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2020.10.25「霊によって祈りなさい」

エフェソの信徒への手紙6章18〜20節(新P.359)

18 どのような時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

19 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。

20 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。


1.霊の助けによって祈る

①誰が主に依り頼むことができるのか

 今日もパウロの記したエフェソの信徒への手紙から学びたいと思います。神はこの世界と私たちのために天地万物を造られる前から素晴らしい計画を立ててくださいました。そして私たち一人一人はその計画に従って、神の招きを受けて、キリストの体である教会の一員とされたのです。ですから、私たちがこの教会に集められた目的は、神の計画をこの地上に実現させるためであると言うことがわかります。今も神はその計画が実現されるために私たち一人一人の人生を用いてくださっているのです。

 パウロはこの手紙の最後の部分で私たちの信仰の戦いについて語っています。悪魔とその悪魔に従う諸霊、またはこの世の権力は神の計画を阻止して、この世を再び混とんとした闇の状態に戻すために神に対して戦いを挑もうとしています。悪魔は地上でのイエスの生涯の間、彼に戦いを仕掛け続けたように、今もキリストの体である教会とその教会を構成する私たち一人ひとりの人生に向けて攻撃を仕掛けようとするのです。だからパウロは私たちに対してこの悪魔の働きに対抗するために「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(10節)と勧めているのです。

 ところで皆さんはこのパウロの「強くなりなさい」と言う勧め言葉を聞いて、どのような感想を抱くでしょうか。皆さんは自分自身の普段の信仰生活を顧みて、どのようなことを考えるでしょうか。おそらく、皆さんの中には「私は強い」と胸を張っている人はほとんどいないはずです。むしろ、私たちは自分の今までの信仰生活を顧みて、自分がどんなに弱いかを痛感しているのではないでしょうか。なぜなら、毎日曜日、また毎朝、聖書の言葉に励まされて出ていく私たちなのですが、すぐその言葉を忘れてしまい、昨日までと同じような失敗を繰り返しているのが私たちの姿だからです。だから私たちはこのような信仰生活の中で、「どうして自分はこんなに弱いのだろうか」と呟かざるを得ないのです。

 しかし、私たちがここで誤解してはならないことは、聖書は私たちが強くなって誰の助けも必要としないようなスーパーマンになれと教えている訳ではないと言うことです。心理学者のビクトル・フランクルは私たちがみな弱さを持たない完ぺきな人間同士なったら、その世界はとても孤独で寂しい世界になるだろうと語っています。なぜなら、完璧な人間は誰か他の人間の助けを必要とはしないからです。むしろ人間は弱さを持っているからこそ、お互いの助けが必要となるのです。先ほどのパウロの言葉もよく考えてみるとそのことが分かります。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」

 ここでは「主イエスに依り頼み」とまず語られています。それは自分の人生に主イエスの助けを求めると言うことです。それでは誰が主イエスに依り頼もうとするのでしょうか。それは自分の弱さを知っている者たちです。「主イエスが助けてくださらなければ自分の人生はどうにもならない」。自分が完璧だと思っている人間は主に頼ることはできません。ですから、ここで大切なのはまず私たちが一人では何もできない弱い人間であるという事実を認めることです。そしてこの事実を私たちが素直に認めた上で、パウロは「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」とここで私たちに勧めているのです。


②何のための祈りなのか

 パウロは前回の箇所で私たちが強くなるために「神の武具を身に着けなさい」(11、13節)と教えています。そして今日の部分ではさらに私たちに「祈りなさい、願い求めなさい」と勧めています。私たちが悪魔との戦いに勝利するためには神に祈ることが大切であると教えるのです。

 この祈りについても私たちは様々な誤解を持っています。それは祈りを魔術師の呪文のように神の不思議な力を操る道具として考えがちだと言うことです。その点についてある説教者は「祈りとは私たちが神の力を自分に都合よく用いるための方法ではない」と語っています。

 使徒言行録にはユダヤ人の祈祷師たちが登場して、あるときパウロがイエスの御名によって祈ると驚くべき奇跡が起こることを知り、「それなら自分たちもパウロの真似をしてみよう」と考えたことが記録されています。彼らは試しに悪霊にとりつかれた人たちに向かって「パウロが宣べ伝へているイエスによって命じる」と言って見たのです。すると悪霊たちは「イエスやパウロのことはよく知っているが、お前たちは何者だ」と言って、その祈祷師を散々な目にあわせたという結末が使徒言行録に記されています(19章11〜20節)。

 パウロはここで「霊に助けられて祈り、願求めなさい」(17節)と言っています。この「霊」とはイエスが天から遣わしてくださる「聖霊」のことです。それではこの聖霊は何のために私たちを助けるのでしょうか。それは私たちがイエスに従って、イエスに私たちの人生を用いていただけるようにするためです。ですから「祈り」とは私たちの人生が主イエスに用いられるようになるためのものだと言えるのです。祈りは決して私たちが神の力を自由に操るためになるための魔術のようなものではないのです。

 ときどき「祈っても神は自分の祈りに答えてくださらない」と私たちは考えることがあります。ヤコブの手紙はこんな悩みを持つ人に「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(4章3節)と厳しい言葉を語っています。ですから、私たちが心から主に従おうと決意し、祈るなら、主イエスが私たちの人生に働いてくださり、神の御心に従う人生へと私たちを変えてくださると聖書は教えているのです。


2.すべての聖徒のために祈る

①誰のために祈るのか

 興味深いことは、パウロはこの箇所で「すべての聖なる者たちのため」に「神に祈り、願うこと」を述べていることです。確かに私たちは「自分のために祈りなさい」とあえて教えてもらわなくても大丈夫なほど、終始自分自身に関心を抱いて生きています。しかし、パウロはここで自分ではなく「すべての聖徒たちのために」祈りなさいと教えているのです。その理由は二つ考えることができます。なぜなら、私たちの主イエスは私たちのことを私たち以上にご存じであって、私たちを助けてくださるからです。だから、イエスが私たちの人生を面倒見てくださるのですから、私たちは自分のためではなくて、他の人々のためのことを考え、彼らのために祈ることができるのです。もう一つの理由はここに「聖なる者たち」と言われているように、私たちが祈るべき人々はキリストの体である教会に集められた人々であると言うことです。つまり「聖なる者たち」は私と主イエスへの信仰を通して一体にされている人々だと言うことができるのです。だから「聖なる者たちのために祈る」とは私のために祈ることとも言ってもよいのです。パウロは「すべての聖なる者」のために祈りなさいと語ります。つまり、私たちの祈りの対象は東川口教会や日本基督改革派教会と言う枠組みを超えて、全世界の人々にまで広げられているのです。主イエスのために生きようと願う人々のために私たちは祈ることが大切だとパウロは教えているのです。


②祈りの素晴らしい働き

 私はときどき人に対して「祈ることしかできません」と申し訳なさそうに語る人の言葉を聞くことがあります。「本当ならもっといろいろなことをして助けてあげたいのだが、今はそれができない」と言う意味でこの言葉は語れているのかもしれません。しかし、私はこのような言葉を人から聞くときに、何かどことなく違和感を抱いてしまうのです。

 確かに困っている人、苦しんでいる人に私たちが具体的に手を差し伸べることは大切です。そして神も私たちができることを、その人たちにすることを望んでおられます。しかし、その中でも祈ることは一番重要なことなのではないでしょうか。なぜなら、私たちの援助は一時的で限界のあるものにすぎません。しかし、祈りは違います。神が私たちの祈りに答えて、その人を助けて続けてくださるようになるからです。

 よくお話しているのですが、ラザロ霊園の教会墓地に行くとき、私は同じ霊園内の私の母教会の墓地の前を通ります。そこに立てられている墓誌には私の知っている人たちの名前がたくさん並んでいます。この墓誌名を見ると私が神学校に入学して、牧師になろうとしていたときに、そこに名前が記されている人たちは私のために熱心に祈り続けてくださったことを思い出すのです。そして自分が今、牧師を続けられるのはこの兄弟姉妹たちが祈りが今かなえられているからだと改めて感じるのです。

 私たちのささげる祈りは、私たちがたとえこの地上の生涯を終えてしまったとしても無くなってしまうものではありません。神が私たちの祈りに答え続けてくださるからです。まさに私たちは祈りを通して、この地上に大切な信仰の遺産を残していくことができるのです。ある説教者は「神は私たちの人生の最後に大切な仕事を残してくださった」と語ったと言います。人間の肉体の機能は日々と衰えていきます。しかし、その説教者は「私たちに最後までできることがある、それが祈りだ」と教えているのです。パウロは「すべての聖徒たちのために祈る」ことを教えます。なぜなら、この祈りの奉仕は年老いた者も、病のゆえに体を自由に動かすことができない者でも可能なことだからです。


3.目を覚まして神のために生きる

 ここで日本語の聖書を読んでいて、少し考えさせられたことがあるのでそれをお話します。それはパウロが「すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」と語っているところです。私たちが今読んでいる新共同訳では、私たちが根気よく祈り続けるために「絶えず目を覚ましていなさい」と教えているように翻訳されています。ところが、たとえば日本のカトリック教会が作ったフランシスコ会訳聖書はこの文章を違った形で翻訳しています。

「そのためにも、聖なる人々のために根気強く祈りつつ、目を覚ましていなさい。」

 読んでみてわかるように、このフランシスコ会訳では「目を覚ましてさましていなさい」と言うのがパウロの勧めの目的になっていて、そのために根気強く祈り続けることが大切だと言っているような翻訳になっています。そして東京恩寵教会の前牧師の榊原先生の書いた注解書ではこのフランシスコ会訳の方が原文の意味に近いと言っています。

 聖書はいつも私たちに「目をさましていなさい」と教えています。なぜなら、主イエスがこの地上に再びやって来て、この世界を裁かれるときがいつ来るから私たちにはわからないからです。だからその終末の日に備えるために「目を覚ましていなさい」と聖書は教えているのです。

 だから私たちにとって「祈ること」は私たちが私たちの人生にとって大切なときを見逃すことなく、その日に備えるために大切なことだと言うことをパウロは教えていることになります。「祈りの世界」と言う祈りについて本を記したハレスビーと言う人はその本の中で、私たちが祈ると言うことは私たちの心の扉を開いて、主イエスを私たちの心の中にお迎えすることだと教えています。ですから私たちが祈るとき、無力な私たちの内側にイエスが入ってきてくださり、私たちの日々の信仰生活を助け導いてくださるのです。

 かつてイエスの弟子たちはイエスが十字架にかかられる直前にゲッセマネの園で祈りをささげようといたときに、その傍らで眠り込んでしまったということが福音書には記されています(マルコ14章32〜42節)。おそらくペトロたちもこの時、眠ろうと思って眠ったわけではないのだと思います。しかし、彼らの力ではこんな大切なときにも起きていることはできなかったことを聖書は報告しているのです。

 ペトロたちと同じように私たちも弱さを持った人間でしかありません。大切な時を前にして、どんなにがんばっても眠り込んでしまうような私たちなのです。しかし、復活されたイエスはそんな私たちのために天に昇ってくださいました。そして今、私たちに天から聖霊を送ってくださり、私たちの信仰生活を助けてくださるのです。ですから、私たちが祈りによって心の扉を開くときイエスは聖霊を通して私たちのところに入ってくださり、私たちを助けてくださるのです。私たちが大切な時のために備えて、目覚めて信仰生活を送ることができるのは、このイエスの助けによるものなのです。だから私たちは何よりもこのイエスの助けを求めて祈り続ける必要があります。

 祈りは私たちが神を自分の都合のいいように動かす方法ではありません。祈りは神が私たちを御心のままに用いてくださるために、そのために私たちが生きることができるようにと与えてくださったものなのです。だからパウロは最後に「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(19〜20節)と言っています。パウロは自分の人生を使って伝道者としての使命を果たすことが自分にとってもっとも大切なことを知っていました。そして自分が神の御心に従って生きることが自分の人生に本当の生きる目的と喜びを与えるものだと言うことを知っていたのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロはエフェソ教会の信徒たちに「どのようなときにも」何をすることを勧めていますか(18節)。

2.パウロがここで語った。「"霊"に助けられて祈り、願い求め(なさい)」という言葉を通して、私たちは祈りについてどんなことを学ぶことができますか。(18節)

3.パウロは私たちが誰のために「絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」と勧めていますか(18節)。

4.パウロはエフェソ教会の信徒たちが自分のためにどんな祈りをささげてくれることを望んでいましたか(19節)。

5.パウロはこの手紙を書いたときローマの獄中にあったと考えらえています。この手紙の言葉からパウロは獄中にありながらも、自分の人生を何のために使いたいと考えていたことがわかりますか(20節)

2020.10.25「霊によって祈りなさい」