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2020.10.18「神の武具を身につけなさい」

エフェソの信徒への手紙6章10〜20節(新P.137)

10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。

11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、

15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。

17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

18 どのような時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

19 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。

20 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。


1.虚無に向かわせる悪魔の力

①神に敵対する存在としての悪魔

 今日もパウロの記したエフェソの信徒への手紙を続けて学びます。先日学んだ箇所でパウロは私たち信仰者の戦いについて次のように説明しています。

「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(11〜12節)。

 パウロはここで私たちの戦う相手は「悪魔」とその仲間たちであると語っています。現代人の多くは悪魔が実在するという主張に首をかしげるかも知れません。科学が発達した現在にこのような主張を語ったり、それを信じようとする者たちは愚かで哀れな人たちだと考えるのです。確かに人間は自分の都合のいいように悪魔の存在を論じるところがあります。自分が犯した罪の責任から逃れるために「悪魔がそうさせた…」と言う主張を繰り返す犯罪者もいるからです。ですから私たち人間は悪魔の存在すら都合よく利用しようとするような性格を持っています。だからこそ悪魔の存在を簡単に信じることはできないと多くの人々は思うのかも知れません。

 聖書は悪魔がどのような存在なのかを詳しくは語っていません。だから、私たちが耳にする悪魔についての様々な描写は人間が勝手に作り出した創作にすぎないと言えるかも知れません。ただ、聖書が悪魔についてはっきりと語ることは、悪魔は常に神に敵対する存在として登場することです。だからこそ神の元から遣わされた救い主イエスの御業を阻むために悪魔は総力をかけて戦いに挑んだことを聖書は報告しています。さらに悪魔は今も主イエスの御業を地上に実現させようとして働くキリストの体である教会とそこに集まる人々に対して同じように戦いを挑んできます。悪魔はキリストに挑むように、教会と私たちに攻撃をしかけるのです。


②混とんとした闇に導く悪魔

 ところでパウロはこのエフェソの手紙の冒頭で私たちと私たちの世界に対する神の素晴らしい計画が天地創造の前から神のみ旨の中にあったことを語っています。神はこの計画に従って今も世界を導いて下さっているのです。聖書は神がこの世界を創造され、やがてこの世界を完成させるために「摂理」の御業をもって導いてくださっていると教えています。そこである有名な神学者は悪魔の働きについて「この神の創造と摂理の御業に逆行させるものだ」と語っています。世界は混とんとした闇の中から神のみ言葉によって創造されたことを聖書は語っています。悪魔はこの神の働きに逆行して世界を再び混とんとした闇に戻そうとしていると言うのです。そして悪魔は私たちに一人一人の人間に対しても同じように働きます。悪魔は私たちの人生を虚無の闇をもって支配しようとしているのです。「生きていても仕様がない、人生は無意味だ」。私たちの周りでもこのような人々の叫びを耳にすることがあります。聖書によればまさにこれこそ私たちを虚無の闇に引き入れようとする悪魔の働きの結果だと言えるのです。もし、そうなら私たちはこの悪魔の働きに対して、神の力を持って対抗しなければなりません。なぜなら、人間の知恵や力では悪魔の巧妙な策略には対抗することはできないからです。


2.人間の力では対抗できない

 私たちの戦いの相手が悪魔であるならば、私たちは神の力によって戦う必要があります。だからパウロはここで私たちに対して「神の武具を身に着けない」と教えているのです。

 旧約聖書のサムエル記上17章には後にイスラエルの王となるダビデが少年時代にペリシテ人の巨人兵ゴリアテと戦う物語が記されています。このとき巨大なゴリアテの姿を見ただけでイスラエルの兵士たちは震え上がり、戦う意志さえ失いかけていました。そこにたまたま戦場に使いとして遣わされて来た少年ダビデが登場して、このゴリアテとの戦いの相手として名乗りを上げます。そしてそのダビデの話を聞いた当時のイスラエルの王サウルは自分が身に着けていた兜や鎧、剣など言った武具をダビデに与えようとします。しかし、ダビデはこれらの武具を身に着けることに慣れていなかったので、すぐに武具を脱ぎ捨てて身軽な身となり、その代わりに自分がいつも使っていた石投げ紐と河原で拾った小石をもってゴリアテの前に出て行ったのです。

 ダビデにとってはサウルの武具は戦いの役には立ちませんでした。なぜなら、それは人間の作った役に立たない武具にすぎなかったからです。そのダビデは巨人ゴリアテに向かってこう叫んでいます。

「わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。…この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」(45〜47節)。

 ダビデは人間の力や知恵ではなく、神の力によってゴリアテに立ち向かいました。だから彼は巨人ゴリアテに勝利することができたのです。だから私たちもこの神の力によって戦わなければならないのです。そしてパウロは信仰者が身に着ける目には見えない武具を次のように私たちに教えているのです。


3.神の武具を身に着ける

①真理と正義

「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け(なさい)」(14節)。

 ここで言われている真理や正義は、当然この世の真理や正義ではなく神の真理であり、神の正義のことを語っています。それでは私たちはこの神の真理と正義をどのように知ることができるのでしょうか。それは救い主イエスのみ言葉と御業を通して知ることができます。

 この神の真理や正義を知らないこの世の人々は目の前に起こる出来事を自分勝手に解釈してはさらなる混乱に陥ってしまいます。ヨハネによる福音書9章に登場する「生まれつきの盲人」は、人々から「不幸な人間」と判断され、「彼か彼の両親が犯した罪が彼の生涯をこんなにも悲惨にしているのだ」と考えられて来ました。しかし、イエスはこのような人々の解釈を一切退けて、神の真理と正義に基づいてその人の人生に隠されていた秘密を語りました。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。

 イエスだけが神の真理、そして正義を知っておられます。だからこそ私たちは自分の人生に起こった出来事をこのイエスのみ言葉とみ業を通して理解していくことが大切だと言えるのです。そうすれば私たちは私たちの人生に向けられている神の愛と力を確信することができるからです。


②平和の福音

「平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」(15節)

 私たちの人生において最も大切なことは何でしょうか。それは神と自分との関係です。先ほどお話したイスラエルの王サウルと、ダビデは極めて対照的な人物として聖書に紹介されています。サウルがその生涯で最も関心を抱き、また恐れていたものはイスラエルの国民の下す自分に対する評価でした。だから、サウルは彼らの目が自分よりもダビデに向けられていることを知ったとき、動揺して正気を失い、ダビデを殺そうとまで考えたのです。一方のダビデの関心は違いました。彼の関心はいつも神に向けられていました。だからダビデは息子アブサロムの反乱によって、落ちぶれた姿でエルサレムを脱出せざるを得なくなったときも、その関心の中心を神にのみ向け続けたのです。だから彼は自分の人生に対する判断を人々にではなく、この神の判断にゆだねることができたのです。

 私たちは心の平安を追い求めて日々の生活を送っています。しかし、本当に私たちにとって大切なのはこの神との関係です。神がいつも私たちの味方となってくださることこそが、私たちの人生における平安の鍵となるからです。福音は私たちの人生にとって大切な出来事を私たちに教えています。イエス・キリストによって私たちと神との関係に完全な平和が実現したことをです。だからどんなことがあっても、私たちと神との関係は壊れることがありません。そして私たちは信仰の戦いの中でも、この福音によって確かな平安を得ることができるのです。


③信仰と救い

「なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり(なさい)」(16〜17節)。

 ヘブライ人への手紙には私たちの信じる信仰を説明する有名な言葉が記しています。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(1節)。

 私たちは自分の人生が依って立つことができる確かなものをいつも求めています。しかし、私たちは今までの自分の人生で「これこそ自分の人生を支えるものだ」と考えたものがいとも簡単に崩れ去ってしまうことを繰り返し体験して来たのです。

 聖書は私たちの人生にとって確かなものは聖書が教える真の神であり、その神が私たちに与えてくださった約束であると教えています。聖書に登場する人々の人生の歩みはこの世の人の目から見れば無謀なものであり、頭がおかしいと思われるようなものだったかもしれません。しかし、彼らは神の約束を依り頼んで生きたということで誰よりも確かな人生を歩むことができた人々だと言えるのです。そして彼らの人生はこの神の約束の確かさを確認するものとなったのです。私たちもこの神の約束を信じて、信仰の戦いに出ていくことが大切です。なぜならイエスはすでに十字架の上で勝利してくださり、私たちにこう約束してくださったいるからです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)。


4.神の言葉の力

 そしてパウロは次にこのように語ります。「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(17節)。これまで語られた武具はどちらかと言うとすべて自分の身を敵の攻撃から守るものでした。しかし、パウロが最後に語る「霊の剣」は相手を倒すために用いられる攻撃用の武器であると言えます。私たちが悪魔との戦いで相手を倒し、相手にとどめを刺すことができる唯一の武器は「神の言葉」だとパウロは教えているのです。

 かつて悪魔はエデンの園でアダムとエバに対して、この神の言葉を疑わせることで、彼らに罪を犯させました。人間はこれによって堕落し、罪と死の支配の元に生きるものとなったのです。それではこの人間を救い出し、罪と死の支配から解放させるためにやって来られたイエスはどのようにこの悪魔と戦ったのでしょうか。その姿がよく示されているのは、福音書が伝える「荒れ野の誘惑」と呼ばれる物語です(マタイ4章1〜11節)。悪魔はこのときもイエスが神の言葉を疑うようにと仕向けました。しかし、イエスはこのとき悪魔の仕掛けた三つの誘惑にすべて旧約聖書に記されている神の言葉を引用することで戦われたのです(申命8章3節、申命6章16節、申命6章13節)。

 人の言葉は悪魔との戦いでの武器とはなりません。神の言葉こそ悪魔にとどめを刺すことのできる剣となりえるのです。だから私たちはこの霊の剣である「神の言葉」を身に着けて信仰生活を送っていくことが大切なのです。この「神の言葉」は私たちが悪魔の攻撃を受けた時に思い出して、家にとりに帰っても間に合いません。同じように私たちが激しい信仰の戦いの中、試練に出会ったときに慌てて聖書を開いても、その攻撃に対処するためのふさわしいみ言葉を見つけることは簡単にはできないのです。

 私たちが毎日、聖書を読む必要があるのはこのためにです。私が神学生だったときにギリシャ語を教えてくださった韓国人の牧師は新約聖書全文を暗記するという特技を持っていました。だからその先生は「自分が病気になって生死の境をさまよい手術台の上に寝かされていても、聖書の言葉を思い出すことができた」と私たちによく言っていました。そんなことはこの先生にしかできないかも知れません。しかし、私たちにも毎日聖書を読むということできます。たとえその多くの言葉を忘れてしまったとしても、神は必ず私たちためにふさわしい言葉を私たちの心の引き出しに残して、悪魔との戦いに備えさせてくださるからです。

 私たちの住む世界は今、大きな危機に直面しています。その中で多くの人は希望を失っています。世界もそこに住む人々も自分たちの人生も混とんの闇に向かっているような不安を抱き、恐ろしさを感じて生きています。この力に対抗できるのはパウロが語るように神の力以外にはありません。そしてキリストの体である教会はこの世界の中で神の確かな計画を信じて、希望を抱きながら、その神が明らかにしてくださった希望を神の言葉を宣べ伝えることで人々に明らかにする使命が与えられているのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 私たちはこの世における信仰の戦いの中で、迫害や試練に出会うとき、どうしても自分のもっている目を向けてしまことがあります。全能なるあなたの力を信じているはずなのに、いつのまにかあなたの力を私たち人間の持つ力と同じように勘違いしてしまうことがあります。どうか私たちに、あなたの本当の力を示してください。私たちがあなたを心から信頼して、あなたの力に頼ることができるようにしてください。何よりも私たちのために悪魔と戦い勝利してくださった主イエスを覚え、その主が私たちと共にいてくださることをいつも信じて生きることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.このエフェソの信徒への手紙を記したパウロは手紙の最期の部分でどんなことを勧めていますか(10節)。

2.日々の信仰生活の中で自分の弱さを痛感する私たちがこのパウロの言葉のように「強くなれる」としたら、それはどのようにしてですか(10節)。

3.私たちが「神の武具を身に着ける」必要があるのはどうしてですか(11節)。

4.私たちは「悪魔」と聞くと映画に登場するような私たちの生活とは縁遠い存在を考えてしまいますが、パウロはこの悪魔の働きを別の言葉でどのように私たちに紹介していますか(12節)。

5.あなたは日々の信仰生活の中で主の「偉大な力」に信仰の目を向けて、その力を頼ろうしてしていますか。あなたが普段、一番に頼ろうとするものが何かを考えてみましょう。

2020.10.18「神の武具を身につけなさい」