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2019.4.21「イエスは復活された」

マルコによる福音書16章1〜8節

1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。

2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。

3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。

5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。

6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。


1.教会と礼拝の根拠であるイエスの復活

①イースターは空虚なお祭りの一つか

 イースターおめでとうございます。今日はイエス・キリストが死から甦られた出来事をお祝いする復活祭、イースター記念礼拝を皆さんと一緒に献げます。今日のこの日を祝って全世界のキリスト教会が私たちと同じようにイースターの礼拝を献げています。日本ではディズニーランドのイースター・パレードなどで今はこのイースターが有名になっているかも知れません。しかし、このイースターが本当は何の日であり、どうしてお祝いするのかについて詳しく知る日本人はまだ数少ないと思います。だから世間で祝われているイースターの主役はかわいいイースター・ラビットであったり、イースターのために飾り付けられた卵になっているのです。しかし、イースターの本当の主役はこの日、死から甦られたイエス・キリストです。ただ、このようなことを言えば「キリスト教会はまだそんな迷信じみたことを信じているのか」と多くの人はまともに取り扱おうとしないかも知れません。そうなるとせっかく、このイースターにバーゲンセールをしていろいろな商品を売ろうとしている商売人や企業には都合が悪くなってしまいます。だから、いつの間にかイースターの主役であるはずのイエス・キリストが消えてしまって、うさぎや卵がこのお祭りの主役になってしまっているのです。しかし、イースターからイエス・キリストがいなくなってしまえば、このお祭りも人が騒ぐだけの単なる空虚な祭りの一つになってしまいます。それでは私たちが今、祝っているイースターの出来事と私たちとはどのような関係にあるのでしょうか。どうして、このイースターをお祝いすることが私たちにとって大切なのでしょうか。そのことを今日は少し皆さんと共に考えてみたいのです。


②安息日ではなく主の日に礼拝を献げる

 まず、一番に大切なことはこのイースターが無ければ、キリスト教会の礼拝は生まれることがなかったと言うことです。つまり、私たちがこのようにして毎週日曜日に教会に集まり、神に礼拝を献げることができるのは、このイースターの日にイエス・キリストが甦ってくださったからなのです。

 旧約聖書の教える掟の一つに「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(第4戒)と言う言葉があります。この安息日の根拠は同じように旧約聖書に記されている神の創造物語にあります。旧約聖書によれば神は六日の間で天と地にあるすべてのものをお造りになられたと教えられています。そしてその後、七日目に神は御業を休まれたと記されているのです(創世記2章1〜2節)。ですから安息日は私たち人間が神の御業を思い起こし、神を礼拝するために定められた特別な日なのです。旧約聖書を信じて生きたユダヤの民は毎週この安息日にはすべての労働を休んで、集会場に集まり神を礼拝しました。私たちキリスト教会の礼拝はこの安息日に献げられて来た礼拝とよく似ています。最も、このユダヤ人の礼拝は一週間の最後の日である土曜日にささげられて来ました。ですから、現代でもユダヤ教徒は毎週土曜日に礼拝を献げ続けています。

 それではどうして私たちキリスト教会は土曜日ではなく日曜日に礼拝を献げているのでしょうか。それはこの日曜日の朝にイエス・キリストが死から甦られたからです。今日の聖書の箇所を読んでもそれが分かります。

「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」(マルコ16章1〜2節)。

 イエスを慕う何人かの婦人たちは安息日が明けるのを待っていました。そして日曜日の朝、イエスの遺体が葬られたはずの墓に行った彼女たちは、そこにイエスの遺体がないことを確認します。さらにその上で彼女たちはイエスが甦られたという事実を知らされるのです。以来、キリスト教会はこのイエスの復活を記念して、毎日曜日に礼拝を献げて来ました。ですから、私たちはこの日曜日を「安息日」と言う呼び名でなく、「主の日」と呼ぶ習慣を持っています。この主の日は、キリストの甦りを記念してそれを喜ぶ信仰者が共に集まって神に礼拝を献げる日であると言う意味を持っています。ですから、私たちキリスト教会の献げる礼拝は、このキリストが復活されたという事実から始められたと言ってよいのです。キリストの復活がなかったとしたら、キリスト教会は生まれておらず、私たちもこのように神に礼拝を献げるとはできなかったと言えるのです。


2.信仰の根拠であるイエスの復活

 昔からキリストの復活を否定しようとする人々は、「イエスの復活を主張する人々はイエスの死を受け入れることができなかったので、心理的な錯覚状態に陥り、あたかもイエスが甦ったと言うような思いになってしまっただけである」と説明しています。彼らは復活されたイエスの姿を見た人々は集団催眠状態に陥ってしまったのだと語るのです。

 しかし、聖書を読んでみると分かりますが、イエスの弟子たちは確かにイエスが死なれたことを自分の目を持って確認しています。そしてむしろ彼らはイエスの死を目撃して、誰も動かすことのできない現実であることを受け入れているのです。だから、彼らはイエスの復活を知らされたときに、その事実を受け入れることができなかったのです。

 それは日曜日の朝、イエスの遺体が葬られた墓に向かった女性たちも同じでした。もし彼女たちがイエスの死を受け入れていなかったら、墓に行こうとすることさえしなかたでしょう。しかも、彼女たちはこのとき「イエスに油を塗りに行くために香料を買った」と言うのです。彼女たちが買い求めたものは遺体から出る腐敗臭を防ぐための香料です。これは日本の葬儀で使われるお線香などと同じ役目を持っているものです。つまり、ここから分かるように、彼女たちはすでにイエスが死んでいるという事実を受け入れた上で行動していることが分かるのです。

 彼女たちの誰もが、イエスが甦ると言うことを最初から期待していなかったことは、墓にいた若者からイエスの復活を知らされた後の彼女たちの反応からもよく分かります。

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)。

 イエスの復活が彼女たちの期待通りの出来事ならば、彼女たちがこの出来事を若者から知らされたとき、躍り上がって喜ぶはずでした。しかし、彼女たちはそれができませんでした。なぜなら、死んだ人が甦るなどという出来事を彼女たちは簡単に受け入れることができなかったからです。彼女ばかりではありません。イエスの弟子たちも同じように、このイエスの復活と言う出来事を簡単に信じることができませんでした。それは誰も、イエスが甦るなどと言うことを期待していなかったからです。それほどまでに人間の死が誰にも動かすことも、変えることもできない現実であることを彼らはよく知っていたからです。

 それではそのような人々がどうして、イエスの復活と言う出来事を信じることができるようになったのでしょうか。それは復活されたイエスが彼らに復活を信じることができる信仰を与えてくださったからです。信じることができない者が信じる者と変わる、それは人間の努力や業によっては全く不可能なことです。しかし、神の御子であるイエスにはそれが可能です。イエスはこのときも、そして今も、信じることのできない者に聖霊を遣わして、その心に働きかけて信じることができる者としてくださるのです。

 このとき、イエスの復活を信じることができた人々は特別な人々では決してありません。私たちと同じ、弱さを持ち、欠点をもつ人間でしかありませんでした。彼らは本来、この世の常識や自分の経験に支配されて、イエスの復活を信じることができない人々だったのです。その人々が信仰者と変えられたのはなぜでしょうか。彼らが日曜日を「主の日」と呼んで、喜びを持って教会に集まることができるようになったのはどうしてなのでしょうか。それは復活されたイエスご自身が彼らに信仰を与えてくださったからなのです。私たちはイエスが確かに復活されたからこそ、そのイエスから信仰を与えられ、神を信じ、イエスの復活を信じるものに変えられているのです。つまり、イエスの復活がなかったら、私たちの教会はもちろんのこと、私たちの信仰もなかったと言えるのです。


3.キリストの復活を体験する信仰生活

①復活されたイエスの姿が記録されていない福音書

 このように私たちの信仰にとって、また私たちの教会にとってイエス・キリストの復活をお祝いするイースターは最も大切なお祭りであると言えるのです。そしてそこに私たちがイースターをお祝いする理由があると言えるのです。ところでここでもう一度、今日の聖書の言葉に戻って、この最初のイースターの出来事を調べて見ましょう。実は今日、皆さんと読んだ箇所にはイエスの遺体がなくなった空の墓の姿と、そこにいた若者の証言、さらにはこれらの出来事に遭遇した婦人たちの混乱した姿が描かれています。しかし、不思議なことにここにはまだ、復活したイエス・キリスト自身の姿が現れてはいません。そして復活されたイエスの姿はこの後、9節以下に記されています。ところが皆さんのご覧になっている聖書には9節以下が皆、括弧で囲まれているのです。この括弧の意味はここに書かれている内容が本来のマルコによる福音書には記されていなかったもので、後代になってこの福音書に付け加えられたものであると言うことを表しています。その証拠に、古いマルコによる福音書の写本には9節以下の物語は記されていないのです。おそらく、この箇所は復活されたイエスの姿が登場しないこの福音書に物足りなさを感じた誰かが付け加えたものなのでしょう。もちろん、9節以下の物語もいい加減な架空の物語が載せられているわけではありません。そうではなく、9節以下は他の福音書の記している物語を借りてきて、ここに誰かが加えてと考えられているのです。

 いずれにしても、この福音書を記したマルコは復活されたイエスの姿を記すことなく、この福音書を完結させたと考えられているのです。そしてマルコはどうしてこんな形で、自分の書いた福音書を終わらしたのか、それが一つのミステリーと考えられて来たのです。


②私たち自身が復活されたイエスと出会う

 マルコが復活されたイエスの姿をこの福音書に記さなかった理由はどこにあるのでしょうか。その一番の理由は、そのことをあえてこの福音書に記す必要がなかったからと考えることができます。つまりこの福音書の読者たちは復活されたイエスをすでによく知っていたからだと言うことになります。しかし、この福音書が書かれた時代はおそらく、最も早く考えても紀元70年ごろ、ちょうどエルサレムにあった神殿がローマ軍によって破壊され頃だと考えられています。マルコによる福音書はその当時、迫害を受けて苦しんでいたローマのキリスト者に向けて書かれたと言われているのです。その頃、すでにイエスの弟子であったペトロも、ローマに囚人として連れて来られたパウロも世を去っていたと考えられています。そしてだからこそ、マルコはイエスのことをよく知らない新しい教会のメンバーにこの福音書を記す必要があったと考えられているのです。つまり、ローマの教会員たちの大半は復活されたイエスの姿を実際には知らない人たちだったと言えるのです。

 しかし、ここで私たちが考えたいのは、どうしたら私たちが復活されたイエスを知り、そのイエスに出会うことができるのかと言うことです。私たちにとって復活されたイエスを知ると言うことは私たちの信仰生活と深く結びついているものです。なぜなら、私たちの信仰生活は実際に復活されたイエスと出会い、そのイエスを知るための生活であると言ってもよいからです。先ほども語りましたように、私たちの教会も、私たちの信仰生活も復活されたイエスが今も生きておられるからこそ成り立つものなのです。私たちがこのように神を礼拝するために教会に集まること、イエスを信じて信仰生活を送ることができること、このすべては復活されたイエスの御業によるものなのです。だから、マルコは復活されたイエスによってすでに信仰を与えられている人々に、あえて復活されたイエスの姿を福音書に記す必要はないと思ったのかも知れません。彼らはもう十分に復活されたイエスを知っていると言えるからです。

 この福音書の大きな特徴は空になったイエスの墓に現れた天使の語るメッセージにあると言えます。天使はイエスの墓にやって来た婦人たちに次のように語ります。

『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』(7節)。

 他の福音書では復活されたイエスがエルサレムにとどまっていた弟子たちに現れたことを記しています。しかしマルコはそのイエスの姿を記さないだけではなく、「ガリラヤに行け」と言うメッセージを伝えることで復活物語を完結させます。ガリラヤはイエスと弟子たちが出会った最初の場所です。このマルコによる福音書はこのガリラヤでの出来事を最初に記しています。ですから「ガリラヤに行け」と言う言葉は「もう一度、福音書の最初に戻りなさい」と言うことを意味していると考えられるのです。ここまで、マルコによる福音書を読んで来た読者たちに、もう一度最初からこの福音書を読み返してほしいと勧めているのです。

 マルコはこの福音書を読む読者たちに空になったイエスの墓を示して終わります。「ガリラヤに行きなさい」。私たちがこの天使の言葉に従って、福音書をもう一度読み始めるとき、今まで、過去の出来事のように思えた福音書の内容を自分で体験することができるようになります。誰か他人の人生の上に起こった出来事だと思えたことを自分の人生に起こる出来事として受け入れることができるのです。このようにマルコによる福音書の示すミステリーを解くカギは、私たち自身のこれからの信仰生活にあると言えるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 主イエス・キリストの甦りを記念するイースターの礼拝に私たちをお招きくださった幸いを心から感謝します。この復活の出来事はこの世の科学がどのように発達しても、それを証明することも再現することもできない神の御業です。その出来事を信じることができるように私たちに信仰を与えてくださる、聖霊の御業に心から感謝します。どうか私たちの信仰生活を導て下さり、復活されたイエスの姿を私たちが信仰の目を持って悟り、確信と感謝をもって生きることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.安息日が終わってイエスの遺体が葬られた墓に向かった婦人たちは誰でしたか。彼女たちは何をしに墓に行ったのですか(1節)。

2.彼女たちはイエスの墓に行って何を見ましたか。何を見ることができませんでしたか(3〜5節)。

3.このとき墓の中にいた若者はどのような様子をしていましたか。彼は婦人たちにどのような言葉を伝えましたか(5〜7節)。

4.この出来事を体験した婦人たちの様子はどのようなものでしたか(8節)。どうして彼女たちはこのような反応を示したのでしょうか。

2019.4.21「イエスは復活された」