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2019.4.14「生まれつきの盲人」

ヨハネによる福音書9章1〜11節

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。

5 わたしは、世にいる間、世の光である。」

6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。

9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。

10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、

11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」


1.不幸な出来事の責任者は誰か?

 以前、読んだカウンセリングの本にこんなお話が載っていました。これは案外どこにでも起こりそうな話です。子どもの問題を抱えて苦しむ家族がありました。何とかして、その問題を解決しようとするのですが、それがなかなかうまくいきません。子供は「自分がこんな風におかしくなったのは、自分を育てた親が悪いせいだ」と両親に向かって怒りをぶちまけます。しかし、そんなことを子どもから聞かされても、その親はどうすることもできません。彼らは「子どもによかれて思って、今まで一生懸命に育てて来た」と思っているのです。ところがそんな親の思いは子供には少しも伝わりません。そして子どもはやり場のない怒りを益々、自分の両親に向け続けます。そうするとその両親の方も我慢の限界を超えてしまいす。ついに自分の子どもに向かって「あんたが、お父さんやお母さんの言うことを聞かなから、そうなったのよ…」。「自分の責任を私たちのせいにしないでちょうだ」と反論し始めます。こうなるともうどうしようもありません。親子は互いに責任のなすり合いを続けながら、親子げんかで毎日続けることとなり、解決のつかない泥沼に家族は陥って行きます。

 その一家のもとにある日突然、インチキ霊能者がやって来ました。もちろん彼は「自分は優れた霊能力を持っている」と言って、困っている家族の関心を引こうとします。そしてしばらくしてその霊能者はその家族に自分の見立てを説明しました。

「問題の原因が分かりました。安心してください。この問題はお父さんやお母さんの育て方が悪かったからではありません。ましてやお子さんにも責任はありません。実はあなたがたの亡くなられたおじいさんが、家族のみんなが墓参りにやって来ないで、墓が荒れ放題なっているのを寂しがっているのです。それを知ってほしいと思っておじいさんがこんな仕業を起こしているのです。どうか皆さん、これから家族皆でおじいさんのお墓に行って、丁寧にご供養してください。そうすればこの家族に幸せがやって来ます」。

 これはインチキ霊能者の語るいい加減なアドバイスでしかありませんでした。しかし、不思議なことにこのアドバイスを聞き入れて、その通りにした家族は、それからだんだん良くなって行ったと言うのです。それは問題の原因が自分たちのせいではないと言うことが分かり、お互いの責任を追及することをしなくて済むようになったからです。そればかりではなく、いままでばらばらだった親子がおじいさんのお墓詣りをすると言う目的で一つとなることができたからです。このお話はカウンセリングの本の中で紹介されている話です。つまり、このお話の中には深刻な問題を抱えて争い合う家族を仲直りさせて、一つにするためのカウンセリング技法が隠されていると言うのです。


2.弟子たちとイエスの視点の違い

①過去ではなく、未来を見る

 今日の聖書の物語はイエスと弟子たちの一行が道で生まれつき目の見えない盲人に出会ったことがから始まっています。弟子たちはこの盲人を見て、すぐにイエスにこう尋ねました。

「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(2節)

 弟子たちは、この人の目が見えない原因はどこにあるのか。誰がこの問題の責任を負うべきなのかをイエスに尋ねているのです。普通の病気であれば、本人の不節制の結果だと言うこともできるかもしれません。しかしこの人の場合には事情が少し違ってきます。彼は生まれたときから目が見えないのです。そうなると、本人に責任があるとは考え憎くなります。だから、「この子を産んだ両親の責任ではないか」と言うことになって来るのです。

 私の亡くなった母は、よく身の回りで不都合なことが起こると、「何か悪いことをしたせいだ」と言いだします。「庭の木を切ったせいだ」とか、「庭に穴をほったせいだ」とかとんでもない理由を考え出しては、一人で納得しているのです。おそらく、母は人間が庭の神さまの許しもなく勝手なことをしたので、その神さまの怒りに触れたのだと」と考えていたのでしょう。日本では家や建物を建てるときに、よく地鎮祭をする習慣があります。考えて見ればあれも私の母の考えと同じような理由で行われていると言ってよいでしょう。このように日本人の多くの心に同じような思いが存在していると言えます。

 ユダヤ人の信仰は八百万の神々を拝む日本人とは全く違っています。しかし、不思議なことに自分たちの人生に起こる不都合な出来事の原因を考えるときは、意外と私たちに日本人と同じような傾向を持っていたことがこのお話からも分かるのです。ですから、このときの弟子たちの質問の言葉をもっと丁寧に語るなら…。

 「この人の目が見ないのは、この人が神に対して何か悪いことをしたせいですか。それとも彼の両親が神に対して深刻な罪を犯したせいでしょうか」と尋ねたと言うことになります。ところがこの弟子たちの質問に対するイエスの答えはおそらく弟子たちが期待していたものとは全く違ったものでした。なぜなら、イエスはこの質問に対して他の誰もが考えもつかないような答えを語られたからです。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(3節)。

 生まれつき目の見えない盲人の人生について弟子たちが考えたことと、イエスがここで明らかにされたことは全く違った視点を示されています。なぜなら、まず第一に弟子たちはこの盲人の目が見えない理由、つまりその原因を過去に目を向けて答えを得ようとしたからです。だから、この人自身が何か過去に悪いことをしたのではないか、あるいはその両親が悪いことをして神の怒りを買ったために、この人の目は生まれつき見えなくなったと考えたのです。しかし、この問題に関するイエスの視点は違います。彼の視点は過ぎ去ってしまった昔の出来事に目を向けられてはいません。むしろ、イエスはこの人の人生にこれから何が起こるのかを考えて、そこに問題の答えを捜そうとされたのです。タイムマシン―ができない限り、私たちは過去に起こってしまった出来事を変えることはできません。しかし、未来の出来事は違います。なぜなら私たちの未来は、私たちが今日と言う一日をどのように生きるかでいくらでも変わり得るからです。


②責任を引き受けてくださる神

 さらに弟子たちとイエスの視点が大きく違っている第二の点は、この人の人生を引き受ける責任者は誰であるかと考えたところにあります。弟子たちはその責任はこの人自身かそれともこの人の両親が負うべきだと考えました。しかし、イエスの答えは違っています。「神の業がこの人に現れるためである」。つまり、この人の人生の責任を引き受けてくださる方は神であるとイエスは語られているのです。私たちの神は人間の命を勝手に作って、「あとはどうぞご勝手に」と投げ出しまうような無責任な方ではありません。この世界を創造された神は、今も摂理の御業を持ってこの世界を導かれているのです。これは私たち一人一人の人生でも同じです。私たちの人生の責任者は私たちの命を造ってくださった神にあるのです。だから、神はその責任を全うするために私たちのために救い主イエスを遣わして、私たちを救ってくださったのです。

 道端で物乞いをしていた生まれつき目の見えない人を見て、弟子たちも、そしてそのほかの人も彼の人生がこんなに悲惨なのは、きっと彼が神に見捨てられているからだと考えました。しかし、イエスは「そうではない」とここで語られているのです。神は決して、彼を見捨ててはいないと言われたのです。その証拠に神はイエスを彼の元に遣わしてくださったのです。そして、この物語はこのイエスによってこの盲人の目が開かれるという出来事をこの後、報告しています。イエスによって確かに神の御業がこの人の人生の上に表されたのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。聖書はイエスが救い主として来てくださったことを通して、私たちが決して神から見捨てられていないことが示されたと教えています。そして私たちの人生の責任を神ご自身が負ってくださり、私たちに永遠の命の祝福を与えてくださると約束しているのです。


3.誰が不幸にさせるのか

 さて、弟子たちとイエスの視点が違う第三の点について考えて見ましょう。今も語りましたように、弟子たちは道で物乞いの生活をしている生まれつき目の見えない盲人を見て、「何てかわいそうなのだろう」と思いました。どうしてこの人だけ、「特別に苦しい思いをしなければならないのか」と考えたからです。だから彼らはその理由をイエスに尋ねたのです。

 しかし、イエスは違っています。イエスが語った「神の業がこの人に現れるためである」と言う言葉から分かるように、イエスがこの人を「かわいそうだ」とか「特別に不幸だ」とは決して思っていないのです。むしろ、イエスはこの人の人生には神の祝福が与えられると語ります。そのようにして神が特別な愛を持ってこの人の人生に関わってくださっていることを語ったのです。つまり、この人の人生を「かわいそうだ」とか「不幸だ」と考えたのは弟子たち自身の解釈であって、その解釈はイエスが示された事実とは全く違っているのが分かります。

 その生涯で3000曲以上の讃美歌を作詞したアメリア人の女性作詞家でファニー・クロスビー(1820 –1915)と言う人物がいます。彼女は生まれてすぐに病のために視力を失いました。私は彼女の生涯を描いた映画を昔、見たことがあります。その映画の1シーンで夕方、公園を散歩するクロスビーに男女のカップルが「お可哀そうに。私たちにできることはありませんか…」と語りかける場面があります。するとクロスビーは微笑みながら、「ありがとうございます。それでは、私に夕日の美しい情景を教えていただけませんか」と答えて、その二人を困らせてしまうのです。なぜなら、彼らの目には夕日が見えても、その情景を表現する適切な言葉が見つからなかったからです。このときクロスビーにはそれが分かっていました。彼女は確かに目には見えませんが、そのほかのすべての感覚を使って、夕日の美しさを十分に感じとることができていたのです。

 この場面は映画監督が描いた架空の話かもしれません。しかし、その生涯でたくさんの讃美歌を作り出すことができた彼女の才能は誰にでも与えられているわけではありません。おそらく、盲目の彼女は私たちが目で見ることができない神の恵みを豊かに感じ取り、それを表現することができる賜物が神から与えられていたのでしょう。そのような意味でクロスビーは決して「目の見えない、可哀そうな」人ではなかったのです。

 私たち人間は自分の人生に何かの条件や機能が不足していると、自分は不幸だと考えることがよくあります。しかし、私たちの解釈と神の示される事実は違うのです。なぜなら、たとえ私たちの人生で何か重要なものが欠けていたとしても、神はそれに見合ってあまりある賜物を必ず私たちに与えてくださるからです。聖書はこのことをパウロの言葉を通して私たちに明らかにしています。

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。」(コリント第二12章9節)。


4.イエスに目を開いていただく

 私たちは自分の人生を見て、勝手に「不幸だ」とか「最悪だ」と言っては嘆く傾向があります。神が私たちの人生に豊かな恵みを与えてくださっていても、そこに目を向けることができません。だから不平だけを語って残念な毎日を送る傾向があるのです。

 この物語に登場する生まれつき目の見えない人は、何か特別な人のことを言っているのではありません。実は彼は私たち人間の姿を表す象徴的な存在であるとも言えるのです。なぜなら私たちも生まれつき目がえない盲人の一人だからです。「そんなことはない、私には何でも見えている」と皆さんは考えるかもしれません。しかし、そんな私たちに聖書は「あなたたちには神の恵みが見えていない」と教えるのです。私たちは、私たちの人生を決して見捨てることなく、私たちを愛し続けてくださる神の恵みを見ることができません。私たちの人生の責任を引き受けて、導いてくださる神の恵みの業を見ることができないでいるのです。このように神から素晴らしい恵みを与えられていながら、それが見えずに嘆き続けているのが私たちであると言えるのです。

 この後、この物語はイエスとユダヤ人たちの対立を生み出す原因となって行きます。そしてユダヤ人たちは「自分たちは何でもよく見えている」と思っていますが、実は全く、神の恵みが見えていないことが分かって来るのです。それなのに「自分たちは見えている」と言い張る彼らにイエスは「あなたたちの罪がそこにある」と語られたのです。

 そこでイエスはこの地上に自分が遣わされた使命をこのように告げています。

「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(39節)

 この言葉の通りイエスは私たちの目が見えるようになるためにこの地上に来てくださった救い主です。私たちはこのイエスによって見えるようにされ、私たちが神の恵みの中に生かされていることを知ることができるようにされるのです。そして私たちもこれからの自分の人生に神の御業が現わされることを信じながら希望をもって生きることができるようにされるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 神の恵みの中に生かされながら、その恵みを見ることができず、自分の人生を勝手に解釈しては、自分自身を不幸の主人公にしてしまう私たちです。そのような私たちを決して見捨てることなく、私たちの人生の責任を引き受けてくださるイエスの御業に心から感謝いたします。どうか私たちの霊的な目を開いてくださり、私たちの心をあなたに対する感謝で満たしてください。私たちが過ぎ去ってしまった出来事に目を向けて生きるのではなく、神の御業が人生に表されることに希望を持って、今日と言う日をあなたに信頼して生きることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.道端で物乞いをする生まれつき目の見えない人を見て、弟子たちはイエスに何と尋ねましたか(2節)。この質問の言葉から弟子たちがこの人についてどのように考えていたことが分かりますか。

2.イエスはこの弟子たちの質問に答えて何と言われましたか(3節)。

3.このイエスの言葉から、救い主として私たちに人生に何をするためにやって来てくださったことが分かりますか。

4.イエスはこの人に何をされ、何を命じられましたか(6〜7節)。この人がイエスの言葉に従って行動するとどんなことが起こりましたか。

5.この物語の主人公である生まれつき目の見えない人は、私たちのどのような姿を象徴していると言えますか。

6.このお話を通してイエスが私たちの人生にしてくださることが何であるかがどのようにして分かりますか。

2019.4.14「生まれつきの盲人」