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2020.1.19「福音のために心を合わせる」

フィリピの信徒への手紙1章27〜30節(新P.362)

27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、

28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。

29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。

30 あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。


1.福音にふさわしく生きるとは

①パウロを生かした使命感

 久しぶりにフィリピの信徒への手紙の学びに戻って、礼拝を献げたいと思います。私たちはこれまで伝道者パウロがフィリピの教会の信徒たちに送った手紙を学んで来ました。少し復習をすると、パウロはこの手紙を書いたときにローマの獄中に捕らわれの身となっていたと言われています。「捕らわれの身」と言いましても使徒言行録の手紙などを読むとパウロにはこの時、かなりの自由が許されていたようです。彼が住んでいたところも自費で借りた家(使徒28章30節)と使徒言行録は解説しています。おそらく現在の日本の裁判制度から考えれば、パウロは「裁判を待って、仮釈放の身となっていた」と言ってもいいかもしれません。仮釈放の身であってもパウロは囚人としてかなりの制限を受けて生活しなければなりませんでした。しかし、彼は許され範囲でこのローマの地でも伝道し、さらには各地の教会を指導するためにローマから手紙を書き送ったと考えられているのです。

 少し前に学んだようにパウロの一番の願いはイエス・キリストのところに行って、キリストにお会いし、彼とともにいたいと言うものでした。個人的にはそれが自分にとって一番幸いなことだと彼は考えていたのです。しかし、パウロはこの世にとどまってフィリピの教会の人々を助けると言う任務が自分にはまだ残されていることも確信していました。だからその使命を果たすまでは、キリストのところに行くことを後回しにすべきだと考えたのです。なぜなら、パウロにとっては、自分に与えられた使命を果たすことがキリストのために一番よいと思えたからです。このようにパウロの人生にとってもっと大切なことは自分がキリストのために生きることであり、そのキリストが自分を必要としているなら、たとえそれが困難な道であってもキリストのためにそれを成し遂げることだったのです。

 私たちの人生にとって大切なこともこの使命感を持つこと、つまり自分が誰かに必要とされていることを確信することだと言えます。なぜなら、私たちは誰からも自分は必要とされていないと思えるほど耐え難い苦しみはないからです。

 あるところに昔から大きな商売をして繁盛している店がありました。その家は「豪商」と言ってもよいほどたくさんの蔵が立ち並び、たくさんの使用人がそこで働いています。ところがその家の主人はちっとも幸せではありませんでした。なぜなら、彼が何か店の仕事をしようとすると、すぐに家の使用人が飛んできて、「それはわたくしがいたします。ご主人は奥で休んでいてください」と言って、追い出されてしまうからです。店の経営は昔から働く番頭たちがすべてうまくこなしていました。だから主人が口を出す必要は全くありません。彼が何かをしようとすると「そんなことせずに休んでいてください」と言われてしまうのです。それで彼は結局時間を持て余し、昼間から酒を飲む身分になってしまいました。彼はアルコール中毒になっても酒を飲み続けて。「俺は、ここでは何もすることがない。おれは誰からも必要とされていないのだ…」とつぶやきながら不幸な人生を送っていたのです。

 どんなに安全で快適な生活が保障されていても「自分は誰からも必要とされていない」と思って生きるほどつらいことはありません。

 「年寄りが何かをするのは危険だ」と言って「おばあちゃんは何もしなくてもいいから、そこにじっとしていて」と家族は言われてもうれしくなれないのは、私たちにとって「何もするな」と言われるほど耐え難いことはないからです。

 パウロは獄中にあっても、いえ、自分が息を引き取るそのときまで自分には使命がある、キリストのために生きることができると考えていました。このようにパウロの何事にも揺るがされることのない喜びの根拠は彼がキリストのために生きることができたというところにあったと言えるのかも知れません。


②キリストに救われた者としてふさわしく生きる

 さて、そのパウロはこの手紙の中で自分だけではなく、フィリピの教会の人々にもキリストから大切な使命が与えられていると説明しています。フィリピンも人々にもパウロは「あなたがたもキリストに必要とされている」と教えているのです。パウロは「その使命を自分と一緒に担ってほしい」と彼らに語っています。そしてパウロはフィリピの教会の人々がキリストから与えられた使命を果たすためにどうしたらよいのかをここで説明しています。パウロはそのために「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(27節)とフィリピの教会の人々に勧めているからです。

 「キリストの福音にふさわしい生活」、その生活とは一体どういう生活のことを言うのでしょうか。実はこの言葉は「キリストに救われた者としてふさわしく生きなさい」とも訳せる言葉となっています。パウロは私たちキリスト者に対して、キリストに救われた者として生きなさいと教えているのです。

 あるとき長い日照りが続いて困っていた村人が「雨を降らしていただけるように、神さまに祈ろう」と教会に集まることになりました。そこで人々は教会で長い時間を費やし、熱心に神に「雨を降らしてほしい」とりをささげました。やがて皆が祈りを終えて、各自が家に帰ろうとしていたときのことです。あれほど晴天が続いていた空が雨雲で突然暗くなり、大量の雨が降って来たのです。村人は雨が降ってきたことを喜んだのですが、彼らは傘を持って来ていなかったので、家に帰ることができなくなってしまいました。ところが、そのとき後、一人の少年が自分の持って来た傘を指さしながら。「どうしてみんなは、神さまに雨を降らしてくださいと祈ったに、傘を持ってこなかったの」と不思議そうに尋ねたと言うのです。

 私たちはイエス・キリストの救いを信じていると言いながら、本当に救われたものとして今、自分の人生を生きているでしょうか。私たちの過去の罪はイエスの十字架によってすべて許されたことを知っているのに、なぜ、私たちは過去の自分の失敗を思い出して、いつまでもくよくよしながら、大切な今と言う時間を費やしてしまっているのでしょうか。「明日のことで思い悩むな」とイエスは私たちに聖書の中で教えてくださっています(マタイ6章34節)。私たちの明日を保証してくださるのは神の役割だからです。それなのに私たちは明日のことを心配することでやはり大切な今と言う時間を使い果たしていないでしょうか。イエスによる救いを本当に信じることができれば、私たちは過去や未来を考えるために費やして来た時間を、今を生きあるために用いることができるはずです。私たちが神から与えられた使命を果たすためには、まず神によって過去と現在に向けられた私たちの関心を今と言う時間に向けていただく必要があるのです。

 「そんなことを言っても結局、私たちは過去を悔い、未来を恐れる自分の生き方を改めることはできない」と皆さんは考えるかもしれません。しかし、パウロは私たちに単にここで新しい生き方の提案をしているのではありません。「それを自分の力で何とかしなさい」と言っているのではないのです。キリストは私たちが福音にふさわしく生きることができるように、私たちの人生を導いてくださる方です。だからパウロはキリストは私たちを喜んで助けてくださると言ってよいのです。そのような意味で「福音にふさわしく生きる生活」とは何よりも私たちを救ってくださり、さらに私たちの人生を導いてくださるイエス・キリストに信頼を置いて生きていくことを言っていると考えることができるのです。


2.一つの霊によって固くたつ

 パウロは私たちが「キリストの福音にふさわしい生活を送り」、神から与えられた使命を全うするためには、どのような助けが私たちに与えられるかを次に説明しています。

「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており」(27節)

 私たちをキリストの福音にふさわしく生活できるようにさせてくださるのは、天におられるイエス・キリストから送られる聖霊なる神であるとパウロはここで語っています。この聖霊はイエス・キリストが地上で救い主として使命を果たされるためにも協力して働かれた方であることを聖書は私たちに証言しています。その同じ聖霊が私たちの一人一人の信仰生活の上にも働いてくださるのです。私たちにとってこれほど頼もしい方はおられないはずです。全能の神でおられる聖霊が救われた私たち一人一人の信仰生活を導いてくださるのです。

 しかし、ここで忘れてはならないことは聖霊なる神は私たちの人生を目的を持って導かれると言うことです。その目的は私たちが「心を合わせて福音の信仰のために共に戦う」ことです。パウロがこのとき獄中に繋がれていたのは、彼が福音を伝える使命を全うしようとしたからです。キリストの福音を伝えようとしたパウロの働きを、キリストの福音に反対する人々が妨害しました。パウロはその結果、ローマの兵隊たち捕らえられ、囚人としてローマに送られることになりました。もしパウロが自分に与らえらえた神からの使命を放棄していたら。パウロはこのような試練に会うことはなかったはずです。しかし、彼は決して、厳しい試練に出会っても自分に与えられた使命を放棄することはありませんでした。パウロはここでフィリピの信徒たちにも自分と同じように使命を果たすために生きてほしいと願っているのです。

 そしてその使命を果たすために重要になってくることがこの手紙の中に書かれている「心を合わせること」と言う言葉です。なぜなら、神から私たちに与えられる使命は私一人では成し遂げることはできないものだからです。つまり、この使命は教会に集まる私たちが一つの心になるときにはじめて成し遂げることができるものなのです。

 人が集まるとこにでは必ず争いごとが起こることを私たちは経験しています。様々な価値観を持った者たちが集まって一つのことを成し遂げることほど難しいことはないと私たちは考えることがあります。しかし、だからと言って私たちが家に閉じこもり、一人で聖書を読んでいても、また一人で祈っていても、神から私たちに与えられた使命を果たすことはできません。しかし、ここでもこの不可能を可能としてくださる方がおられるのです。なぜなら聖霊なる神が教会に働いてくださるからこそ、私たちは「心を合わせること」が可能となるからです。このように教会に集められた私たちが心を合わせることができるのは、聖霊なる神の働きであり、神の奇跡が教会を通して実現していることをパウロの言葉を教えているのです。

 古くからキリスト教会の信仰を表明する文章として使われて来た使徒信条の文章には教会について不思議な言葉が記されています。「きよい公同の教会…信じます」。教会は私たちが神を信じることと同じように、私たちの信仰の対象だとこの文章は教えています。なぜなら、本当の教会は神が立てられるものであり、神の作品だけです。そして私たちは今この素晴らしい神の教会のメンバーとされているのです。私たちはこの教会を立ててくださった神を信頼する必要があります。神は必ず私たちの教会を導いて、私たちが心を合わせて福音を伝える使命を果たすことができるようにしてくださるからです。


3.苦しむことも恵み

 パウロは次に「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(29節)と語っています。

 「恵み」とは神から私たちに与えられるプレゼント、贈り物を意味する言葉です。私たちがキリストを信じることができたこと、そしてキリストの救いにあずかることができたこともすべて「恵み」であり、神からの私たちに与えられたプレゼントなのです。そしてパウロは私たちが「キリストのために苦しむことも」神からの恵みであるとここで語っているのです。

 むかし、私が通っていた教会の牧師が私にこんな愚痴をこぼしていたことを思い出します。「家でいらなくなったからと言って、教会にいろいろなものを持ってくる人がいるのよ…。でも、私たちが神さまに献げるものは「いらなくなったもの」ではなく、最上のものを献なければならないのよ…」。教会に通い始めた私を教育するために、その牧師はそんな愚痴のような言葉を私に語ったのかもしれません。私たちが神に自分ができる最上のものを献げるのは、神が私たちに対して最上の贈り物を与えてくださったからです。父なる神は自分が最も大切にしている御子イエスを私たちに与えてくださいました。このように神は私たちにいつでも最上のもの、私たちにとって一番必要なものを与えてくださる方です。その神が与えてくださるものが私たちに不必要だと言うことは決してありません。パウロは「キリストのために苦しむことも恵み」と言っています。信仰の戦いの中で私たちが苦しむことも私たちのために必要なことだと語っているのです。だから聖書は私たちが苦しむことで、私たちの信仰から余分なものがなくなり、より純粋な信仰を持つことができるようになるとも教えています(ペトロ一1章7節)。

 さらに大切なことは私たちに与えられる苦しみを神の救いの計画と関連して考えることです。人々を魅了する立派な建築物も、実はそこで働く一人一人の血と汗の結晶であるように、私たちが信仰の戦いで体験する苦しみを通して、神の救いの計画は実現されていくのです。つまりこの神の救いの計画のために、私たち一人一人の苦しみは用いられるのです。

 神は私たちに「何もしないで、そこにいなさい」とは言われません。私たちの地上で残された人生を通して、私たちに与えられた使命を遂行するようにと願われているのです。そのために私たちは神に救われた者としてふさわしく生きることが必要です。そうすれば神は私たちに聖霊を送ってくださり、私たちが教会の兄弟姉妹と共に信仰の戦いを戦うことができるようにしてくださるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 貴い救いを実現するために、私たちの人生を用いてくださるあなたの御業を感謝いたします。私たちがその使命を果たすために、心を合わせて福音のために戦い、聖霊の導きと助けを受けて、自分に与えられた生涯を送ることができるように助けてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロはフィリピの教会の人々に自分がそこに行くまでどのように生活しなさいと教えていますか(27節)。

2.彼らがそのような生活を送るために神はどのような助けを彼らに与えてくださるとパウロは教えていますか(27節)。

3.パウロはフィリピの人々が心を合わせて福音の信仰のために共に戦うことで、どのようなことが明らかになると教えていますか(28節)。

4.どうしてパウロはフィリピの教会の人々に「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(29節)と説明したのですか。あなたは自分が苦しみに出会うときどのようなことを考えますか。

5.あなたはキリストのために今、自分にどのような使命が与えられていると考えますか。あなたがその使命を果たすためにはどうしたらよいと思いますか。

2020.1.19「福音のために心を合わせる」