています。人類の歴史の中で戦争が起こらなかったとき、災害が全く訪れなかったときはむしろ数少ないと思います。ですから、戦争や災害がやがて来る世の終わりの予兆であるとしたら、いつの時代もその徴が存在したと言うことになります。その意味では明日、世の終わりが訪れてもおかしくはないと言う気持ちを抱きながら私たちが人生を生きることは決して間違いではないとも言えるのです。
しかし、イエスは私たちに戦争や災害のメッセージにも惑わされてはならないと語っています。なぜなら、私たちはこのような苦難を体験するとでたやすく希望を失ってしまう傾向があるからです。私たちの人生に明日何が起こるのか、私たちは何も分かりません。確かに私たちが用心して、私たちの人生に思わしくないことが起こることを防ぐことはある程度はできるかもしれません。しかし、私たちは私たちの住む世界のすべてを私たちの都合のいいように変えることはできません。ここに記される戦争や災害は、私たちの意思とは無関係に私たちに人生に起こって来るものの象徴であると言えます。
私たちはそのようなことが起こったとき、どうすればよいのでしょうか。イエスは語ります。「これらは産みの苦しみの始まりである」(8節)。今は医学も進んで、無痛分娩などと言う出産の方法もあると言います。しかし、それでも子供を産む母親はいつの時代にも苦しみと引き換えに新しい命を授かります。出産によって自分の命さえ奪われてしまう母親さえいるほどに、出産は人生の一大事です。イエスは私たちの世界に起こる出来事をこの出産にたとえます。それは私たちの命が新しくされるために、またこの世界が新しくされるための苦しみだとイエスは語るのです。そしてこのような苦難の中でも私たちに信仰を持って生きることを勧めているのです。
②信じるとは選び取って生きること
神を信じると言うことは、私たちは何もせず、だまって神に従うことと言うことではありません。これでは信仰ではなく「盲従」となってしまいます。私たちの信仰は神の言葉を信じて、その言葉に従うことを自分自身が選び取って生きることだと言えます。
松下電機の創設者であった松下幸之助は若いころ、天涯孤独の身となり、様々な苦難を経験しました。あるとき彼は港湾労働者として港で積み荷を運ぶ作業に携わっていたことがあります。そのとき、彼は慣れない作業のせいだったのでしょうか、冷たい冬の海に落ちて溺れかかると言う体験をしました。やっとの思いで助けられ九死に一生を得た彼は、そこで自分に語られるまったく対照的な話を聞くことになります。一人の人はこう彼に語りかけました。「こんな冬の海に落ちるなど、お前はよっぽどついていない。きっとお前の人生はこれからも大変なことがおこるぞ」。しかし、もう一人の人は幸之助にこう語りました。「この冬の海に落ちて助かるなんてお前はよっぽどついているぞ。お前は幸運の持ち主に違いない」。松下はこの自分に語りかけられる全く違った二つのメッセージを聞いて、自分は「幸運の持ち主だ」と言う方のメッセージを選び、それからもずっと自分の人生はついてその言葉を信じて生きるようになったと言っています。
戦争や災害の出来事の中でこの世から私たちに届くメッセージは、私たちを不安や絶望へと導こうとします。しかし、聖書は私たちに別のメッセージを伝えています。「これらは産みの苦しみの始まりである」と。私たちは信仰を持って、この神のメッセージを選び取って生きます。そしてそのメッセージに従って生きることが私たちの信仰生活だと言えるのです。
4.福音があらゆる国に延べ伝えられる
①福音を証しする機会
私たちを襲う戦争や災害の出来事、私たちはその中で神のメッセージを聞き取り、そのメッセージに従って生きること、それが私たちの信仰生活です。しかし、イエスはその信仰生活にも様々な苦難が生じることを続けて私たちに語っています。
「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」(9節)。
信仰者はこの世の語るメッセージではなく、神の語るメッセージを選び取り、その神に従って生きようとします。当然、そうなると私たちの生き方は世の生き方と違って行くことになります。この世と私たちとは全く歩調が合わなくなってしまうのです。この世はそんな私たちを攻撃して来るのです。そのとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。無理にこの世と歩調を合わせるべきでしょうか。イエスはそうは語っていません。イエスはむしろそのときこそ私たちが信じている神の福音を多くの人に証しする機会となると教えているのです。
教会が伝道のために玄関を広くすること、信仰を持っていない人でも自由に出入りすることができるようにすることは大切です。そのために、私たちが様々な試みをすることも必要になります。また、教会の礼拝に来てくださった方々を歓迎することも大切であると思います。しかし、そのようにしてやって来た教会が全くこの世の集団と同じものであるなら、その人たちはがっかりしてしまうはずです。この世界には他にも人々を楽しませることのできるコミュニティーは数多く存在しています。楽しむためだけならわざわざ教会に足を向ける必要はありません。しかし、神の福音は教会以外では提供することができません。だからこそ私たちは進んでこの福音を証しすることが大切なのです。そして神はさらに世の終わりを待ち続ける私たちに「まず福音があらゆる民に宣べええられねばならない」(10節)と言われています。世の終わりを待つ私たちは、福音を宣べ伝えることでそのときを待つようにイエスは教えているのです。
「人前に立ってしゃべると言うことを考えるだけでも頭が真っ白になってしまう」。私たちはそう思うかもしれません。しかし、イエスは「取り越し苦労をしてはならない」(11節)とここで言われています。なぜなら神が私たちを通してその福音を証してくださるからです。そのために神は私たちに天から「聖霊」を送ってくださると約束してくださっているのです。
②やもめの姿から学ぶ
イエスの語るメッセージは私たちが予想もしないような出来事がこの世に起こると語る一方で、私たちに対してはむしろ「惑わされないよう気をつけなさい」と注意を促しています。イエスは私たちに何か特別なことをすることを要求してはいないのです。私たちは最後にこのことをもう一度心に刻む必要があります。イエスはヘロデ王が着工して何十年も立てて建設されたエルサレム神殿を見ても、「そんなものはいずれ跡形も無くなくなってしまう」と語り、特別な関心を示すことはありませんでした。それではイエスはどこに一番の関心を示されたのでしょうか。それは神殿の境内で貧しいやもめがレプトン銅貨二枚をささげたその信仰の姿です(12章41〜44節)。このやもめは持っていたものすべてを神にささげることを通して、神を信頼する信仰を私たちに証しています。イエスは世の終わりを待つ私たちに、そして自分の人生の終わりの日を待つ私たちに、神に信頼して生きることだけをここで求めておられるのです。この備えはエルサレム神殿のような莫大な経費を必要とするものではありません。たくさんの歳月を費やす必要もないのです。私たちが今、神に信頼して、その福音に従って生きること、それが私たちに求められる備えであることを、私たちは今日のイエスの言葉から学びたいのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
この世は絶えず、私たちを混乱に陥れ、不安と絶望をいだかせるような情報を私たちに提供しようとします。そしてそれを証明するような出来事が地上のあちらこちらで今も起こっています。しかし、私たちはこの世界と私たちの人生をあなたが導いてくださっていることを信じます。私たちに新しい命を与え、この世界を新しくするために、救い主イエスを遣わしてくださったことを感謝いたします。私たちがいつも惑わされることなく、福音のメッセージを選び取り、自らもその福音を証しして生きることができるようにしてください。どうかそのために私たちに聖霊を遣わして、私たちの信仰生活を導いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.終末の徴について尋ねる弟子たちに、イエスはどのようなことに対して「人に惑わされないように気をつけなさい」と語られましたか(6〜8節)。
2.このとき、どのような人が「わたしがそれだ」(6節)と語って人々を欺くことになるのですか(6節)。
3.この世に起こる戦争や災害にはどのような意味があるとイエスはここで教えていますか(7〜8節)。
4.イエスは神を信じて生きる人々にやがてどのようなことが起こると言っていますか(9節)。そのようなことが起こるとき神を信じる私たちはどうするべきだとイエスは教えていますか(10〜11節)。
5.あなたに人生にとってイエスの語る終末の徴のメッセージはどのような意味があると思いますか。