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2020.1.26「神の力である福音を信じる」

ローマの信徒への手紙1章16節(新P. 273)

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。


1.神の恵みを見極める信仰の目

 今日の午後には私たちの教会の一年間の歩みを話し合う会員総会を開催します。教会では新しい一年間の歩みの指針となる年間聖句と年間テーマを毎年決めています。すでにこの講壇の両脇には昨年のものが取り外されて、今年の新しい年間聖句と年間テーマが貼られています。昨年、私たちは「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と言う詩篇23編1節の聖句と「主に養われる教会生活」と言うテーマで一年間の教会生活を送ってきました。皆さんは昨年一年間の信仰生活を振り返って、どのような感想をお持ちになられるでしょうか。

 教会で毎週金曜日に行っているフレンドシップアワーではまずその日の聖書の学びに入る前に、この一週間で自分が感じた神からの恵みや、心に残った聖書の言葉などを出席者同士で語り合う時間が設けられています。先週一週間自分は何をしてきたのか。それを思い出すことは認知症予防のためにも役に立つかもしれません。しかし、この時間をわざわざ設けているのは、私たちの日々の生活を通して私たちと神との関係を確かめるためです。私たちの神は私たちの信仰生活をひと時たりとも休むことがなく、いつも導いてくださっている方です。だからこのように私たちが普段、当たり前のように思っている生活が、実は神の御業によって支えられていること、私たちの日々の生活の中に神の奇跡が起こっていることに気づくことは私たちの信仰生活にとってとても大切なのです。

 ところが、毎週フレンドシップアワーの話し合いをしていて気づくことは、私たちがあまりにも神の御業に対して鈍感であると言うことです。そして私たちが自分の生活を省みる方法はどこかで間違っていると言うことに気づくのです。なぜなら私たちは神から与えられたものではなく、与えられなかったものにだけに目を注ぎがちだからです。神の力によって祝福された生活を送ることができているのに、自分の思い通りにならなかったことや、失敗したことにだけに関心を向ける傾向が私たちにはあるのです。これはとても残念なことであると言えます。せっかく神が私たちの信仰生活を導いてくださっているのに、それに気づくことができなくなってしまっているからです。

 この詩篇の言葉は「私たちががんばれば、私たちが一生懸命に神を信じれば、神さまはあなたの羊飼いになってくれるはずだ」と言っているのではありません。この詩篇は神が私たちの羊飼いであること、だから自分の羊である私たちを導き養ってくださることは疑うことのできない真実だと教えているのです。

 私たちの信仰生活はこの真実を日々体験し、味わうためにあると言ってよいのです。私たち信仰生活には日々、神の恵みが豊かに注がれているからです。私たちにとって大切なのは、この恵みを信仰の目を持って見極めることです。自分の毎日の生活の中で起こっている神の奇跡に私たちが信仰の目を持って気づくことだと言えるのです。

 会員総会を前にして私たちが昨年一年間の教会の活動を振り返るとき、この神の恵みと神の奇跡を信仰の目を持って見極めることが大切になります。そうすれば私たちは神に慰められ励まされることで、新しい一年の歩みを始めることができるからです。


2.福音の力

①福音には神の力がある

 さて、今年の教会の年間聖句は伝道者パウロが記したローマの信徒への手紙1章16節の言葉が選ばれています。

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

 そしてこの聖書の言葉に基づいて教会の年間テーマは「神の力である福音を信じる」としました。私たちが信仰者として毎日の生活を送るとき、その土台となって私たちを支えるものは何でしょうか。それは聖書に記され、イエス・キリストを通して私たちに明らかにされた福音であると言えます。だからこの福音こそが私たちに新しい命を与え、私たちを生かすものであることをパウロはこのローマの信徒への手紙で詳しく述べているのです。

 「福音」とは元々「よき知らせ」と言う意味を持った言葉です。この言葉は古代社会の人々の一般生活で使われていたものです。ローマ時代にはこの言葉が母国で、戦場に出席した兵士の戦いの結果を待っている人々に伝えられたニュースを指す言葉として用いられました。戦いのために出征して行った兵士たちが戦地でどのような活躍をしたのか、戦いの勝敗はどうなったのか、そのことを知らせるニュースは母国の人々の運命を左右させるような知らせでした。自分の国の兵士たちが戦いに勝利すれば、母国の人々の生命や身の安全も保たれることができます。しかし、その戦いに自分たちの国の兵士たちが破れてしまったら、自分たちの身はこれからどうなるのかわかりません。皆が捕虜にされて遠い異国の地に連れて行かれて、そこで自由を奪われて奴隷として一生を生きなければならなくなることもあり得るのです。だから、人々は自分の国の兵士たちが戦いで勝利したというニュースをいつも心待ちにしていました。そして新約聖書はこの「福音」と言う言葉を使って神の救いの出来事を説明しようとしたのです。

 聖書はこの「福音」と言う言葉をそのまま、神の救いの出来事を知らせるニュースと言う意味で使っています。なぜなら、キリストの十字架の出来事は私たちのために成し遂げられた神の戦いであったからです。そしてキリストが十字架で勝利することによって、罪と死の奴隷として生きて来た私たちに始めて自由が与えられたのです。滅びと死を待って生きるしかなかった私たちに、自由をもたらす解放のニュースが届けられたのです。

 パウロはローマの信徒への手紙の中でこの福音を「神の力」と呼んでいます。どうしてパウロはそう言ったのでしょうか。この福音には私たちの人生を全く変えることができる力があるからです。だからパウロは福音を神の力だと言ったのです。この福音に対して人間の作り出す言葉には力がありません。その言葉がどんなに説得的で、魅力ある言葉に聞こえたとしても、人間の語る言葉には力はないのです。なぜならその言葉が私たちに永遠の命を与えることはできないからです。誤解をしてはならないことは、これは人間の言葉は全く無意味だと言うことではありません。人間の様々な経験から生み出された言葉には私たちの生活を豊かにする様々な知恵が隠されています。なぜなら、これらの知恵も元々は神が私たちに与えてくださるものだからです。しかし、どんなにすばらしい知識や知恵であっても、人間の作り出す言葉には私たちを罪と死の呪いから救い出し、永遠の命を与えることのできる力はないのです。だからパウロはこのような意味で福音は私たちを救い、生かすことのできる神の力だと呼んだのです。


②伝えられなければ、知ることができない福音

 ところで、この福音にはこのほかにも大きな特徴があります。それは今、言いましたように福音は人間の経験から生み出されてきたものでありません。だから誰かによって伝えられなければ、誰もこの福音を知ることはできないと言う特徴です。もし、人間が自分の経験を通してこの福音を知れるとしたら、誰からも福音を伝えれられなかったとしても、何らかの経験をすれば福音を知ることができることになります。しかし福音はそうではありません。福音は誰かに教えてもらわなければ、聞くことも知ることもできないものなのです。

 それはこれはここにおられる皆さんの信仰生活を振り返ってみてもわかるはずです。福音について誰からも教えてもらわないで、福音を知ることができたと言う人がここにいるでしょうか。そんな人は一人もいないはずです。皆さんの人生の中に福音を伝えた人が必ずいたからこそ、皆さんはその福音を知ることができ、また信じることができたのではないでしょうか。伝道者パウロはこの福音の特徴についてローマの信徒への手紙10章14〜15節で次のように説明しています。

「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」

 福音は誰かが伝えなければならないのです。実際に私たちは誰かから福音を伝えられたからこそ、今、神を信じ、救いにあずかることができていると言えるのです。このような意味で福音は人によって人に伝えられることが必要です。

 今年は東京でオリンピックが開催される年となりました。様々なところでオリンピックの話題が取り上げられています。あのオリンピックで大切なのは聖火のリレーです。最初、ギリシャの地で灯された聖火がたくさんの人を介してオリンピック会場に届けられます。福音はこの聖火リレーによく似ているところがあります。二千年前にイエス・キリストが十字架と復活によって灯してくださった命の火を使徒たちやたくさんの信仰者たちが伝えてきたからです。だから今、福音は私たちのところに届けられているのです。そして、この命の火をともされた私たちは、今度は他の誰かにこの命の火を伝える必要があります。今でもこの命の火を私たちから受け取ることを待っている人々が必ずいるからです。

 この働きを担う私たちの事情はそれぞれ異なっているかもしれません。パウロのようにたくさんの人に福音を宣べ伝えることができる人もいます。また、数は限られていても大切な身近な人々にこの福音を伝える人がいます。どちらにしても私たちに与えられている使命はこの福音の火を受け継いで、新たな人の魂に福音の火を灯すことだと言えるのです。

 使徒パウロは何よりも自分に与えられたこの使命を自覚し、その使命を果たすために生きた人だと言えます。だからそのパウロが私たちに「福音は救いをもたらす神の力である」と強く語っているのです。


3.福音は神の力

 このローマの信徒への手紙1章16節でパウロは「福音を恥とはしない」と語り出しています。これは言葉を変えて言えば「わたしは福音を伝えることを恥ずかしいとは思っていない」と言うことになります。その上で福音はユダヤ人にもギリシャ人にも救いを与える神の力だと語っているのです。この言葉に関しては同じパウロが記したコリントの信徒への手紙一の1章22節から24節を読むとパウロが言おうとした意味が分かります。

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」

 ここに登場するユダヤ人は皆さんもご存知の通り、まことの神を信じ、その神の言葉である聖書を伝えた民族です。彼らの存在がなければ、私たちにキリストの福音は伝えられなかったと言ってもよいでしょう。しかし、新約聖書を読むとユダヤ人はキリストの福音に激しく抵抗した民族としても描かれています。なぜなら、彼らは自分たちが神に選ばれた特別な民族であると言うところに誇りを持っていたからです。ですからユダヤ人はイエス・キリストに対しても「しるし」を求めました。イエスが十字架にかけられた際も、彼らは「そこから自分の力でおりて見ろ。自分たちにしるしを示せ」と叫んだほどです。イエスの十字架こそが彼が神の子であることを示す確かなしるしであったのに、彼らにはそれがわかりませんでした。なぜなら、彼らは自分たちが特別な存在、神から選ばれた民族だと言う誤った思想に縛られていたために、キリストの福音に耳を傾けることができかったからです。

 一方のギリシャ人はどう言う人たちだったのでしょうか。使徒言行録の17章にはこのギリシャ人がアテネの町にやって来たパウロを通して福音を聞いたときにどのような反応を示したかが報告されています。彼らギリシャ人はソクラテスやプラトンなど有名な哲学者を生み出した民族です。だからでしょうか彼らは知的満足を満たすために新しい教えには耳を傾けることを好みました。ところが、パウロが「死者の復活」と言うキリストの福音の核心部分を語りだしたときにギリシャ人は「ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った」(使徒17章32節)と報告されています。ギリシャ人も自分たちが持っていた知識がじゃまをして福音を受け入れることができなかったのです。

 パウロはユダヤ人にもギリシャ人にも「十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」とコリントの信徒への手紙の中で語っています。ユダヤ人からも、ギリシャ人からも「そんな教えなど信じられない、説得力に欠ける」と言われながらも、キリストの福音を何一つ変える必要なないと言っているのです。ここには「福音が神の力である」と言うパウロの信仰がつらぬかれています。このパウロと対象的にこの世のセールスマンは相手の必要をよく知った上で、相手が必要としているものを提供することを心がけます。そうすれば相手の心をいち早く捉えることができるからです。しかし、パウロはそのようなことはしないとここで断言するのです。だからパウロは自分が聞いたキリストの福音をそのまま人に伝えようとしたのです(コリント一11章23節)。

 どうしてパウロはそうしたのでしょうか。パウロは福音が神の力であるからこそ、福音自身がを人を説得することができると考えたからです。事実、神が聖霊を送ってくださるからこそ人は福音を信じることができるようになるのです。このような意味で福音は単なるニュースではありません。福音の言葉が人によって伝えられるところで、神が豊かに働いてくださるからです。

 福音を伝える使命をゆだねられている私たちが忘れてはならないことはこのことではないでしょうか。私たちが人を説得して、その人を信仰者にしたり、教会員にすると言うことはできません。私たちに神からゆだねられているのは福音を忠実に伝えると言うことです。後は神がその福音を使って、その人を導いてくださるからです。だから私たちではなく、私たちの伝えている福音にこそ神の力があると言えるのです。パウロは「福音はユダヤ人であってもギリシャ人であってもどんな人をも説得し、救いに導く力を持っている」と言っているのです。

 私たちの持っている力には限界があります。もし私たちが自分たちの力に頼って、信仰生活を送ろうとすればすぐ行き詰ってしまうでしょう。もし、私たちが限られた自分たちの力で福音を伝えようとしても。そこには希望がありません。しかし、私たちの神は私たちに一人一人に神の力である福音をゆだねてくださいました。この福音にこそ無限の可能性と力が秘められているのです。だから私たちはこの「神の力である福音を信じて」新しい一年の歩みを始めて行きたいと思うのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 私たちのために三位一体の神が私たちに働いてくださり、私たちが信仰生活を送ることができるようにしてくださることを心より感謝いたします。その神によって受け入れられて集まった私たちが、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つ」にすることができるように助けてください。私たちが互いに与えられた神からの賜物を認め合い、協力しあうことができるようにしてください。すべての出来事を私たちの救いのために用いてくだるあなたを信じます。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.昨年一年間のあなたの信仰生活を省みて、あなたが神の恵みを一番よく感じることができた出来事は何ですか。

2.あなたに福音を伝えた人たちのことを思い出してみましょう。その人たちとあなたはどこが違いますか。どこが同じですか。

3.あなたに委ねられた福音を、あなたは誰に伝えたいと思っていますか。

4.私たちが「福音がすべての人に救いをもたらす神の力である」と信じるならば、私たちにどんな可能性が与えられると思いますか。

2020.1.26「神の力である福音を信じる」