2020.11.29「初めのころの行いに戻れ」
ヨハネの黙示録2章1〜7節
1 エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。
2 「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。
3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。
4 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。
5 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。
6 だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。
7 耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」
1.七つの教会に送られた手紙
①天使の働き
今日も皆さんと一緒にヨハネの黙示録をテキストにして学びたいと思います。黙示録はここから七つ教会に宛てられた手紙の文章が始まり、ちょうど3章の終わりまで続いています。実は正確にはこの手紙は七つの教会にではなく、七つの教会のそれぞれの「天使」に送られる形式で記されています。直接、教会に送られているのではなく、それぞれの教会の天使たちがその受信人になっているのです。つまり、この手紙は栄光の主イエスから黙示録の著者であるヨハネを通して、七つの教会の天使に送られた上で、それぞれの教会に届けられたと言うことになります。
どうして、天使がここで登場するのかという問いに、ある説教者は「教会の人々が受信拒否をして、この手紙が届かなくなってしまうことを避けるため…」と説明しています。確かに私たちはそれが神の言葉であっても、いつも自分に都合のよい言葉だけを聞きたいと願う傾向あります。そのため自分に都合の悪い言葉を無視したり、受け入れるのを拒否してしまったりすることがよくあるのです。しかし、これでは聖書のみ言葉に示された神の御心を正しく知ることはできなくなってしまいます。手紙の一部だけを読んで、後の部分は読まないで捨ててしまったら、その手紙を書いた人の意志に反することになってしまいます。ですから神はそのようなことが起こらないために、神の使いである天使たちを用いてこの手紙のメッセージを忠実に教会の人々に伝えようとしたと言うのです。ですから、もし教会で神の言葉が正しく語られ、聞かれることができていたとしたら、そこにはその教会のために働く天使の存在があると言うことができるのです。
②七つの意味
ここから登場する七つの教会、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアは黙示録の最初で「アジア州にある七つの教会」(4〜5節)と紹介されています。つまり、現在のトルコに点在していた教会がこの手紙の最終的な受取人なのです。もちろんこのアジア州にはこの七つの教会以外にも教会がありました。
ここで問題となるのは「七つ」と言う言葉です。これから黙示録を学ぶ中で今日以外にも何度かいろいろな数字が取り上げられて行きます。実はこの黙示録に書かれている数字は、ものの数を勘定するというよりは、その数自身に深い意味があると考えた方がよいと言われています。特に今日の箇所では「七つ」と言う数字が取り上げられています。私たちが「七」と言う数字を思い浮かべるときに、すぐに気づくのは、神が造られた一週間という暦のサイクルは全部で「7」日間で構成されていると言うことです。そのような意味で数字の「七」は完全数と言って、「すべて」と言う意味を表す言葉になるのです。つまり、ここに記された七つの教会はすべてのキリスト教会を代表していると言ってよいでしょう。そのことを支持するようにこの七つの教会の手紙の最後は皆同じ言葉が繰り返されています。「耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい」。つまり、ここに語られようとする栄光の主のメッセージは特定の教会に語られていると言うよりも、キリストを信じるすべての教会に語られていると言ってよいのです。その意味で、私たちはこの黙示録の言葉を私たちの教会に宛てられた言葉として読むことできるのです。
2.エフェソ教会の特徴
今日の手紙の文章の中ではエフェソ教会の事情が取り上げられ、その教会の抱えていた問題が指摘されています。この教会は使徒言行録の記事を読むと使徒パウロと深い関係を持っていた教会であることが分かります(使徒19章、20章など)。エフェソはエーゲ海に面した大きな港町で、非常に繁栄していた町であったと言われています。使徒言行録の記事にも登場しますがこの町にはアルティミスという女神を祭る神殿が建てられていて、その神殿に来る参拝客を目当てに商売をして生活する人々もたくさん存在していました。彼らは偶像を否定し、真の神の福音を伝えたパウロと対立し、そのために騒動が起こっています。また、この時代にはローマ皇帝を崇拝する施設もこの街には建築されていたと伝えられています。このような町の雰囲気の中でキリスト教信仰を持って生きるということは簡単なことではありません。。ある意味でエフェソ教会の人々はは異教社会の中で信仰を持って生きている私たち日本人と同じような境遇に置かれていたと考えてもよいのかも知れません。
さてヨハネに語り掛けられた栄光の主はこの教会についてこのように語っています。
「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。」(2〜3節)
また後半の部分でもこのような言葉が記されています。
「だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。」(6節)
この言葉からも分かることは、エフェソ教会の信徒たちは自分たちを正しい福音の教えから逸らさせようとする誤った教えや、その教えを伝える人たちに対して非妥協の姿勢を貫き通したと言うことです。町の人々は「なぜ、あなたたちは私たちと同じ習慣に従わないのか…」と言ってはキリスト者を攻撃し、変人扱いした上で、彼らを自分たちの交わりから追放しようとしました。また、彼らへの攻撃はこの町の人たちだけではありません。自分たちに福音を伝えるはずの「使徒」と自称する教師たちが、どこからかやって来て「パウロは誤った教えをあなたたちに伝えた。私たちの語る教えこそが本当の福音だ…」と言って惑わそうとしてのです。しかし、エフェソの教会の人々はこれらの問題の中でも、パウロから伝えられた正しい福音の教えを守り抜くことができたと言うことで、栄光の主から評価されているのです。
戦いがずっと続くと人は「疲れ果て」るはずです。そうなる人は「もうどうでもいいや」と投げやりな態度をとるようになることがあります。しかし、エフェソの教会の人々はそうではありませんでした。そのような意味で、エフェソの教会は神から福音を受け取った天使の働きによって、正しい福音をいつも堅持することができのです。
人と仲良く付き合うためには私たちの側にも寛容さが求められます。しかし、このエフェソの教会の人々の姿を取り上げた栄光の主イエスの言葉からも分かるように、私たちの信じている福音の教えに関しては決して妥協してはならないと言うことです。なぜなら、神は私たちを通してこの正しい福音を多くの人々に伝えようとしているからです。その私たちが福音の教えを蔑ろにしたら、私たちはこの使命を果たすことができなくなってしまうのです。
3.愛について叱責を受けた教会
①愛についての問題を抱えていた教会
エフェソ教会は福音の真理を守りぬくことには成功した教会と言えるかも知れません。しかし、栄光の主イエスはこの教会の弱点をここで適格に次のように語っています。
「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」(4〜5節)。
「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」と語られています。この教会には「愛」において大きな問題があると言うのです。そしてその問題が重大なことは「あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」と言う言葉から分かります。このままだとエフェソ教会は主イエスから教会としての資格を取り上げられてしまうとまで警告されているからです。
②「あなたには愛がない。」と言われたら
ところで皆さんは人からどんな言葉をかけられたら、心が動揺し、また傷つくでしょうか。人の心にナイフのように突き刺さる言葉はいろいろあります。しかし、聖書を読んでいる私たちに一番堪える言葉は「あなたには愛がない」と言う言葉ではないでしょうか。
私も牧師をしていて時々、このような言葉を聞くことがあります。「この教会には愛がない…」そんな言葉をある人から言われたとき、私は思わず「そう言うあなたには愛があるのか…」と言い返しそうになりましたが、とっさにそう言い返すことを堪えた思い出があります。なぜなら、そのような反応がすぐに出る自分の姿こそが自分に愛がないことを表していることに気づかされたからです。だから「ああ、確かに自分には愛がないのだな…」と思わされて、とてもイヤな気持ちになった思い出があります。おそらく、ここに集まる皆さんも他の誰からか「愛がない」と言われたら、「そんなことはありません。私は愛に満ちた人間です」などと答えられる人はいないと思います。私たちは自分でも思い当たることを他人から言われると、動揺してしまうのです。
それではもし、私たちが他人から「あなたには愛がない…」と言われたとしたら、私たちはどのようにしたらいいのでしょうか。その人が「すみません。以前語った言葉は誤解でした。あなたは本当は素晴らしい愛の持ち主です」と言われるために、懸命に努力してその人に愛の業を行い続けるべきなのでしょうか。しかし、自分が非難されたから、それを挽回するために努力して行った業が本当に「愛の業」と呼べるのでしょうか。そもそも、私たちが努力をしても、その言葉を語った人が必ずしも満足するとは限りません。また一度は満足しても、また前言を覆すことも可能です。そうなると私たちの生き方は自分を非難する人たちの言葉に操られる奴隷のような生活になってしまうはずです。
4.初めの愛とは何か
①愛は神から出るもの
そもそも、私たちは「あなたには愛がない…」と言う言葉を聞いて、どうして心がこんなにも揺らいでしまうのでしょうか。愛について様々な言葉を残したヨハネの手紙一はこのようなことを私たちに語っています。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」(4章7節)。
ここに記されているように「愛は神から出るもの」で私たちから出るものではありません。ですから、人から「あなたには愛がない」と言われたときに私たちがとるべき本当の態度は「愛をください」と神に祈りことではないでしょうか。もし、神に祈ることも忘れて、必死になって自分を弁護するために何かをしても、それは神から出たものではありませんから、「愛」とは呼べないのです。
黙示録はエフェソの教会の人々に「だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」(5節)とアドバイスしています。この「初めのころ」とは私たちがキリストと巡り合い、その愛を体験して、罪のゆるしをいただいた時のこと、キリストによって自由にされたときのころの経験を語っています。ですから、今、私たちに一番必要なのはこのキリストの愛であり、キリストの許しを思い起こして、そこにしっかりと立つことです。先ほどのヨハネの手紙は次のようにも語っています。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(4章18節)。
罰を恐れてすることは本当の愛ではないとヨハネは教えます。本当の愛は神が私たちに与えてくださる賜物だからです。
②意識されない愛
主イエスはあるとき弟子たちにこの世の終わりに起こる神の審判の様子を、たとえ話を用いて語りました。最後の審判のとき、神は私たちを羊と山羊に分けられると教えられました。そのとき神の教えに従って神を愛し、隣人を愛した人たちが「羊」として認められます。そしてそのようなことをしなかった人は「山羊」として区別されるのです。このとき、羊たちは神から賞賛の言葉を与えられますが。ところが不思議なことに彼らは自分に向けて語られるこの神の言葉を聞いて戸惑います。そして彼らは「主よ、いつ私たちは…そんなことをしたのでしょうか」と問い返すのです。この言葉からわかることは彼らの愛の業は自分で意識して行われた業ではないと言うことです。「これをしなければ自分は信仰者として失格になってしまう」。そんな恐れから行われるものを神は愛とは認めてくださらないのです。
私は私たちに求められている愛の業は決して特別なものではないと思っています。神が私たちに与えられているそれぞれの賜物を使って、互いに私たちが使え合うとき、神の愛が私たちを通して実現していくと信じているからです。インドで貧しい人たちに対して愛の奉仕をしたマザーテレサは「神は私たちにできることをするようにと望んでおられる」と語りました。なぜなら、神は私たちに一人一人に十分な賜物を与えてくださっているからです。
ただ、私たちに大切なことは私たちがいつも恐れから解放されて、自分に与えられた使命をなしていくと言うことです。なぜなら、この恐れは私たちに与えられた賜物の力を奪い、私たちの人生の大切な時間を奪おうとするからです。だから私たちはこの「恐れ」から解放されるために、いつも神の愛の内にとどまる必要があるのです。救い主イエスは私たちをそのままで愛し、許してくださるために私たちの元に来られました。十字架の御業はその確かな証拠です。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.栄光の主はエフェソ教会の信徒の行いと労苦と忍耐をよく知っていると語られています。このエフェソの教会はどのような点で主から評価を受けていますか(2〜3節、6節)。
2.エフェソ教会が主から指摘されている問題点は何ですか。その問題が深刻であることはどんな言葉でわかりますか(4〜5節)
3.あなたが主と出会い、主を信じて信仰生活を始めたころのことを思い出してみましょう。今のあなたは、そのときのあなたとどこか違うところがありますか。