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2020.11.8「十人のおとめ」

マタイによる福音書25章1〜13節(新P.49)

1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。

2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。

4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。

7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。

8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』

9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』

10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。

12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。

13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」


1.天の国とは何か

①神がおられる場所

 以前、教会学校で子供たちに聖書のお話をしていたところ、「天国って、死んだ人しか行けないところなのでしょう…」と聞かれたことがありました。おそらく、日本人の多くは「天国」を仏教で言うところの「極楽浄土」と同じものと考え、この世を去った人々の魂が集まる安住の地と考えているはずです。今日の聖書箇所の冒頭は「天の国は次のようにたとえられる…」と言う言葉から始まっています。私たちは今までこの伝道礼拝でイエスの語ってくださったたとえ話を続けて学んできました。そして今日取り上げる「十人のおとめ」のたとえ話は「天の国」つまり「天国」について語っているお話だと聖書を言っているのです。もしこのお話を死んだ人が行く場所について語っていると読んでしまうと、このたとえ話の意味は全く分からなくなってしまいます。

 実は「天の国」と言う言葉は聖書の中でもこの福音書を書いたマタイだけが用いた独特の用語です。他の福音書では「天の国」ではなく「神の国」という言葉で呼ばれているからです。昔からマタイはこの福音書を信仰深いユダヤ人たちのために書いたと考えられて来ました。当時のユダヤ人は神の律法に「神の名をみだりに唱えてはならない」(十戒の第三戒)と教えられていたために、日常生活の中で「神」と言う言葉を使わない傾向にありました。だからマタイはこのユダヤ人たちのために「神」と言う言葉の代わりにその神がおられる場所を示す「天」と言う言葉を使って福音書を記したのです。つまり福音書が語る「天の国」は神がおられる場所を意味していると考えることができます。その意味で神がおられる場所はどこでも「天の国」であると呼ぶことができるのです。

 聖書を読んでおられる方はすぐわかると思いますが、この世界の中で神がおられない場所はどこにもありません。神学用語でこの神の性質を「偏在」と言う言葉で表しますが、世界中どこにでも神はおられる訳ですから、「天の国」はどこにでも存在すると言うことになります。


②イエスの救いと信仰の意味

 しかし、ここで問題となるのは地球上のどこでも「天の国」なら、私たちは皆、そのまま天の国の住民と呼んでよいのかと言うことです。日本に住んでいればすべての人が「日本人」と呼べるのかと言えばそうではありません。日本国籍を持たず、日本に住んでいる外国人も多くいるからです。同じように私たちが天の国の住民となるためにはそこにいるだけではなく、その国の国籍を取得する必要があります。実はこの天の国の国籍を私たちに与えるために救い主イエスが私たちのところに来られ、救いの御業を成し遂げてくださったのです。ですからこのイエス・キリストの御業によって、私たちはこの地上に生きていながらもすでに「天の国」の住民と言う資格を得ることがきたのです(フィリピ3章20節)。

 私たちは今、救い主イエスの御業によって「天の国」の国籍を得て、天の国の住民とされました。しかし、ここでもう一つ問題になることがあります。それは私たちがこの天国の住民とされたと言う事実は私たちの目では確かめることができないからです。なぜなら、私たちが天の国の住民にされても、私たちの生活は目で見る限り何も変わっていないように思えるからです。

 それでは、私たちはどうしたらよいのでしょうか、確かに私たちは自分がイエスに救われて、天の国の住民とされたことを自分の目で見ることができません。だからこそ、私たちはこの事実を信仰によって受け入れるのです。信仰とは自分の目に今は見えなくても、神が私たちのためになしてくださった救いの事実を受け入れることだと言えるのです。今は私たちの目には見えませんが、私たちはすで救い主イエスに天の国の住民にされてています。だから神はいつも私たちとともにおられるのです。私たちはこの事実を信仰によって受け入れて信仰生活を送っているのです。


2.賢いおとめと愚かなおとめ

①イエスの再臨を待つ

 今日のたとえ話の結論では「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(13節)と言う言葉で終わっています。このようにこのたとえ話は私たちに目を覚まして待つことを教えています。私たちは準備して大切なときを待たなければならないと言うのです。それでは、私たちはいったいどんな時を待つ必要があるのでしょうか。それは救い主イエスが再び私たちのところに来て下さるときです。なぜなら、私たちの救い主イエスは再びこの地上に来てくださることが聖書の中ではっきりと約束されているからです。

 それではイエスは何のために再びこの地上に来てくださるのでしょうか。それは今、私たちが信仰を持って受け入れている救いの出来事を完成させるためです。だからそのとき、私たちは今まで信仰を通してしか確認できなかった出来事を、自分の目ではっきりと確認することができるようになるのです。だからこそ、信仰者はこのときを心待ちにして待つのです。なぜなら、そのとき私たちが信仰生活の中で支払ったすべての労苦が無駄ではなかったことを私たちははっきりと理解することができるからです。信仰者であれば誰れでもそのときを心から待ち続けるのです。ところが今日のたとえ話ではこの時を待つことに失敗してしまった人々が登場しています。せっかく天の国の住民とされたのに、肝心のときにこの天の国に入れなかった人々のことがこのたとえ話には語られているのです。


②真夜中に起こった事件

 このお話はイエスの時代に行われていた結婚式が舞台となっています。今は結婚式と言えば教会や専用の式場で行われるのが普通になってしまいましたが、私が子供のころはまだ結婚式はそれぞれの家で行われることが普通だったと記憶しています。イエスの時代の結婚式も通常、結婚式を挙げる花婿の家で執り行われていました。結婚式の当日、花婿は行列を作って花嫁の家に行きます。そして花嫁とお連れの女性たちを引き連れて結婚式が行われる花婿の家に戻るのです。実は当時、花婿が花嫁の家に行きつく前には、花嫁の家の人々との大切な話し合いをする習慣がありました。それは、花婿が花嫁を自分の家に迎えるのと交換に花嫁の家に相当の額の贈り物を送る必要があったからです。その話が成立して花婿は初めて花嫁を迎える正式な許可をその家から受けることができます。しかし、このときこれも当時の習慣として花嫁の家の家族は、自分の花嫁のすばらしさを示す証として最初は多額の贈り物を花婿に要求するのだそうです。そこでその贈り物の額を巡って長い時間をかけて花婿と花嫁の家族の間で駆け引きが行われます。だから花婿の到着が遅くなるということがよく起こったと言われています。しかし、この物語では予想以上にその花婿の到着が遅れてしまって、真夜中になってしまいます。そのため待っていた女性たちはみな眠り込んでしまったのです。そして花婿の到着を知った女性たちはあわてて出発の準備をするのですが、ここでトラブルが発生します。なぜなら、このお連れの女性たちは花嫁行列の行く道を照らすためのたいまつを持って歩くはずになっていたのですが、そのたいまつに使う油が切らしてしまった人がいたのです。幸いにして5人の女性たちはあらかじめ余分の油を準備していましたから大丈夫でした。しかし、後の残りの5人は余分の油を持っていなかたので慌て始めるのです。


3.どうして分けてやれないのか

①状況判断の誤り

 皆さんだったら自分の仲間が困っている姿を見たらすぐに「助けてあげよう」と思われるかも知れません。もしかしたら自分が犠牲になっても、自分の仲間を助けると言う人もいるはずです。しかし、このお話は「困っている人を助けなさい」と言うことを教える物語ではありません。本当なら準備しておくべきものを、準備することができなかったことが問題となって語られているお話だからです。ですから、この物語では油を準備していた女性たちは「賢いおとめ」と呼ばれ、そうできなかった残りの女性たちは「愚かなおとめ」と区別されて呼ばれているです。

 「愚かなおとめ」たちの失敗の原因は状況判断の甘さにありました。彼女たちは第一に花婿の到着がそんなにも遅れてしまうことを予想していなかったのです。彼女たちが余分の油を準備するためにはそれなりの労力と費用が必要になります。しかし花婿が予定通りにくればそんな準備は無駄になってしまいます。だから、彼女たちはそんな余計なことをする必要がないと考えたのです。

 もう一つ彼女たちが犯した判断の誤りは、彼女たちはいざとなったら仲間たちから余分の油を分けてもらえると考えていたことです。自分の責任で油を準備することが当然なのに、彼女たちはその油を他人から分けてもらおうと考えたのです。そのような状況判断の甘さが彼女たちに悲劇的な結末をもたらすものとなったのです。


②愚かなおとめたちの犯した状況判断の誤り

 イエスのたとえ話にはよくそのたとえ話に対する解説の部分が記されていることがあります。ところが、このお話にはその解説の部分がありません。そこで教会では伝統的にこの物語をイエスの再臨を待つ、教会の姿として考えて来ました。イエスは私たちに対する約束の通りに、この地上に再びやって来てくださいます。しかし、その再臨の日はいつになるのかは誰にも教えられていません。そこでいつの間にか、教会の中でもこのイエスの再臨を待ち望むという信仰の姿勢を忘れられてしまう人たちが現れたのです。だから「賢いおとめ」たちはそのイエスの再臨を正しい信仰の姿勢で待っている人たち、それに反して「愚かなおとめ」たちはそのことを全く忘れてしまっている人たちを表していると理解して来たのです。

 ある人の話によれば、欧米にある古い石造りの教会の入り口にはこの物語を描いたレリーフがよく刻まれているそうです。ですから日曜日に教会の礼拝に出席する人たちは、そのレリーフを見て礼拝堂の中に入って行くことになります。おそらく、それは日曜日に礼拝に出席して神に祈りを捧げ、聖書を読んで神を礼拝するこれら一切の行為がたとえ話の中で油を準備した人たちの行為と同じであることを教えるためであったとも考えられます。

 誰にも確かなことは言えないのですが、この物語で問題となる油は「他人には決して譲ことができないもの」であることだけは分かります。そのような意味でこの油は私たち自身の「人生」そのもの、あるいはその人生を通して表される私たちの信仰であると考えることができます。なぜなら、私たちはそれらのものを他人に譲ことはできませんし、他人からもらうこともできないからです。


4.目を覚ましている

①目に見える現実と神の事実

 最初にこの物語は天の国についてのたとえ話であることを学びました。そして私たちは救い主イエスによって今すでに、この天の国の住人とされていることも確認しました。私たちの目には見えませんが神は私たちとともにいてくださり、私たちの人生を救いの完成へと導いてくださっているのです。何度も言うように、この救いの事実を私たちは今、自分の目で確かめることはできません。だからこそ私たちはそれを信仰によって受け入れるのです。

 私たちの目には今何が見えているのでしょうか。世界は今もなお猛威を振るう病原菌によって引き起こされる禍に苦しんでいます。そして全世界から私たちに届けられるニュースは私たちを不安にさせるものばかりのような気がします。確かに私たちの送る日常生活は以前とは大きく変わってしまっています。今まで当たり前のように思えていた日常の生活の営みが不可能となり、希望を持てないと言う人が現れています。私たちを取り巻く世界の現実は私たちが信仰によって受け入れている救いの出来事と大きく隔たる情報を私たちに提供し続けているからです。

 それではこの世界の中で私たちが「油を準備する」とはどのようなことなのでしょうか。それは世が提供する様々情報にも関わらず、いつも私たちが天の国の住人とされていることを確信し、神がこの世界を治めてくださることを信じて行きていくことではないでしょうか。


②油を準備するための今日と言う一日

 私たちはこのように以前とは全く変わってしまった日常生活の中で、いつの間にかうつうつとした気持ちに陥ってしまうことがよくあります。「今日も誰とも会うことできなかった」。「誰とも話をしないままで一日が終わってしまう」。「しなければならないことがたくさんあったに、何もできないで終わってしまった」。私たちはそのように考えることで生きるための気力さえ失われてしまっているように思ってしまうのです。しかし、私たちは肝心なことを思い出す必要があります。私たちはすでに救い主イエスによって神の国の住人にされていると言う事実です。そして、神が私たちとともにいてくださって私たちの人生を導かれていることを思い出す必要があります。

 私たちは信仰によってこの救いの事実を受け止めながら、一日一日の生活を始めたいと思います。そのために朝、新聞やテレビのニュースを通して不安な気持ちでその一日を始めるのではなく、聖書に示されている神の祝福を確認し、私たちは希望を持って新しい一日を始める必要があります。

 夜、寝床に入りながら「あれができなかった」「これができなかった」と後悔するのではなく、その日一日にあった神の恵みを覚えながら「自分にできたこと」を思い起こして、神に感謝をささげることで一日を終わるなら、私たちの人生は変わります。

 また、「やらなければならないこと」ができないと言って嘆くのではなく、今の自分に「できること」を見つけ出して、それをなしていくことでも私たちの人生は変わるはずです。確かに私たちに今できることは小さなことかもしれません。しかし、その小さなことが私たちの人生で油を準備することだと言うことに繋がることを覚えたいと思います。確かに私たちにできることは、今は小さなことだとしても、イエスが再び来られるとき、私たちがしたその小さなことが世界と私たちの人生を全く変える神の御業であったことが分かるときが必ずやって来ます。そのときを覚えて、私たちは信仰の歩みを今日も再び続けていきたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスの語られたたとえ話に登場する賢いおとめたちと愚かなおとめたちはどこがどう違っていましたか(1〜4節)。

2.あなたの信仰生活で賢いおとめたちのように油を準備するということはどのようなことだと思いますか。あなたは今、それができていると思いますか。

3.賢いおとめたちは自分たちのともし火に用いる油を準備して花婿の到着を待ちました。あなたは救い主イエスが再びこの地上に来てくださると言う約束をどのように受け止めていますか。

4.愚かなおとめたちはどうして自分の分の油を準備しなかったのでしょうか。彼女たちにはどんな状況判断の甘さがありましたか。

5.私たちが主イエス・キリストによって天の国の住民とされていることを信じて生きると言うことは、私たちの信仰生活にとってどのような影響を与えると思いますか。

2020.11.8「十人のおとめ」