2020.10.4「私たちの戦い」
エフェソの信徒への手紙6章10〜20節
10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
18 どのような時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
19 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
20 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
1.エフェソ教会の信徒たちと私たちの信仰生活
中世時代にキリスト教会で活躍した偉大な神学者であるトマス・アキナスにはその非凡な才能を示すようないろいろな逸話が残されています。その中で彼にまつわるこんなお話があります。あるとき彼がカトリック教会のトップであるローマ教皇の元を訪ねた時の話です。そのとき教皇はちょうど自分の執務室で教会に集められた多額の金銭を数えていたところでした。そのとき教皇はトマスを見てこう語りかけたというのです。「トマス君、今の教会は昔のように「金銀は私にない」とは言えないね…」。このお話の背景には使徒言行録の3章に記された聖書の物語があります。当時、エルサレムの神殿の前でそこに来る参拝客目当てに物乞いをしていた一人の足の不自由な人がいました。そこにペトロがやってきて物乞いをする彼に向って「わたしには金や銀はない」と語ったと言うのです。しかし、ペトロはこの言葉に続いて「わたしが持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語りました。すると足が不自由で歩くことができなかった人が立ち上がり歩き始めたというのです。教皇はトマスに向かって「今の教会は昔と違って豊かになった」と言いたかったのでしょう。ところがトマスはすぐに「教皇様、私たちはペトロの語った後半部分の言葉も今は言えなくなっているのかもしれません…」と答えたと言うのです。トマスはこの世で巨額の富を得た教会は、それとは逆に霊的な力を失ってしまっていると言うことをローマ教皇に警告したのでしょう。
私たちが聖書を読んでいて誤解してはならない点は、この手紙がパウロによって書かれた時代、キリスト教会に集まる人はまだごく一握りの人で、この世から見れば当時のキリスト教会は小さく貧しい群れでしかなかったと言うことです。この手紙の受け取り手であったエフェソ教会の人々が住んでいた町は、アルテミスという女神を祭る神殿を中心とした「門前町」として栄えていました。町の住人たちはみな、何らかの形でこのアルテミス信仰に関わって生活をしている人が大半だったのです。だから、その町でキリスト教信仰をもって生きるということは並大抵のことではなかったと言うことができます。それを考えるとエフェソの教会員が信仰のゆえに遭遇していた様々な試練は、案外、この日本の社会の中で少数者として生きている私たちと同じものであったのかも知れません。そのような意味でこの手紙の中でパウロの語るアドバイスは私たちの信仰生活にも重要な意味を持つものであると考えて良いと思うのです。
2.なぜ強くなる必要があるのか
①迫害される信仰者
「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(10節)
しばらく学んで来たこのエフェソの信徒への手紙もここから終わりの部分に入っていきます。神の計画によってこの世に立てられたキリストの体である教会、その教会の一員とされた私たちはどのように生きるべきなのかを語り続けて来たパウロはこの最後の部分で、私たちに「強くなりなさい」と勧めています。
それでは私たちはなぜ強くなければならないのでしょうか。それは敵と戦うためです。私たちの信仰生活はまだ私たちがこの世にとどまる限り完成していません。ですから、この世で私たちが信仰をもって生きようとするとき、私たちは信仰の戦いを経験しなければならないのです。実際にエフェソの信徒たちも戦う必要がありました。なぜなら、この世の強大な力が彼らの信仰を絶えず攻撃していたからです。この攻撃は教会の外からは迫害として、また内側では試練としてエフェソの人々に襲い掛かりました。
この世は自分たちの利害に反して生きようとする人々を容赦なく攻撃します。NHKの連続テレビドラマの『エール』では現在ちょうど、戦争中の日本が舞台となって描かれています。エールの主人公の奥さんの実家は敬虔なキリスト教徒で、特高警察の監視対象となり、「非国民」と呼ばれるような境遇の中で苦しんでいるところが物語に登場していました。日本でもかつて、たくさんの牧師が捕らえられ、信徒が教会で自由に礼拝をささげることができないときがありました。これは戦争中の話ですが、現在でもこの世の力はその価値観に合わないと判断すれば私たちの信仰を攻撃して来る可能性があるのです。
②全能の神の力に頼る信仰
また、現在でもこの世の価値観は私たち自身の生活にも様々な影響を与えています。そしてむしろこの世で都合よく生活しようとするならば、私たちは信仰よりもこの世の価値観に従って生きた方が便利であるとも考えられるのです。しかし、パウロはこの手紙の中でもこの世の価値観は結局、偶像崇拝の原理に立っていると説明し、信仰者はその原理に従ってはならないと教えています。この偶像崇拝とは何らかの像を人間が作ってそれを拝む行為だけを言うのではありません。偶像崇拝は神ならぬものを神とするという人間の誤った姿を表すものだからです。この世は神ならぬものを神とした上で、私たちにも同じ原理に従って生きることを求めてくるのです。その中で真の神だけを拝み、その神を第一として生きる信仰生活を送ることは決して容易なことではありませんし、私たちの心の内でも外でも激しい戦いが必要となるのです。だからパウロはその戦いのために私たちに「強くなりなさい」と教えているのです。
しかし「強くなりなさい」といくら言われても私たちは本当に強くなることができるのでしょうか…。むしろ、私たちは日々の信仰生活の中で自分の弱さを感じることがあるのではないでしょうか。私たちは自分の信仰生活の中で手痛い失敗を繰り返して「自分はなんて弱いのだ」と痛感することがあるはずです。しかし、パウロはむしろ私たちに「自分の弱さをよく知っている者は強くなれる」と教えているのです。なぜなら、私たちが強くなるということは神の偉大な力によることだからです。だから、そのために私たちは神に信頼する必要があるのです。
ここでパウロは「その偉大な力によって強くなりなさい」と語っています。この言葉は「全能の力によって」と言う意味を持つものです。私たちが自分の有限な力に頼っている限りは、私たちは信仰の戦いの中で負け続けなければなりません。しかし、私たちの信じる真の神は、「全能の力」を持っておられる方なのです。だからもし、私たちがこの神の御心を求めて生きるならば、この神の全能の力が私たちを通して働かれるのです。そしてパウロは私たちがこの主なる神に頼って生きるならば、私たちは強くなり、戦いに勝利することができると教えているのです。
3.私たちの敵の本当の正体
「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(11〜12節)
もし私たちの戦う相手が私たちと同じような人間であるとすれば、私たちの持つ力でも勝負することができるかもしれません。しかし、そんな人間の力ではどうにも太刀打ちできない理由がここで明らかにされています。なぜならば、私たちの戦いの相手は「血肉」、つまり私たちと同じような人間ではないからです。私たちが本当に戦わなければならない相手は「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」つまり「悪魔」であるとパウロはここで説明しています。
私たちは「悪魔」と聞くとオカルト映画に描かれるような気味の悪い現象を引き起こす存在を連想するかも知れません。そしておそらく現代人の多くは悪魔の存在をオカルト映画の登場人物の一人として考えても、それが実際に実在する存在だとは考えていないのかもしれません。確かに、私たちは古い西洋の伝説が描くような悪魔の姿を信じる必要はないと思います。しかし、私たちは悪魔と言う存在で象徴的にあらわされる悪の力が実際の私たちの生活の中に存在することを体験して気づいているはずです。この悪魔の働きは私たちを神にから引き離すことが目的です。悪魔は私たちを罪と死の力でがんじがらめに縛り、私たちから神に従う自由を奪うのです。
重ねて言えば、なぜパウロがここで「悪魔」の力を口に出したのかと言えば、私たちの信仰の戦いの相手が、私たちの力では決して太刀打ちできない相手であることを私たちに悟らせるためです。そして私たちが自分の力に頼るのではなく、主なる神に信頼して、その全能の力によって信仰の戦いを戦い抜く決心をするためです。だから私たちは敵の正体を見誤ってはなりませんし、私たちのために戦ってくださる神の全能の力を忘れてもならないのです。
4.勝利者キリスト
「悪魔」と言う言葉を読んで、私は19世紀にドイツで活躍したブルームハルトと言う牧師にまつわるお話を思い出しました。このブルームハルトは若くしてある小さな村の教会の牧師として赴任しました。当初、この若い牧師は素朴だが面白みのない説教をすると村の人々から考えられていて、注目の対象となる存在ではありませんでした。ところがそのブルームハルト牧師が担当する教区の中である不思議な怪事件が起こりました。村に住む一人の女性の生活に不思議な出来事が起こり始めたと言うのです。彼女は突然倒れては、驚くべき力で暴れまわります。そんなとき彼女の語る声は彼女の声とは違って悪魔が語るように聞こえたと言います。不思議な出来事は彼女の身に起こったものばかりではありませんでした。やがて彼女の家じゅうで家具がひとりでに動き出したり、異常な音が連続して起こるような怪現象が起こり始めたのです。牧師であったブルームハルトは医師たちとともにこの問題に解決させようと努力しました。しかし、医学の力も、ブルームハルトが牧師として身に着けた神学の知識も何の役にも立ちません。それどころか問題は日に日に深刻となり、それが二年間も続いたと言うのです。
ブルームハルトが何もできないままこの問題にかかわり続けて二年後のクリスマスの時期のことでした。今まででもっとも困難な出来事が起こりました。なんと彼女と同居していた兄姉にも同じような現象が起こり始めたのです。特にその女性の姉を襲った現象は今までで最も深刻なものであったと言われます。ところがその姉は意識を失って暴れる中で突然、「イエスは勝利者」だという言葉を何度か語りました。すると、その言葉の後、彼女の麻痺は少しづつ解けてきて、彼女は正常な状態に戻ったのです。それだけではありません。「イエスは勝利者だ」と言う言葉がその姉の口から語られた後、その一家を苦しめてきた問題はすべてなくなって行ったというのです。
私たちはこのような物語を聞くと、悪魔の不思議な力やその恐ろしさにだけ関心が向けられる傾向があるかも知れません。しかし、この体験を実際にしたブルームハルトがそこから学んだものは「イエスは勝利者だ」と言う真理でした。そしてこの真理が牧師としてのブルームハルトの生涯の活動を支え続けたと言うのです。
ヨハネによる福音書には次のようなイエスの言葉が残されています。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16章33節)
またヨハネの黙示録には主イエス・キリストと悪魔との戦いの記録が詳細に記されています。そしてヨハネが見た幻の中で、やがて起こるこの戦いの最期をヨハネは先取りして見ることが許されています。その戦いの最期はイエスの言葉の通りに彼の圧倒的勝利に終わります。そして悪魔は「火と硫黄の池に投げ込まれ」て最期を迎えるのです(20章10節)。
私たちは日々の信仰の戦いの中で何に頼りしているのでしょうか。何に目を向けているのでしょうか。それは有限な私たちの力でしょうか。その力では悪魔の力に私たちは勝利することはできません。しかし、そんな私たちでも強くなることができるのです。それは「勝利者イエス・キリスト」を信頼し、その力に頼って生きることによってです。すでに、キリストは私たちのためにこの悪魔に勝利してくださっています。だから悪魔が支配しているこの世にもイエスは必ず勝利してくださるのです。
私たちもこのイエスに信頼して、この世の圧倒的な力の前で、たとえ自分は何も持っていなくても、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と堂々と語ったペトロと同じように、主イエスを頼る信仰をもって生きて行きたいと思います。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
私たちはこの世における信仰の戦いの中で、迫害や試練に出会うとき、どうしても自分のもっている目を向けてしまことがあります。全能なるあなたの力を信じているはずなのに、いつのまにかあなたの力を私たち人間の持つ力と同じように勘違いしてしまうことがあります。どうか私たちに、あなたの本当の力を示してください。私たちがあなたを心から信頼して、あなたの力に頼ることができるようにしてください。何よりも私たちのために悪魔と戦い勝利してくださった主イエスを覚え、その主が私たちと共にいてくださることをいつも信じて生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.このエフェソの信徒への手紙を記したパウロは手紙の最期の部分でどんなことを勧めていますか(10節)。
2.日々の信仰生活の中で自分の弱さを痛感する私たちがこのパウロの言葉のように「強くなれる」としたら、それはどのようにしてですか(10節)。
3.私たちが「神の武具を身に着ける」必要があるのはどうしてですか(11節)。
4.私たちは「悪魔」と聞くと映画に登場するような私たちの生活とは縁遠い存在を考えてしまいますが、パウロはこの悪魔の働きを別の言葉でどのように私たちに紹介していますか(12節)。
5.あなたは日々の信仰生活の中で主の「偉大な力」に信仰の目を向けて、その力を頼ろうしてしていますか。あなたが普段、一番に頼ろうとするものが何かを考えてみましょう。