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2020.1.12「いなくなった羊」

ルカによる福音書15章1〜7節(新P.138)

1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」


1.イエスの語るたとえ話

①たとえ話を語られたイエス

 今年の伝道礼拝ではイエスが語ってくださった「たとえ話」から共に学びたいと思っています。皆さんも聖書を読んでいてイエスが語れた数々のたとえ話を知っておらえると思います。イエスのお話にはよくこのたとえ話が登場します。私が神学生の時に学生寮で一緒に過ごし、親しくなった韓国人の一人の牧師は「たとえ話から学ぶ組織神学」という本を書いて出版していました。「神学というと名前を聞いただけでも難しそうでいやだ!」と思われる方もおられるかも知れません。この本はその難しい神学の主題を読者に分かりやすくたとえ話を使って説明しています。当時、韓国ではたくさんの人に読まれたと聞いています。正確にはこの本の題名は『民衆のための組織神学』と言う名前がついていて、一般の信徒が気楽に読めるようにと書かれたものです。ところが意外にもその読者の多くは神学校で学んでいる学生たちであったとも聞いています。

 難しい話も、たとえ話を使えば人々に分かりやすく伝えることができます。イエスの語られた話は新約聖書のパウロの書簡のように難しい論理が頻繁に使われている訳ではありません。それでもイエスがたとえ話をよく使ったのは、イエスが伝えるメッセージの中心が真の神を伝えるためのものだったからです。ギリシャ神話に登場するギリシャの神々は人間と同じような性格を持って描かれます。その点で、人間でも分かりやすい神々なのですが、聖書の神はそうではありません。真の神と人間の間には超えることのできない違いがあります。だからこそ、この神を正しく理解することには困難が伴うのです。神の独り子であるイエスはこの真の神をただ一人よく知っておられる方です。そしてイエスはこの神について多くの人に正しく理解してもらうために、たとえ話を用いて語られたのです。


②弟子たちだけに分かるたとえ話

 ところが聖書を読むとこのイエスが語られたたとえ話には全く違った目的があったと言うことが説明されています。それはある時、イエスが大勢の群衆にいつものようにたとえ話を語れたときに、弟子たちが「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しなさるのですか」と尋ねたところで説明されています。ここでイエスは自分がたとえで話す理由についてこう語られたのです。

「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」(マタイ13章11節)

 イエスはここで自分がたとえで話をする理由について、お話を分かりやすくするためではなく、むしろ分かりにくくするためだと言っているのです。たとえ話で語るとその話を一部の人にだけは理解することができます。ところがそれ以外の人々にはそれが何を言っているのか分からないと言うのです。つまり、イエスの語るたとえ話はここでは一種の『暗号』のような使われ方をしているのです。聞く能力を持っている人が聞けばその話の意味がよく分かります。しかしそうでない人にはイエスが何を言っているのかさっぱり分からないのです。

 真の神についてどんなに分かりやすくたとえ話を使って説明しても、それは普通の人間には理解できないと言えます。なぜなら、私たち人間は生まれながらにして持つ罪の性質によって、真の神を理解する能力を失っているからです。この場合には、イエスの語るお話には、そして聖書の言葉には何の問題もないと言えます。むしろ問題があるのは、それを理解できない私たちの側にあると言えるのです。私たちにはその話を理解できる能力がないからです。だから神はそのような人間に内側から働きかけて、私たちの壊れてしまった能力を回復させてくださいます。イエスはそのために私たちに天から聖霊を遣わしてくださるのです。そしてイエスのたとえ話を正しく理解するために聖霊が私たちの内側で働いてくださるのです。ですから、今皆さんが、このイエスのたとえ話を読んで、真の神を知り、その神の愛を知ることができるとしたら、それはすでにこの聖霊の働きを皆さんが受けていると言う証拠になります。ここでイエスは「あなたがたにはわかる」とご自身の弟子たちに向かって言われています。同じようにこのイエスのたとえ話が私たちの心を捉え、真の神の愛を知ることができるとしたら、それはすでに私たちがイエスの弟子とされているということを表していると言ってよいのです。


2.罪人たちと食事をするイエス(15章1〜2節)

 今回から予定では三回の伝道礼拝を使って、イエスがルカによる福音書15章で語られている三つのたとえ話、「見失った羊」(3〜7節)、「無くした銀貨」(8〜10節)、「放蕩息子」(11〜32節)を順番に取り上げて行きます。この三つのたとえ話はイエスによって同じときに、同じ目的で、同じ相手に向けて語られたたとえ話で、まるで「三つ子」のような性格を持っています。ルカはそのことについて15章の冒頭でこう説明しています。

「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。」(1〜2節)。

 ここではイエス以外に三種類の人物が登場しています。「徴税人」、「罪人」、そして「ファリサイ派の人々」です。まず「徴税人」とは今でいえば税務署の職員と言うことができます。しかしこのたとえ話が語られた当時のイスラエルでは徴税の権限はローマ帝国に握られていました。イスラエルはローマ帝国に侵略され、その植民地となっていたからです。ローマ政府は税金を現地の人々を使って徴収させました。ですから、徴税人はそのローマ政府のために働く下級役人と考えることができます。彼らはローマの権力を後ろ盾にして、民衆から容赦なく税金を取りたてました。その上で徴税人の中にはその職権を乱用して私腹を肥やす人々も多く存在していました。ですから、彼らはユダヤ人からは「民族の裏切り者」と呼ばれ、非常に嫌われていたのです。

 次に聖書には「罪人」という言葉がよく記されています。聖書を読み馴れない人は「ざいにん」と読み間違えることが多いようです。だから聖書には「つみびと」とふりがなをつけて読むように指示されています。その理由はこの「罪人」は私たちが普段考える「犯罪者」という意味とは違うからです。聖書の語る「罪人」は、神に従うことをしない人、神に背き続ける人間のことを意味しています。ここではこの後に登場する、「ファリサイ派の人々」が「罪人」と言う言葉を使って、いったいどんな人のことを考えていたのかが重要になってきます。ファリサイ派の人々は神の戒めである律法に従ない人々、あるいはその律法に従うことのできない人々を「罪人」と呼んだのです。

 ついでに最後に登場する「ファリサイ派の人々」とは、今語った律法に熱心に従う人々が集まったグループを指しています。確かに神に喜ばれるために律法に熱心に従う姿には彼らにも尊敬できる面があるかもしれません。しかし、彼らの弱点は自分たちと同じように生活できない人を激しく責め立て、さらには蔑む傾向があったところです。そしてその傾向が、ここではイエスに向けられているのです。

 「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」とファリサイ派の人々はイエスを責め立てました。ここで語られている「食事をする」という行為はユダヤ人たちには特別な意味がありました。それは「同じ仲間になった」という意味を強く表す言葉だからです。ですから、ファリサイ派の人々はイエスが「聖書もよく知らない、くだらない人々の仲間になった」と考え、非難したと言えるのです。そしてこの非難に対して、イエスが語られたのがここから記録されている三つのたとえ話です。イエスはどうしてファリサイ派の人々が「罪人たち」と考える人々の仲間となったのでしょうか。その意味を知らせるためにイエスはたとえ話を語られたのです。


3.羊と羊飼い

①羊を見つけた羊飼いの喜び

 イエスはここで「百匹の羊を持っている人」が登場するお話を語りだします。つまり百匹の羊を飼う羊飼いがこのお話の主人公です。現代社会に住む私たちにとって羊と言う存在は動物園に行かなければお目にかかれない動物です。もしかしたらジンギスカンで羊の肉をよく食べると言う人も中にはいるかもしれません。しかし、ユダヤ人たちにとってはこの羊は私たちと違って、とても身近な存在の動物であったようです。この間、私たちが祝ったクリスマスの物語の中にもこの羊飼いたちは登場しています(ルカ2章8〜20節)。旧約聖書の詩篇23篇には神と神を信じて生きる人々の関係が羊飼いと羊の関係を通して語られています。

 この詩篇を書いたダビデは若かったころ実際に羊飼いとして働いていたと言われています。ダビデがペリシテの巨人ゴリアテを倒すために使った武器は羊たちを守るためにいつも彼が使っていた石投げ紐であったことは有名です(サムエル記上17章40節)。またイエス自身もヨハネによる福音書の中で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10章11節)と語られています。私たちの救い主として来てくださったイエスは、私たちを羊飼いがその羊を守るように大切に扱ってくださるのです。そしてイエスは私たちのために命まですてる覚悟を持っておられることが語られています。

 このたとえ話では百匹の中の一匹がある日、行方不明になってしまったと語られています。すると羊飼いは九十九匹の羊を野原に残して、いなくなった羊を捜しに出かけます。羊飼いは羊が見つかるまで帰ることがなく捜しまわり、やっとその羊を見つけるとその羊を担いで喜んで家に帰ります。その上で羊飼いは自分だけではなく、友達や近所の人々を呼び集めて「見失った羊をみつけたので、一緒に喜んでください」と言うであろうと語るのです。

 そしてイエスはこのたとえ話の次のような言葉で結んでいます。

「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(7節)

 イエスの元にやって来た徴税人や罪人たちは食事をするためだけやって来たのではありません。イエスの口から語られる神の言葉を聞きたくて、イエスを通して明らかにされた神の福音にひきつけられてここに集まったのです。彼らは今までの生き方ではない、本当の生き方を求めてイエスの元に集まった人々だったのです。イエスはこのたとえ話を語ることで、彼らは神にとって失われた羊のような存在だと語るのです。そしてその羊たちが、神の独り子であられるイエスのところに戻って来たのです。このことを神は何よりも喜んでくださっているとイエスは教えます。そして「あなたがたも天の神と同じように喜ぶべきではないか」とイエスはファリサイ派の人々に語ったのです。


②捜し続ける神

 この話を聞いてファリサイ派の人々はイエスの語られたたとえ話の意味を本当に理解することができたのでしょうか。その結果についてはここには記されていません。しかし、もしかしたら彼らには最後までこのたとえ話の意味を理解することができなかったのかもしれません。なぜなら、この話は彼らが持っている考え方では理解できない内容が記されているからです。

 彼らには九十九匹を野原に残して一匹を捜しに行く羊飼いの行為がまず納得できないはずです。彼らはいつも誰が神の役にたつのか。誰が神に大切にされているのかを人と比べて考える傾向があったからです。一匹の価値と九十九匹の価値を比べたらどちらが大切なのでしょうか。当然、誰もが「九十九匹の方です」と答えるはずです。しかし、ここで登場する羊飼いの関心はどこまでも失われた一匹の羊に置かれています。ここに私たちを愛する神の愛の異質とも言える性格が示されているのです。

 私たちは自分や他人の価値をどのように考えているでしょうか。「他の人に比べて自分は価値のない存在だ」と考える人がいます。「あの人にくらべたら、自分はもっと丁寧に取り扱われてよい存在だ」と考える人もいます。まるで店先に並べられた商品の一つのように人間の価値を考えてしますのが私たちなのです。しかし、神はそのように私たちをご覧にはなられないのです。神は私たちを失われた存在として探し求めてくださる方です。だから神は決して諦められることはありません。神の元には私たちの名前が書かれた空席があります。その空席に私たちが帰って来るまで、その捜索を決し神は中断されないのです。だから神は私たちのために救い主イエスを遣わしてくださったのです。

 私たちの教会堂の中に並ぶ席にはまだたくさんの空席があります。礼拝に集まるたびに、ここにたくさんの空席がある姿を見て、私たちは複雑な思いを抱いています。しかし、神はすでにこの空席に座る人を定めておられるはずです。この空席にも一人一人の名前が記されていて、その空席に座るべき人を神は今必死に捜し求めてくださっているのです。伝道とはこの神の捜索作業に私たち一人一人が加わることだと言えます。ここにいるべき人がまだ見つかっていません。そしてその人が見つかったなら神は大喜びしてくださるのです。その上で神は私たちにも自分と同じ喜びを味わいなさいと招いてくださっているのです。

 神は私たちに一人一人を失われた羊のような存在として愛して、探し回り、見つけ出してくださいます。私たちがここに集まって礼拝を献げることができる姿を何よりも喜んでくださっているのは私たちを見つけてくださった神御自身なのです。そして、神はまだまだ見つけなければならない羊がいることを私たちに教えてくださっています。その捜索作業に私たちが加わって、いなくなった羊を見つけ出す喜びを共に味わうようと言ってくださるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 失われた羊のようにあなたを忘れ、この世の争いの中で傷だらけになり希望のない人生を送っていた私たちにイエス・キリストを遣わして、私たちを見つけ出してくださった幸いを心から感謝いたします。あなたの愛は私たちの思いをはるかに超えて偉大であり、また確かの者です。私たちがあなたの愛を忘れることなく生きることができるようにしてください。あなたは今でも、失われた羊を捜し回り、働いてくださっています。私たちがそのあなたの業に加わることで、あなたの喜びを共にすることできるようにしてください。そのために、私たちに聖霊を送って、私たちを励まし導いてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ファリサイ派の人々はイエスの元に徴税人や罪人たちが集まる姿を見て、何と言いましたか。彼らはどうしてイエスが徴税人や罪人たちと食事まで一緒にすることを不満に感じたのですか(1〜2節)。

2.ここでは百匹の羊を持っている人にどのようなことが起こったと語られていますか。物語を順を追って説明してください(3〜6節)。

3.このたとえで登場する羊やその羊の持ち主は誰と誰のことを言っていると思いますか。

4.7節で語られているイエスの言葉をもう一度読んでみましょう。この言葉からあなたは神と自分との関係についてどんなことに気づかされますか。

5.あなたは自分のことを見失われてしまった一匹の羊だと思いますか。それとも野原に残された九十九匹の羊だと思いますか。あなたがそう考える理由も教えてください。

2020.1.12「いなくなった羊」