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2020.11.15「時が迫っている」

ヨハネの黙示録1章1〜8節(新P.452)

1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。

2 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。

3 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。

4 ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、

5 また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、

6 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

7 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」


1.難解だが人気のある書物、黙示録

①黙示文学とそこに使われる象徴的な言葉

 今日からヨハネの黙示録を皆さんとともに学びたいと思います。このヨハネの黙示録を教会の礼拝でお話ししようとして何年も前から参考書を買い求めて、すでに手元には何冊もの本が集まりました。しかし、実際にこの書物をお話ししようとすると私には「まだまだ準備不足」と言う思いがあったのか、今日まで至ってしまいました。おそらく皆さんの中にも私と同じように感じる方もおられると思いますが、このヨハネの黙示録は人に大変に興味を抱かせる書物でありながら、その反面では難解で取り組むことに躊躇してしまう書物であると言えるのです。

 この黙示録の難解さを特徴づけるのは「黙示文学」と呼ばれる特有の文学様式をこの書物が採用していることです。実はこの「黙示文学」の形式をとった書物は旧約聖書の中にも存在しています。その代表的な書物が皆さんもよくご存知のダニエル書です。黙示文学の特徴は「象徴」と言って、誰かの解説がなければわからない言葉がたくさん使われているところにあります。実はこのヨハネの黙示録がこのような象徴的な言葉を頻繁に用いて記されたことには理由があると考えられています。なぜなら、この黙示録を読み進めていく中で、これからも何度も触れると思いますが、この黙示録はキリスト教徒への激しい迫害が続いていた時代に記されたものだからです。

 今でも、独裁者が君臨するような国では公に政府を批判することはタブー視されています。なぜなら、もし誰かが政府を批判したことが分かればその人はすぐに独裁者の命令によって処分されてしまうからです。ヨハネの黙示録の書かれた時代もこれと同じようなことがありました。当時のローマ皇帝はドミティアヌスと言って独裁者として有名な人物でした。そしてこの皇帝はキリスト教徒を目の敵と考え、信徒たちを激しく弾圧したのです。このような中でキリスト者たちは自分たちだけが分かる言葉、つまり暗号のような言葉を使ってお互いの意思を伝達しようとしたのです。その暗号がヨハネの黙示録に使われている数々の「象徴」的な言葉です。だから、おそらくヨハネの黙示録はそれが書かれた時代のキリスト者には解説なしでもよく理解できたと考えられています。なぜなら、彼らはそれぞれの象徴的言葉が何を表しているかをよく知っていたからです。しかし、この象徴的な言葉を理解する人は時代が経つとともにいなくなっていきました。ですから今はこのヨハネの黙示録が使っている数々の象徴的な言葉が一体何を意味しているのか分からなくなってしまったのです。どんなに研究してもその言葉の意味は推測の範囲を超えることができないことがこの黙示録の難しさを示しているのです。


②都合よく解釈する人々の誤り

 ヨハネの黙示録が問題となるのはこの象徴的な言葉を本来の意味から離れて、自分の立場から勝手に読み込もうとする人が教会の歴史の中でたびたび現れたことです。彼らはこの黙示録を自分たちに都合のいいように勝手に解釈し、人々の心を惑わそうとしたのです。最近でも家に個別訪問をしてくる「エホバの証人」と呼ばれるグループの人々はこの黙示録の言葉を勝手に解釈して、独特な終末論を教え回っています。また、少し前に事件を起こして有名になったオーム真理教と言うグループもこの黙示録の言葉を都合よく利用しました。彼らはこの黙示録に登場する「ハルマゲドン」(16章16節)と言う言葉を使って独特の終末論を主張し、人々の心を迷わせ、遂にはたくさんの人々の命まで奪うこととなりました。

 この黙示録はある意味で世間の人々に最も関心を持たれている書物と言っていいかも知れません。聖書の他の書物には関心がなくても、この黙示録にだけは異常に関心を抱くと言う人もいるのです。なぜなら、そのような人はこのヨハネの黙示録を未来の出来事を予言する書物と考えているからです。だから自分たちの未来に不安を感じる人々はこのヨハネの黙示録の中から、これから何が起こるのかと言う未来の出来事を知ろうとするのです。


2.礼拝の中で読まれるべき書物

 ある意味でこのヨハネの黙示録は本来の読み方とは違った読み方をされ続けている不幸な書物だと言うことができるかもしれません。もし、この書物を実際に書いたヨハネがこのように黙示録を自分たちに都合よく解釈する人々のことを知ったら、「私はそのような意味でこの書物を書いた訳ではない」と抗議の声を上げるはずなのです。

 この書物はキリストから天使たちを通してヨハネに伝えられた言葉を記したものだと言うことが最初から記されています(1節)。そしてこの書物を書いたヨハネは「神の言葉とイエス・キリスト」を証しする者と言う自己紹介をしています(2節)。つまりこのヨハネはキリストの福音を人々に伝える使命を持って生きた伝道者だったのです。さらにこのヨハネの黙示録の受取人は「アジア州にある七つの教会」と語られています(4節)。つまり、この黙示録はキリストの福音を伝える伝道者からその福音を信じる教会の人々に宛てて書かれた書物なのです。私たちがこのヨハネの黙示録を正しく理解するためには、この書物が書かれた目的を正しく知る必要があります。

 先日、キリスト教会の礼拝の歴史について記された文書を読んでいて、興味を抱いたことがありました。実はキリスト教会の歴史の中で、礼拝のスタイルが大きく変わったのはキリスト教がローマ帝国の公認宗教となったときだと言うのです。そしてキリスト教会がローマの権力と結びつくことになって以来、教会堂もそこで行われる礼拝も、人々の目を驚かせるような華美で豪華なものに変わって行ったと言うのです。なぜなら、それ以前の迫害の時代にはキリスト教会はおそらく建物などを所有することも許されていませんでしたし、礼拝も人々の目を盗むような形でしか行うことができなかったからです。

 先ほども触れましたドミティアヌスと言う皇帝は自分に従わないものはたとえ相手が元老院の議員でも、また貴族であっても容赦なく処分するような暴君であったと伝えられています。そしてローマのすべての市民が皇帝である自分を崇拝するように求めたのです。ですからこのドミティアヌスがキリスト教会を迫害した理由はこの皇帝崇拝に原因があったと考えられています。だから彼は自分を礼拝せず真の神だけを礼拝しようとするキリスト教徒をこの世からすべて抹殺しようとしたのです。この皇帝のもとでキリスト教会はたくさんの殉教者たちの出すこととなりました。歴史文書によれば当時、その人がキリスト教徒だと分かれば、その信仰を捨てない限り、すべての財産が没収され、処刑されることになっていたと言います。

 このヨハネの黙示録はこのようなドミティアヌスの迫害の中で、おそらくヨハネから人目を避けて礼拝をささげているキリスト者の群れに送られたものです。曲りなりとも信仰の自由が許されている現代社会に生きる私たちがこの当時のキリスト者の気持ちを想像することはかなり難しいと言えるかもしれません。しかし、私たちはこう考えて見てもよいかもしれません。神を信じて信仰者になったのに、自分にやって来るのは厳しい試練の連続のようなものだった…。そのとき私たちはどんなことを思うでしょうか。「自分はこんなふうにキリストを信じて本当に良かったのだろうか?」、「このようにして命がけで神を礼拝することにどんな意味があるのか…?」。そのような疑問が生まれて来るかもしれません。もし、私たちがそのような疑問を抱くなるなら、このヨハネの黙示録は私たちにはっきりと語りかけてくれるのです。「あなたの信仰の決断は正しい」、「神を礼拝することはあなたの人生にとって何物にも代えることのできない重要な意味がある」とです。

 黙示録は誰も知ることができない未来の出来事を予言するために書かれた書物ではありません。この黙示録は私たちが今、信じている信仰が、今、ささげている礼拝がどんなに確かで、価値のあるものなのかを私たち教えるために書かれた書物なのです。


3.イエスを通して知らされる正しい知識

 この黙示録のメッセージはキリストによって示された証しを納めています。キリストが私たちに教えてくださる証しに私たちが耳を傾けることは私たちの人生にとって最も重要なことだと言えます。なぜなら、私たちは自分の人生やこの世に起こる出来事の本当の意味を知らないで、誤解してしまうことが多いからです。そして、この誤解がさらには私たちの人生に深刻な問題を引き起こしていると言えるからです。

 たとえば、ヨハネによる福音書の9章に登場する「生まれつきの盲人」についてのお話はその代表的例かも知れません。ここに登場する人たちは世間の人々も、またイエスの弟子も、またおそらく生まれつき目の見えない本人までも「目が見えない」と言うことを「不幸だ」と決めつけています。そしてその偏見をもとに、この出来事の意味を探ろうとしたのです。「彼の目が見えないのは誰のせいか」と言う議論が生まれました。なぜなら、イエス以外の人々はこの人が「生まれつき目が見えないの、神から何らかの罰をうけているからだ」と推論したからです。そのためその罪は誰が犯したものか、「本人か、それとも両親か…」とこの話が進んで行くのです。しかし、この議論いくら戦わせてもこの議論は目が見えない人にも、またそのほかの人にも何の役にも立たないものでした。なぜなら、この問題を論じあう人々は最初のところからこの出来事の意味を誤って認識してしまったからです。

 イエスは「神の業がこの人の上に現わされるためである」(3節)と語られて、その人々の認識の誤りを正されたのです。ですから私たちが物事を正しく判断し、考えるためには、このイエス・キリストが示してくださる証しに耳を傾け、そこから正しい認識をいただく必要があるのです。そのような意味で黙示録はこの世の歴史の意味を誤解して考えている私たちに正しい認識を教える書物だと言えるのです。ですから私たちはこの世の示す誤った認識に踊らされることなく、イエス・キリストの示された証しから出発して、正しい信仰者としての認識を得て行かなければならないのです。


4.黙示録は何を教えるのか

 私には高校の時から親しくしていた一人の友人がいました。彼は学年も出身の学校も私と違っていましたが、不思議に気が会って、私と友人となりました。残念ながら今は音信が途絶えてしまって、その友人の消息が分からなくなってしまいました。しかし彼は私が神学校に行ったときもわざわざ時間をかけて神戸に尋ねて来てくれたこともありました。また神学校の卒業の後に青森県の三沢で伝道者として働きを始めたときにもそこにも訪ねて来てくれたのです。

 彼は私を通して一時は教会にも通っていたことがあります。私が神学校に入学した後も一人で教会に通い続けていました。あるとき、彼が行っていた教会の宣教師に私が偶然に出会ったときに、私はその友人の求道生活についてその宣教師に尋ねて見ました。するとその宣教師はすぐに首を振って「彼はダメです」と言い切ったのです。実はその友人が教会や聖書に興味を持つようになったのには理由がありました。彼はいわゆる「終末論」ということに人一倍関心を持っていたのです。だから、私に対しても彼は「聖書は世の終わりについて何と言っているのか…」と何度も質問して来ました。どうも教会でも友人はその関心を変えることがなかったようです。つまり、彼は聖書が教えようとするキリストの福音には関心を示すことがなかったのです。そしてやがて教会からも私からも離れて行ってしまったのです。

 このヨハネの黙示録をノストラダムスの大予言のように、未来の出来事を予言する書物として読むことは危険であり、誤りだと言っている説教者がいます。確かにこのヨハネの黙示録を勝手に解釈して教える人々を通して、歴史の中で何度も混乱が起こりました。特に不安な出来事が数多く起こった時代には、このような人々が多く出現します。私たちの世界は現在、コロナウイルスによる世界的パンデミックによって不安と恐怖の中に生きています。だから私たちはこのような混乱の中でヨハネの黙示録の内容を安易に現実に適応させて読む過ちを犯さないように用心すべきかもしれません。

 それでは私たちはヨハネの黙示録から何を学ぶべきなのでしょうか。確かにヨハネは主イエス・キリストからすぐにでも起こるはずの世の終わりの出来事を示され、証ししています。そして私たちがその出来事に備えることを教えているのです。しかし、私たちには世の終わりがいつ、どのように起こるのかと言うことを知る以上に大切なことがあります。それは、私たちの未来はその世の終わりもふくめてすべて私たちの主なる神のものだということです。そしてそれは未来だけではありません、私たちの過去も現在もすべてを支配する方は私たちの主なる神なのです。今日の箇所でも次のような言葉が記されています。

「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」」(8節)

 私たちがこのヨハネの黙示録から知らなければならないことはこのことです。この世界の歴史は勝手に進んで行く訳ではありません。また偶然の連続によってこの世界の歴史が作られるのでもありません。この世界の歴史は私たちを愛し、私たちのために十字架で命を捨ててくださった主イエスと、その主イエスを私たちのために遣わしてくださった神の作品です。なぜなら、過去も現在も未来もすべて主なる神が支配してくださっているからです。私たちにとってこれほど慰めに満ちているメッセージは他にはありません。私たちはこれから私たちの人生を支え、私たちの信仰生活を導くための言葉としてこのヨハネの黙示録の証しを学んで行きたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.この黙示録の内容は誰からどのようなことを示されて書いたものだとヨハネは言っていますか(1節)。

2.この文書を記したヨハネはどのような人物で、この文書を誰に宛てて書いたと言っていますか(2、4節)

3.ヨハネは主イエスが私たちにとってどのような方だと言っていますか(7節後半〜8節)。

4.主イエスが雲に乗って来られるとき、どうして地上の諸民族は、彼のために嘆き悲しむことになるのでしょうか。そのときはこの人たちと違って主イエスを信じてその民とされた者たちはどうなると思いますか。(7節)

2020.11.15「時が迫っている」