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2019.4.28「目を覚ましていなさい」

マルコによる福音書13章32〜37節

32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。

33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。

34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。

35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。

36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。

37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」


1.知らなくてもよいこと

①今を生きるための知識

 今日もマルコによる福音書の記録から皆さんと一緒に学びます。今日の箇所は「小黙示録」と呼ばれる、イエスが語られた世の終わりについての教えを収録した箇所の最後、結論部分となっています。世の終わりがいつ、どのようにして起こるのかと言うことについて関心を持つ人はいつの時代にも存在します。しかし、聖書はそのような人々の好奇心を満足させるために書かれた書物ではありません。ですから、この世の終わりについて語る聖書の教えも意外と簡単に書かれていると言えるかもしれません。聖書学者たちの見解によれば、イエスが語られている様々な現象の多くは、紀元70年に起こったローマ軍によるエルサレム神殿の破壊の出来事を実際には描写していると主張する人もいます。確かにここで語られているイエスの教えは、神殿の崩壊を予言するイエスの言葉から始まっています(13章1〜2節)。ですから、ここでのイエスのお話はエルサレム神殿の崩壊と同時に世の終わりを語る、二重構造になってお話が展開されていると考えることもできます。それではなぜ、イエスは世の終わりの出来事について人間の持つ好奇心を満足させるような言葉を語ることがなかったのでしょうか。

 一番大切なことは、聖書はいつも私たち読者に今をどのように生きるべきかを教えようとしていると言う点にあります。イエスは私たちに「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6章34節)と教えられていることは皆さんもご存知だと思います。ですから、終わりの日について私たちが正しく知って、備えると言うことは、私たちが今日と言う日を大切に生きるために必要な知識であると言えるのです。

 それでは私たちが今日と言う日を大切に生きると言うことは、いったいどのようなことを意味するのでしょうか。そのことを考えるためにも、イエスがここで語られている言葉に耳を傾けることは大切になってくると言えるのです。


②急ごしらえの準備はできない

 まず、今日の部分でイエスが語っている言葉は、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(32節)と言うものです。終わりの日がいつやって来るかは父なる神以外には誰も知らないと言うことです。その父なる神の御心が実現するために働く天使たちも、また父なる神の御心によってこの地上に救い主としてやって来てくださった「神の独り子」であるイエスもこのことは知らされていないと言うのです。

 私は高校生のときに、担任の先生から「櫻井は人が知らないことをよく知っているな…。でも人が知らなければならないことを知らない」と言われてことがあります。大切なことは私たちが今日を生きるために必要な知識です。たとえどんなにたくさん知識を頭に詰め込んでいても、その知識のほとんどが実際の生活に役に立たないものなら意味がありません。終わりのときがいつやって来るかと言うことについて知ることは、私たちの生活に直接には何の役に立たない、「だからあなたたちはそれを知らなくてもよい」とイエスはここで教えてくださっているのです。

 終わりの日がいつ来るかを知ることは、私たちの生活に意味がないばかりか、かえって悪い結果をもたらすことも予想できます。私は掃除が苦手です。だから掃除をするのはいつも先送りになってしまい、結局はいつまでも掃除をすることができません。そんな私でもお客がやって来ると言うことを知ると、あわてて掃除をすることがあります。とりあえず人の目に入るところだけを片付けて、散らかっているものをすべて押し入れや、タンスに押し込んで掃除は終わります。しかし、これでは本当に部屋をきれいにしたとは言えません。

 もし、私たちに終わりの日が何年何月何時何分に来ると予告されていたら、私たちの大半は直前になるまで、「まだ大丈夫」と考えて、今日やらなければならないことまで先送りをする可能性が生まれます。そもそも、これでは私たちの生き方は外面だけ変わるだけで、ほとんど変わらないと言ってよいのだと思います。しかし、イエスは自分の生き方を変えることなく、急ごしらえの備えをすることでは、終わりの日のために備えたことにならないと教えているのです。

 ですから終わりの日がいつくるのかと言うことについてイエスは、それを知らないほうが、私たちにとってはむしろよいことであると教えるのです。


2.知っているほうがよいこと

①自分を見失って生きている私たち

 終わりの日がいつやって来るのか、そのことについては私たちが知る必要がないと教えるイエスは、その一方で私たちがどうしても知っておかなければならないことがあることをも教えています。

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(33節)。

 イエスは終わりの日を待つ私たちに「気をつけて、目を覚ましていなさい」と勧めています。なぜなら、終わりの時がいつであるか分からないのですから、その日がいつ来ても大丈夫のように毎日を生きる必要があるからです。確かに私たちには終わりの日がいつになるか分かりませんが、しかしその終わりが必ずやってくることは疑うことができない事実であることを私たちには聖書を通して教えられるのです。

 毎日の生活の中で「終わりの日」を覚えながら生きること、そのために準備して生きることがイエスの語られた「気をつけて、目を覚ましていなさい」と言う言葉の意味だと言ってよいでしょう。終わりが必ずやってくることを覚えて今日を生きることは、私たちの人生にとってとても大切なことなのです。それはどうしてでしょうか。私たちは毎日の生活の中で、様々な物事に影響されて、考え、そして行動しています。その中で私たちはうっかりすると、自分では何も考えることなく、人々に言われるままに生きていると言うことはないでしょうか。よく、自分を見失うと言う言葉がありますが、まさにそのような生き方を私たちは毎日の生活の中で体験しているのです。

 それでは私たちが自分を見失ってしまう原因はどこにあるのでしょうか。それは自分が今、何をすべきかが分かっていないからです。だから、他人の言うことをとりあえず聞いておこうと言うことになってしまうのです。終わりの日が必ずやってくると言うことを考えながら生きるということは、この混乱する私たちに対して神が与えてくださる最もよい処方箋であるとも言えます。


②大切なことは何かを知る

 カウンセリングを学ぶ集まりでは「あなたの命があと一か月しかないとしたら。あなたはその残された時間を使って何をしますか」と言う課題が与えられ、参加者は自分の考えたことを発表すると言う実習をすることがあります。「自分に残された貴重な時間を何のために使うのか」と言うことを考えるとき多くの人は、家族や親しい友人たちと会って、今までの感謝を述べたいと考えるそうです。不幸にも仲たがいしている家族や友人には直接会って、誤解を解き、許しを請いたいとも考えるそうです。誰も、残された時間で金儲けもうけをしたいとか、いやな奴に恨み言を言ってすっきりしたいなどと言う人はいないと言うのです。そしてこのワークショップのリーダーは参加者がおのおの自分のしたいことを発表し終わると、「今、考えたことを、実際に今、やってみたらどうでしょうか」と勧めると言います。

 終わりことを考えるとき、残された自分の人生の時間を使って自分が一番しなければならないことが分かってくるのです。だからイエスも「その大切なことを今日あなたもしなさい」と私たちに教えているのです。

 今日の午後に千葉県にある教会の墓地に行って墓前礼拝を皆さんとささげます。墓前礼拝は亡くなった方々の霊を供養するために行われるものではありません。墓前でも私たちはこの礼拝と同じように、神を礼拝します。私たちに命を与え、私たちの人生を導き、私たちに復活の希望まで与えてくださった神に感謝を献げるのがこの礼拝の目的です。そして私たちに与えられている復活の希望を心に新たにすることで、私たちは今日を生きる力を受けることができるのです。

 愛する夫に先立たれた一人の夫人がいました。その夫人は夫の遺体を葬るために墓地を購入する必要がありました。そのために彼女は郊外に開発された大きな霊園に出かけました。霊園業者はその夫人の身なりを見ながら「私どもの霊園は、素晴らしい環境の中にあります。亡くなられたあなたのご主人が葬られるために最もよい場所だと思います」とセールストークを語りました。ところが霊園業者が提示した墓地の値段はかなり高額なものでした。その金額を見て躊躇する婦人を見て、霊園業者はせっかくの客を逃してはならないと畳み込むようにこう語ります。「あなたのご主人のようなすばらしい方には、このくらいクラスの墓地が絶対に必要ですよ…」。夫人はその言葉を聞いてすぐに答えました。「でも、イエス様がやって来て私の主人を甦らせてくださったら、この墓地もいらなくなります。すぐに必要がなくなるような場所のために高額のお金を使う必要があるとは思えません」。

 終わりの日、私たちは再びやって来てくださったイエスと共に墓から甦ることができます。その日のために、今日という一日をどのように送るべきなのか。その日をはっきりと覚えながら生きる人と、それを考えない人の生き方は全く違って来ると言えるのです。

 「気をつけて、目を覚ましていなさい」と言うイエスの勧めの言葉は、私たちの人生のために最も大切なことが何であるかを見極めるよい方法を私たちに提供します。私たちが自分で今日と言う日を何のために生きるのかを知ることができれば、私たちは決して自分を見失うことはないと言えるのです。


3.主人の帰りを待つ

 イエスは最後に「気をつけて、目を覚ましていなさい」と言う生き方を、旅に出た主人が帰って来ることを待つ僕と同じだとたとえで語っています。その主人はいつ帰って来るのかわかりません。しかし、旅に出た主人が必ず帰って来ることは確かなことなのです。だから、急に主人が帰ってきたときに眠り込んでいる姿を目撃されたら大変だと教えているのです。このたとえに登場する主人とは父なる神のことを表していると言うことができます。また、この主人は私たちのためにこの地上にもう一度来てくださるイエス・キリストを指し示しているとも考えることができます。

 このことも「気をつけて、目を覚ましていなさい」と言う勧めに従って生きようとする私たちに大切なことを教えていると言えます。私たちは、やがて私たちに命を与え、私たちの人生を守り導き、私たちを復活させてくださる方と会うことになります。そのために私たちは今日と言う日を生きているのです。

 もし、私たちがこれから会う人が私たちのことをよく知らない他人ならどうでしょうか。その場合には私たちは多少なりとその人に評価されるような演技をすることが可能です。何しろこちらのことを相手はよく知らないのですから、演技をしていかにも優れた人間のふりをするは可能なのです。しかし、私たちがこれから会おうとする方はそのような人ではありません。その方はわたしたちのことをよく知っておられる方なのです。いえ、私たち以上に私たちのことをよく知っていてくださる方こそ私たちの救い主イエスです。私たちはその方に会う日のために今日を生きているのです。ですからこの人にはどのような演技も役に立ちません。うわべだけを整える演技は通用しないのです。

 だからこそ、私たちはありのままの自分をそのまま生きる必要があるのです。信仰者だからと言って、「私には問題がありません」などと振る舞う演技をする必要はありません。困っているならば、弱さを感じているならば素直にイエスに助けを求めながら生きること、それが大切だと言えるのです。

 あるとき、年老いた一人の信仰者に対して、若者がこのような賛辞を送りました。彼はその老人の信仰者としての人生を褒め称えて語ります。「先生、あなたは本当に素晴らしい信仰者です。私は今まで、あなたのような人に出会ったことがありません。あなたは旧約聖書に登場するあのモーセのような偉大な信仰者です。」するとこの言葉を聞いた老人はすぐに首を横に振って、こう答えました。「若者よ、私が神の前に立つ日がやって来た時。神は私に対して「お前はモーセのように生きたか」とは決して尋ねられない。神はきっと「お前は、お前として生きることができたか」と尋ねられるはずだ」。

 終わりの日を待つ私たち、主イエスにお会いすることを待つ私たちは決して、誰か他人のマネをして今を生きる必要はありません。そしてそんな他人と自分を比べる必要もないのです。ただ、私たちは自分に与えられた人生を自分らしく生きることが大切なのです。だから今日と言う日をどう生きるのかは私自身が決める必要があります。私にとって最も大切なことのために貴重な命の時間を使って生きるこが大切なのです。それがイエスの語る「気をつけて、目を覚ましていなさい」と言う勧めの意味であると言えるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 私たちが今日を確かに生きるために、終わりの時が必ず来ることを覚えて生きるようにしてください。イエスに出会う日を覚えながら、今日を生きることができるようにしてください。私たちにそのような自由を与えてくださるためにイエスは十字架にかかり、三日目に復活してくださいました。そのイエスに救っていただいた私たちの人生を大切に生きることで、あなたの恵みに答えることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスがここで語る「その日、その時」とはどんなときのことを言っているのでしょうか(32節)。

2.イエスは父なる神以外の誰もその日やいつやって来るかを知ることができないと教えた上で、私たちはどうしなければならないと言っていますか(33節)。

3.旅に出た主人を待つ僕や門番は何をして主人の帰りを待つ必要がありますか(34節)

4.それでは主人が突然、かえって来たとき眠ってしまっている生き方とはどのようなことを言っているのだと思いますか(36節)。

5.世の終わりについて、好奇心を満たすような読み方で聖書を読むのではなく、イエスの語る言葉の意味を考えながら生きるなら、私たちの人生はどのように変わるとあなたは思いますか。

2019.4.28「目を覚ましていなさい」