2020.1.5「主イエスに献げられた贈り物」
マタイによる福音書2章1〜12節(新P.85)
1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
1.東の方からやって来たマギの正体
①教会に伝わる様々な伝説
今日の礼拝はキリスト教会のカレンダーでは「公現日」という名前が付けられた日となります。この公現日はイエス・キリストがユダヤ人以外の異邦人と初めて出会った出来事を記念する日とされています。この出来事を通してイエス・キリストによって実現する救いの御業がユダヤ人だけではなく、全世界の人のために提供されていることが公に示されたとキリスト教会は教えて来たのです。
幼子イエスが異邦人と初めて出会ったという出来事を学ぶために、教会暦は毎年、この日にマタイによる福音書の伝える物語から学ぶようにと私たちに教えます。この物語に登場する東の方からやってきた占星術の学者たちがこの日の礼拝では毎年取り上げられるのです。
ところが聖書はこの占星術の学者たちの身の上について詳しいことは一切説明していません。ですから、後代になって彼らについてキリスト教会では様々な伝説が生み出されました。だいたい聖書にはこの学者たちが何人いたのかという正確な人数も記されていません。教会でいつの間にか、この学者たちの数は三人だという定説ができてしまっています。この学者たちの人数の根拠はおそらく、彼らが幼子イエスにささげた黄金、没薬、乳香という三つの品物の数から推測されているように思えます。ついでですが、教会に伝わる伝説ではこの三人の学者たちにそれぞれ名前が付けられています。イエスに没薬をささげた人物は老人のメルキオール、黄金をささげた人物は壮年のバルタザール、そして乳香をささげたのは青年のカスパールと言った具合にです。また、教会に伝わる別の伝説ではこの三人を世界に住む三大種族を代表する王たちであると教えるものもあります。その話によれば彼らはヨーロッパ人、アフリカ人、アジア人を代表する王たちだったと言うのです。
しかし、ある聖書解釈者はその解説書の中で、彼らについて後代に作られた様々な伝説はこの物語の本来の意味を損ないかねないものだと読者たちに警告を発しています。彼は聖書の本来のメッセージを理解するために勝手な脚色を加えることは有害だと教えているのです。
②困難な旅と神の導き
彼らを「学者」と呼ぶために使われる単語は、聖書の原語では「マギ」という言葉が使われています。この言葉は英語の「マジック」といいう言葉の語源にもなったものだと考えられています。マジックは私たちの目を楽しませますが、結局は私たちの心理的な錯覚を利用して騙しを行なうもので、真実を伝えるものではありません。ですからユダヤ人の間では昔から占星術をはじめとするすべての占いが禁止されていました。彼らにとって占いと言う行為は神への信仰に反するもっともいかがわしい行いであり、それを生業とする人々は憎むべき人々と考えられていたのです。
しかし、ユダヤ人以外の異邦人の世界ではその評価は逆転します。当時の世界では占い師は有能なアドバイザーであると考えられていたからです。聖書が伝える「マギ」という言葉は直接には現在のイラン、かつてのペルシャの王宮に仕える祭司たちを意味していると考えられています。ユダヤとは違いペルシャでは彼らはかなりの地位を持つ政府の高官として重要な働きをしていたのです。
その彼らがどうして「ユダヤ人の王として生まれた」幼子に会いに、わざわざユダヤの地まで旅に出たのか…。これも聖書の中に登場するミステリーの一つと考えることができます。なぜなら、単に彼らが自分の好奇心を満たすためにエルサレムまでやって来たと考えるなら、この旅はあまりのも彼らにとってリスクが高すぎるからです。そのままペルシャに残っていれば、彼らはかなりの待遇を受け、平安な生活を保障されていました。それなのに彼らはその生活をわざわざ捨てて遠いユダヤの地までやって来たのです。彼らの旅は現在の観光旅行のような旅とは大きく違っていました。「もしかしたら、その旅先で自分は命を失うかもしれない」。そんな覚悟も必要とされるのが当時の旅人に求められた常識だったのです。いったい、彼らの心をここまで駆り立てたものはなんだったのでしょうか。ここに確かに神の導きがあった、彼らの心を動かしたのは神ご自身だったと考えるほか、この理由を説明することはできないと思います。この時、彼らの上に神の確かな導きがあったからこそ彼らはこの困難な旅に出発することができたのです。
ある聖書解釈者は「神は夜空に輝く星を彼らのために用いられた」と説明しながら、「ここに神の謙遜さが表されている」と語っています。占星術は異邦人が使ういかがわしい魔術と考えることができます。しかし、神はその魔術をここで利用されました。ユダヤ人であれば「それは聖なる神の御業としてはふさわしくない」と考えるかもしれません。しかし、神はどんな方法を使っても占星術の学者を幼子のもとに導こうとされたのです。ここには私たちを救うためにはどんな方法でも用い、ついにはご自身の愛する独り子の命までささげられた神の深い愛の姿が示されているのです。
2.ヘロデ王の不安
①ヘロデとエルサレム市民の不安
この時、占星術の学者たちは「ユダヤ人の王」に会うためにはるばるユダヤの都エルサレムまでやって来ました。「ユダヤ人の王」という名称は聖書では特別な意味を持って使われています。一番のよい例は十字架にかけられたイエスの上に掲げられた罪状書きです。イエスを十字架にかけるように命じたローマの総督ピラトはその罪状書きに「ユダヤ人の王」と記させたからです。聖書では「ユダヤ人の王」とは全人類を救い出す救い主を指す呼び名として用いられています。占星術の学者たちは単なる外国のどこかの王の誕生を祝いにやって来たのではありません。自分たちを救うことのできる救い主に会いにエルサレムまでやって来ていたのです。しかし、当時のエルサレムでは彼らのような気持ちで、救い主の誕生を考えた人は一人もいなかったのです。
当時のユダヤを治めていたヘロデ王をはじめ、エルサレムの人々も不安を抱くことしかできなかったと聖書は告げています。前回の礼拝でも触れましたようにこのヘロデは元々、純粋なユダヤ人ではありませんでした。当時、ユダヤの地を支配していたローマ帝国の後ろ盾によってヘロデはユダヤ人の王という身分をまんまと手にいれたのです。ヘロデは苦労して手に入れたユダヤ人の王と言う身分を簡単に手放す人間ではありませんでした。むしろ彼はどんな手段を使ってもこの王としての地位を守ろうとしたのです。
エルサレムの市民はユダヤ人ではないヘロデが王となったことを決して快くは思っていませんでした。しかし彼らは暴君ヘロデの持っていた力を恐れたために、しぶしぶ彼に従わざるを得なかったのです。ヘロデがおとなしくしていれば市民たちも安泰でした。しかしいったんヘロデが何かを仕出かせば、彼らの日常生活も突然に変わってしまう可能性があります。だから、占星術の学者たちのもたらしたニュースはヘロデだけではなく、エルサレムの市民全体を不安に陥れたのです。
②私たち自身に悔い改めを求める福音
ヘロデもエルサレムの市民も立場は違いますが、それぞれ今持っている自分の生活を守ることに必死でした。この点では、自分が持っていた生活を捨てて、このエルサレムにやって来た占星術の学者たちの選んだ道とは全く違っていました。ここには私たちがキリストの福音を受け入れるために重要な教訓が示されていると言えます。なぜなら、キリストの福音は悔い改めて、自分が変わる決心をした者だけが受け入れることができるからです。
私たちは普段、自分が幸せになるためには自分以外のものが変わる必要があると考えています。極端に言ってしまえば、世界が自分に都合よく動いてくれればそれでよいと思っているのです。しかし、私たちが自分の思い通りに世界を変えることはほとんど不可能です。だから私たちはいつまでも幸せになることはできないのです。ヘロデはまさにこの人間の性質をよく表す行動をとりました。なぜなら、彼は自分の地位を奪いかねない、幼子イエスの存在を恐れて、ベツレヘム近郊で生まれた二歳以下の男児を皆殺しにしたからです。世の中から自分に都合の悪い存在をなくしてしまおうと考えたのです。
私たちはヘロデほど残忍な人間ではないと考えているかもしれません。しかし、私たちも自分にとって都合の悪い存在や、自分を苦しめている人がいなくなればよいと考えることはないでしょうか。「あの人さえいなければ、自分の人生はもっと平安になるのに…」と思うのです。しかし、そう願ってもその通りになることはめったにありません。おまけに「あの人さえいなくなれば」と思った人が、何かの理由でいなくなっても、すぐに同じように自分を苦しめる別の人が現れるのです。もし、私たちがヘロデと同じような権力を持っていたなら、彼と同じような失敗私たちも犯す恐れがあります。
キリストの福音は私たち自身にまず悔い改めを求めます。それは私たち自身が罪の奴隷として生きていた不自由な生活をやめて、神を信じて生きる自由な生活を送るためです。そしてキリストの福音は私たちがどのような状況に置かれることがあっても、私たちに平安を与え、喜びを与えることができるものなのです。
だから自分の持っている生活に固執して、悔い改めを拒む者はキリストの福音が提供する平安と喜びを味わうことはできないと言えるのです。
3.神の導き
占星術の学者たちがヘロデのもとを後にすると、かつて自分たちが母国の地で発見した星が、再び夜空に現れて輝き出す姿を目撃します。彼らはかつてこの星を発見することによって、「ユダヤ人の王」と呼ばれる救い主がこの地上に誕生したことを知らされました。今度は、この星自身が彼らの旅の行き先を先導する働きを果たします。星が彼らに先立って進み、彼らを幼子のいる場所へと導いたのです。もしこんな星が出現したら、現代人の私たちなら「UFO」と勘違いしてしまうかもしれません。いずれにしてもこの現象は、神が占星術の学者たちのために行ってくださった奇跡であると言えます。「そんな奇跡が起こったら自分たちも彼らのように喜びに満たされるかもしれない」と思われる方がいるでしょうか。安心してください。神は今でも私たちのために奇跡を起こしてくださいます。大切なことは、私たちが心からイエスとの出会いを求めて信仰生活を送ることです。そうすれば、聖書の言葉が私たちをこの星に代わって導いてくれるはずです。占星術の学者たちを導いてくださった神は、同じ力を使って聖書を読む私たちを救い主イエスとの出会いに導いてくださるのです。私たちはこの期待を持って、これからも聖書の言葉を読み続けていきたいと思うのです。
4.幼子を礼拝したマギ
年末にコメディアンのヒロシがトルコを旅行した番組を見ました。ヒロシが街を歩くと、様々な商店の主人たちに呼び止められます。主人たちはヒロシたちのためにチャイを出前させて、彼らにふるまいます。ヒロシは見ず知らずの自分を親切にもてなす人をなかなか信じることができません。「お金をとられるのではないか、何かを無理に売りつけられるのではないか」と疑い続けます。しかし、彼らは結局ヒロシに何も要求せず、笑顔で「また来てください」と言って送り出します。面白いのは少し歩きだすとまた違う店から彼は呼び止められ、またチャイが同じ出前人によって届けられるということが繰り返されます。結局どんな動機で彼らがヒロシをもてなしているのかわからないまま、ヒロシはチャイを何杯も飲まされ、手製の食事をごちそうになり撮影が進んで行きます。私は「イスラム教徒のトルコ人はきっと功徳を積むためにやっているのかもしれない」と考えながらその番組を見ました。
ところがその後で私は聖書の言葉を思い出しました。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)とイエスは語られています。またこんな聖書の言葉も思い出しました。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」(ヘブライ13章2節)。いずれも私たちの隣人に対する行為が神と私たちとの関係に結びついていることを語っています。
占星術の学者たちはこの日、出会うことのできた幼子に自分たちが持ってきた宝物をささげました。黄金、乳香、没薬を贈り物として贈ったのです。彼らがこの宝物をささげた相手は人間の目で見るならどこにでもいるような幼子でしかありませんでした。幼子を抱いている母親はどこにでもいるような女性でしかありません。またその父親も大工を生業とする平凡な男性です。こんな幼子に宝物をささげることにどのような意味があるのか…?それをもし、だれかが目撃していたらそう疑うような光景がここでは繰り広げられています。しかし、彼らには分っていました。自分たちは世界を救い、全人類を救うためにやってきてくださった神の御子を礼拝していると言うことを…。だから彼らは喜びに満たされることができたのです。
私たちの信仰生活にも同じような側面があります。私たちの信仰を理解しない人々は私たちの行うことを、「何の得にもならない、無駄なことをしている」と考えるかもしれません。またそう非難する人もいるでしょう。しかし、私たちのしていることはこの占星術の学者たちと同じように、私たちを愛し、私たちを何よりも大切にしてくださる神に対して、主イエスに対してして行っていることなのです。私たちも彼らと同じ信仰の目をもって信仰生活を続けて行きたいのです。そうすれば神は必ず私たちにも占星術の学者たちと同じように、豊かな喜びを与えてくださるからです。
…………… 祈祷 ……………
私たちのために御子イエスをこの地上に遣わしてくださったことを記念するクリスマスをここまで祝うことができたことを感謝します。ユダヤ人であっても異邦人であっても、すべての者はこの御子によって救いを受けることができます。その御子に出会うために遠い異国から旅立った占星術の学者たちの信仰と同じ信仰を持って、私たちが今年も教会生活を送ることができるようにしてください。星に導かれて主イエスに出会った彼らのように、聖書のみ言葉を持ってわたしたちを導き、主イエスと共に生きる生活を続けることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになられとき、どのような人がエルサレムにやって来ましたか。彼らはここまで何をしにやって来たと説明していますか(1〜2節)
2.彼らの話を聞いてヘロデ王もエルサレムの市民たちもどのような思いになりましたか。その理由も考えて見ましょう(3節)。
3.ヘロデ王は占星術の学者たちの話を聞いて何をしましたか(4~8節)。