2020.11.1「主イエスを愛する人」
エフェソの信徒への手紙6章21〜24節(新P.360)
21 わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。
22 彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。
23 平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。
24 恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。
1.パウロは聖人ではない
①人間を礼拝してはならない
いつも改革派教会が発行している「リジョイス誌」をご覧になっておられる方はお分かりだと思いまさすが、先週一週間に渡ってリジョイス誌では宗教改革者マルチン・ルターの生涯が取り上げられていました。おそらくこれは、昨日の10月31日が宗教改革記念日となっているからだと思います。この宗教改革記念日はルターが当時のカトリック教会の教えに対して「95か条の提題」を作り、ヴィッテンベルグ城教会の扉に貼りだしたことを記念するものです。だからこの宗教改革に起源をもつ私たちプロテスタント教会はこの日を大切にして守り続けているのです。 明けて今日の11月1日はカトリック教会では昔から「聖人の日」を祝うならわしになっています。カトリック教会は昔から特別に徳を積んだ信仰者を「聖人」として崇める習慣がありました。この聖人たちが世に残していった徳を教会は銀行のように預かっていて、それを自由に信徒たちに分け与えることができると主張したのです。そのような解釈から「贖宥状」と言うものが当時の教会から売り出されました。そしてそれを購入した者たちは煉獄の苦しみから逃れて天国にすぐに行けるとカトリック教会は教えたのです。ルターは聖書の教えに基づいてこのようなカトリック教会の主張が間違いであることを訴えたのです。
このカトリック教会が考えている聖人の中には当然、今私たちが学んでいるエフェソの信徒への手紙を書いたパウロも含まれています。しかしもし、パウロが実際に今、生きていたとしたら自分が聖人として崇められ、礼拝の対象にまでされていることをどう思ったことでしょうか。おそらく、パウロは「そんなことは決してしてほしくない」と言ったはずです。なぜなら、パウロはこのような人間の誤りを聖書の中で厳しく禁じているからです。
使徒言行録の14章にはリストラという町に伝道旅行で訪れたパウロの物語が記されています。この町でパウロは足が不自由な人を癒し、その人を歩けるようにするという奇跡を行いました。そしてこの出来事を目撃した町の人々はパウロとその同行者であったバルナバを「神々の化身」として崇め、彼らを礼拝しようとしたのです。その時パウロは「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」(15節)と語りました。パウロはこのとき人々に真の神だけを礼拝し、その神だけに頼ることを勧めたのです。ですからパウロの言葉に耳を傾ける者はパウロを聖人として礼拝するのではなく、パウロが伝えようとしたイエス・キリストを礼拝するようにされるのです。
②恵みによって使徒の勤めを果たしたパウロ
ご存じのようにパウロは使徒として命がけで福音を宣べ伝え、そのために殉教の死を遂げたとされています。ですから、パウロは今でも多くのキリスト者の尊敬の的となっているのです。しかし、そのパウロは使徒としての自分の働きを振り返って次のような言葉をコリントの信徒への手紙一の中で語っています。
「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(15章10節)。
このパウロの言葉を読めばわかるように、彼は自分の力や能力で人より信仰者として徳を積むことができたとは決して思っていなかったことが分かります。むしろ、自分が使徒として熱心に働くことができたのは神の恵みによるものであると語っているのです。パウロの伝道の業のすべては神がパウロを通して働いてくださったから実現したものなのです。ですから聖人崇拝はこの神の恵みを蔑ろにして、人の業を褒めたたえるものと言えます。そのため神の恵みを信じる宗教改革者たちはパウロのこの言葉に基づいて、パウロを褒めたたえるのではなく、神を褒めたたえようとしたのです。だからその教えを受け継ぐ私たちプロテスタント教会の信徒は「聖人」と言う特別な存在を決して受け入れることができないのです。そのため私たちのプロテスタント教会の多くは11月1日を「召天記念日」と呼んで、キリストを信じて天に召されていったすべてのキリスト者を記念する日としているのです。
2.パウロの働きを支えた神の恵み
それではパウロは伝道者として神からどのような恵みを受けてその使命を果たすことができたのでしょうか。エフェソの信徒への手紙はその最後の部分で、彼の協力者の名前をあげています。なぜなら、パウロの伝道者としての働きは名前が聖書に残されている人や、残されていない人も含めてたくさんの協力者たちの働きによって支えられていたからです。また、さらにその上で大切なことはパウロの働きは各地のキリスト教会に集う兄弟姉妹の熱い祈りに支えられていたということです。このようにパウロのために協力者を与え、パウロのために祈る人々を与えてくださったこともすべて神の恵みであると言えるのです。
パウロはここでティキコと言う一人の人物の名前を上げています。彼の名前は同じくパウロの記したコロサイの信徒への手紙の中にも登場しています(3章7節)。また使徒言行録ではパウロの伝道旅行に同行していた人々の一人としてその名前が紹介されています(20章4節)。この使徒言行録ではティキコはアジア州出身の人物であったことが分かります。このアジア州は現在のトルコを指し示す名称ですから、エフェソやコロサイという都市はこのアジア州にあったので、ティキコはこの手紙の受取人たちとも知り合いであった可能性があると考えらえれています。
このティキコがエフェソに遣わされる目的をパウロはここで二つ上げられています。第一は現在、ローマで囚われの身となっているパウロの近況をエフェソの教会の人々に伝えると言う目的です。おそらくティキコはこの手紙には書くことのできないパウロについての詳しい近況を知っていたはずです。ティキコはそのパウロの詳しい近況を教会の人々に伝えたのです。それではこのパウロの近況をティキコから聞いた教会の人々はどうしたのでしょうか。彼らはパウロのために熱心に祈りました。先日も学びましたようにパウロは獄中にありながらも、自分が大胆に福音を宣べ伝えることができるように祈ってほしいとこの手紙の中で述べていています(19節)。獄中のパウロがどのようにして福音を人々に伝えることができていたのでしょうか。その細かい理由についてティキコは教会の人々に説明することができたのだと思います。
かつて、この教会で奉仕してくださったヤング宣教師一家はホームサービスと言って定期的にアメリカに帰ることがありました。これは先生一家がアメリカで休暇を取るという意味ではなく、アメリカの教会の人々に日本伝道の様子を詳しく伝える働きをするためのものでした。ですから聞くところによればホームサービスのために帰る宣教師は日本にいるときよりもアメリカで忙しい日々と送ることになるそうです。ティキコはパウロに代わって彼の宣教報告をするためにエフェソに向かったと言えるのです。
さてティキコがパウロの元から遣わされる目的はもう一つありました。それは彼によってエフェソの教会の人々が励ましを得るためであるとパウロは手紙の中で言っています。この励ましは福音によって与えられる神からの励ましを表しています。つまり、ティキコもパウロと同じのように福音を人々に語る伝道者としての使命を負っていたのです。彼はパウロから自らも聞くことができたキリストについての純粋な福音を人々に伝えることで彼らを励ますことができたのです。このようにパウロの伝道者としての働きはたくさんの人々の働きや祈りに支えられていました。だから、パウロはこの神からの恵みによって伝道者として生きることができたのです。
私たちは自分の働きを自分一人と言う狭い範囲でとらえて評価していないでしょうか。そうなると私たちは「自分の働きは失敗しだった」とか、「自分の働きは中途半端で終わってしまった」と判断することしかできません。しかし、私たちは神によって用いられるたくさんの同労者の一人として今ここにいるのです。一人の人が福音を受け入れるために神はたくさんの人々を送ってくださるのです。だから今まで主のために熱心に福音を伝えた人の働きを受け継ぐことで、私たちの働きが可能となります。そして私たちの働きを次に受け継いでくれる人を神は準備しておられるのです。ですから私たちの働きは失敗したのではなく、次の人に受け継がれているのです。だから私たちは勝手な判断をしないで自分に今、できることを主のためにしていきたいのです。主は私たちの働きを引き継ぐ人々を必ず立てて、この福音伝道の業を完成させてくださるからです。
3.祝福の宣言
さて、パウロはいよいよこの手紙の最後の部分になってエフェソの信徒たちのために祝福の言葉を記しています。
「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。」(23節)。
毎日曜日の礼拝では最後に必ず「祝祷」というプログラムが入っています。この祝祷は文字から考えると祝福の祈りとなるわけですが、祝祷は厳密に言えば祈りではありません。ご存じのように祈りは私たち人間が神に向かってささげるものです。しかし、この祝祷はむしろ神から私たちに人間、特に礼拝に集まった者たちに語られる言葉なのです。ですから、正確に言えばこの言葉は「祝福の宣言」と言ってよいものです。
この祝福の宣言で最も有名なものは主イエスが語ってくださった「幸いについての宣言」です。これはマタイによる福音書の5章から始まる主イエスの「山上の説教」の冒頭に記されています。ここで、イエスは「何々の人は幸いである」と言うような言葉を繰り返し人々に語っています。この言葉を私たちは誤解してしまうことがよくあります。それはこの言葉を「私たちがどのようにすれば幸せになれるのか」という、幸せになるための方法を教えていると勘違いすることです。実はこのイエスの言葉は幸せになりたい人に向かって、どうすればよいのかと言いう「How to」を教えているものではありません。この言葉はイエスによってイエスの言葉に耳を傾けている人々に向かって「あなたたちは幸せだ」と言う事実を宣言する言葉になっているのです。
このとき、イエスの周りに集まった人々の多くは実際には貧しくてその日の食物にもありつけないような人々でした。深刻な病や人生の問題を背負って、「なんとかイエスに癒してほしい」と求めて集まってきた人たちのです。イエスにそのような人々に対してこの祝福の宣言を語られたのです。なぜなら、今、主イエス・キリストによって神の約束が完全に彼らの上に実現されようとしているからです。
このように「祝福の宣言」つまり、「祝祷」は私たちの上に神の約束が実現していることを告げ知らせる言葉なのです。実際に平和と信仰に伴う愛が、すでに私たちに父である神と主イエスから与えられているとパウロは語っているのです。この平和は教会の一致によって実現するものです。そしてこの教会の一致は私たち一人一人の信仰にともなう愛によって現実のものとなるのです。この地上の教会には絶えず様々な問題が生じて、絶えずその一致が危ぶまれることがあります。そのとき、私たちは「教会もしょせん人間の集まりに過ぎない、だから一致するなど難しい」とあきらめてしまえば、私たちはこの祝福の宣言に背を向けてしまうことになります。
ですから私たちはたとえ教会が今、困難な状況に直面していても、神の約束を信じて、必ず神が教会を一致させてくださることを信じていきたいと思うのです。この神の約束を信じる者はたとえ失敗を繰り返しても、そのたびに立ち上がることができます。「自分には人を愛することできない」と簡単にあきらめてしまうのではなく、神を信じて自分にできる愛の業を行い続けることができるようになるのです。
祝福の宣言の保証は私たちの側にあるのではありません。この言葉を宣言してくださる神が、必ずこの言葉の通りにしてくださるのです。だから私たちはこの祝福の宣言によってどんなときも勇気と希望をいただいて新たな人生の旅路へと出発することができるのです。
4.キリストの変わることのない愛
このエフェソの手紙で記されているパウロの祝福の宣言は二重構造のようなものになっています。なぜなら、パウロは平和と信仰に伴う愛が父なる神と主イエスから兄弟たちにあるようにと語ったあとに続けて、「恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように」(24節)とまた語っているからです。
パウロは私たちが神からいただく恵みの根拠は「変わらぬ愛」つまり主イエスの私たちに対する愛にあると教えています。この真理を私たちは心に刻む必要があります。もし、この根拠が私たちの側にあるとしたらどうでしょうか。私の努力や頑張りで、神からの恵みが与えられるとしたら、これほど不確かなものはなくなります。なぜなら、私たちの努力も頑張りも変わってしまうものだからです。そもそも「恵み」が私たちの努力や頑張りによって与えられるものであるなら、それを「恵み」と呼ぶのは不適当です。なぜなら、私たちの努力や頑張りに応じて与えられるものは「報酬」であって、決して「恵み」とは言えないからです。「恵み」は私たちの側の持っている条件に一切関係なく、神からの一方的な好意によって私たちに与えられるものを言うのです。だから私たちが今までどんな者であったとしても、またこれからどんな者になったとしても私たちに与えられたこの「恵み」は変わらないのです。
私たちは自分の人生を確かにさせる根拠をどこに求めているでしょうか。その根拠を自分自身や、神ならぬこの世のものに置こうとする人は、必ず裏切られてしまいます。しかし、私たちに対する主イエスの愛はいつまでも変わることがないのです。この愛に自分の人生の根拠を置く者は、主イエスから恵みをいただき、そのイエスを愛する者として信仰生活を続けていくことができるのです。
神はすでにこの祝福の宣言を私たちにしてくださっているのです。ですから私たちはこの祝福の宣言を受け入れて、これからも信仰生活を送っていきたいと思います。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.パウロはこの時、自分の様子を知らせるためにどのような人をエフェソ教会に送ろうとしていましたか。パウロの言葉によれはその人はどのような人物であったことが分かりますか(21節)。
2.パウロがこの人物をエフェソ教会に送ろうとした目的はどこにありましたか(22節)。
3.パウロはこの手紙の最後にどのような言葉を語っていますか。この言葉はそれを聞く人々にとってどのような意味を表すものだと考えることができますか(23〜24節)。
4.あなたがこの手紙の受取人だとしたら、あなたはパウロのためにどのような祈りをささげたと思いますか。もし、あなたがパウロのような立場に立たされていたなら、教会の兄弟姉妹にどのように祈ってほしいと願いますか。