2020.12.13「わたしの口の剣で戦おう」
ヨハネの黙示録2章12〜17節
12 ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。
13 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。
14 しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。
15 同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。
16 だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。
17 耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」』
1.偶像のデパート
今日はヨハネの黙示録の最初の部分に記されている七つの教会への手紙の中から第三番目のペルガモン教会に宛てられた手紙を皆さんと共に学びたいと思います。このペルガモンは小アジア州、つまり現代のトルコにあった都市の名前です。最初に学んだエフェソから北に50 キロほど行くと、二番目に取り扱った教会があるスミルナの町があります。そのスミルナの町からさらに北に50 キロほど行ったところにこのペルガモンの町がありました。このペルガモンはかつて小アジアに存在していたペルガモン王国の首都として栄えた町です。有名なところではこの町にはたくさんの書物が納められた図書館があったと言われています。またこの町には医学の神として祭られる「アスクレピオス」の神殿があったとされています。たくさんの聖書注解者は「この町は現代のルルドのような町だった」と説明していますが、この説明はルルドをよく知っている人には通じますが、おそらく多くの日本人にはピンとこない説明かもしれません。
ルルドはフランスにある町で、かつてこの町に聖母マリアが出現したという伝説が残されていて、その町にある泉の水を飲むと聖母マリアの力によって医者も治すことができない病が治ると言うことで有名になりました。今でも世界中からこの町に自分の病を治してもらおうとたくさんの人々が集まる、それがルルドの町です。注解者たちによればペルガモンの町のアスクレピオス神殿もこのルルドと同じで、たくさんの病人が自分の病を癒しいただこうと集まって来ていた、ペルガモンはそのような町だったと言うのです。少し横道にそれますが、欧米の救急車などに杖にからまった蛇のデザインのマークがついているのを映画などでご覧になられた方はいないでしょうか。この杖にからまった蛇のデザインはアスクレピオスが持っていた杖を描いていると言います。つまりアスクレピオスは現代でも医学を象徴する存在として用いられているのです。
さらにこのペルガモン教会への手紙の中ではこの町が「そこにはサタンの王座」があると言う表現で語られています。これはアスクレピオスの杖に絡みつく蛇が、聖書ではサタンの象徴として登場するからだと考えられています。この他にもこの町には当時、ギリシャの神々を祭る祠が無数にあったと言われています。さらにはこのペルガモン王国の最後の王は台頭してきたローマ帝国の力を恐れて、自分の王国をローマ皇帝に献上したとされています。そのためこの町にもそのローマ皇帝を祭る神殿も建てられていました。このようにペルガモンの町には無数の偶像が存在し、当時の人々の生活を支配していたのです。ですから聖書の注解者はこの町を「偶像崇拝のデパート」と呼んでいます。いずれにもして、この町に住む限りこられの偶像と無関係に生きることができないのがこの町ペルガモンの特徴であったと言えます。ですから、この町で真の神だけを礼拝して生きるキリスト者たちは、その偶像崇拝との戦いを避けることができなかったのです。
2.殉教者アンティパス
その彼らの苦労は次に語られるイエスの言葉からも推測することができます。
「しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった」(13 節後半)。
先に学んだスミルナの教会への手紙では「死に至るまで忠実であれ」(10 節)と言われるイエスの言葉が記録されていました。主イエスはこの言葉を語ることでスミルナの教会の人々が厳しい迫害の中でも信仰を守って生きるようにと励ましたのです。しかし、その迫害はこのペルガモンの町ではすでに現実のものになっていたようです。なぜなら、すでにこの町では実際に信仰を守るために殺されてしまった殉教者が出現していたからです。それがここで記されている「忠実な証人アンティパス」と言われる人物です。残念ながらこの人物の身の上について聖書は他の一切を説明してはいません。しかし、このアンティパスの死はペルガモン教会の人々に大きな影響を与えていたようです。その影響とは、彼の死を通して教会の人々が「自分たちも同じように信仰を守りぬこう」と言う決心をすることができたからです。「自分も同じ目に会ったら大変だ」と怯えて教会を離れ、信仰を捨ててしまったのではなく、「自分もあのアンティパスのように生きたい」とペルガモンの教会の人々は思ったのです。
ギリシャ語ではここに記される「証人」と言う言葉と「殉教者」と言う言葉は同じ単語が使われます。この言葉から分かることは、殉教者とは自分の死を通して、自分自身を示すのではなく、自分を生かしてくださった主イエスを証することができた人だと言うことが分かります。つまり、忠実な証人アンティパスが示したのは自分と共に生きたイエス・キリストと言う方の存在だったのです。
自分の生涯を通して自分と共に生きてくださっている主イエスを示すことが出来た証人たち、それは遠い昔の古代教会の人々だけに限られるものではありません。私たちの周りにも、その生涯を通して信仰生活を送り、イエス・キリストの素晴らしさ示してくれた信仰の先輩たちはたくさんいたはずです。私たちの信仰はこのような多くの証人たちの信仰の証によって私たちに伝えられたものだと言うことができます。ですから「殉教者」とは特別な死に方をした人だけを語るのではなく、その生涯を通して信仰を証することのできた人々を表す言葉なのです。その使命を私たちも今、信仰の先輩たちから受け継で忠実な証人として生きる勤めに召されていることを改めて覚えたいと思うのです。
3.信仰の戦い
さて、この手紙の中には旧約聖書に登場するバラムとバラクと言う二人の人物の名前が登場しています。
「しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった」(14 節)。
旧約聖書の民数記の記事によれはモアブ人の王バラクはエジプトからやってきたイスラエルの民がカナンの様々な民族を征服していく姿を見てうろたえます。彼は「自分たちもそうなったら大変だ」とバラムと言う人物を招いて、彼によってイスラエルを呪わせようとしたのです。しかし、バラムは自分の意志に反して、イスラエルを呪うのではなく、逆に祝福してしまいます。バラムは真の神を信じない「偽預言者」とされていますが、神はこの偽預言者を用いてご自身の御業を実現されたのです(22〜24 章)。
この手紙で語られている出来事はこの後の民数記25章1〜5節に記されている出来事が背景になっています。ここではモアブの娘たちの誘惑によって、イスラエルの民が偶像崇拝の罪を犯すと言う事件が起こります。聖書ではこの策略は偽預言者バラムがモアブの王バラクに教えたことだと言われているのです。
つまり、ここで取り上げられているのは教会の外側から攻撃する人々のことを問題にしているのではなく、むしろ教会の内部で言葉巧みに教会員を説得して、偶像崇拝に人々を誘う人々の存在が問題となっているのです。そして主イエスはこのような当時のペルガモン教会の内部に起こっている問題を取り上げ、教会の人々がこの誤りに気付いて、悔い改めるようにと求めているのです。
かつてこの日本においても、天皇が「現人神(あらひとがみ)」と呼ばれて礼拝される時代がありました。そのとき日本の支配者たちは「これは宗教ではなく、日本国民固有の伝統だ」と教えて、どのような宗教を信じている人も天皇を拝むことが大切だと主張したのです。残念ながらこのような解釈に従ったクリスチャンたちもいて、教会の人々に天皇を拝むようにと教えたこともありました。そして私たちの改革派教会はこのような教会の歴史を踏まえて、悔い改めを示す人々によって作られたことが創立宣言の文章からも分かるのです。
この手紙を主イエスから受け取ったペルガモンの教会の人々はこのとき、偶像宗教のデパートと称された町の中で、信仰を守り抜くために教会の外側でも、また内側でも激しい戦いをしなければならなかったのです。
4.口の剣によって戦う主イエス
①悔い改めよ
それでは私たちはこのような信仰の戦いにどのように立ち向かえばよいのでしょうか。イエスは次のような言葉をペルガモンの教会の人々に語っています。
「だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。」(16 節)
どうして彼らは「悔い改める」必要があったのでしょうか。なぜなら、主イエスがすぐに来てくださると言われているからです。イエスはすぐにやって来て、サタンと共にそのサタンに仕える者たちと戦ってくださるのです。つまり「悔い改め」とは私たちの心をこのすぐにでも来られる主イエスに向けることだと言えるのです。/p>
私たちは今、クリスマスを前にして待降節のときを守っています。実はこの待降節の重要なテーマもこの「悔い改め」であると言えます。そのために教会の礼拝ではこの時期に福音書の中から洗礼者ヨハネの記事を読むことが習慣となっています。荒れ野で人々に「悔い改め」を求めた預言者、それがこの洗礼者ヨハネです。この洗礼者ヨハネは人々の心をやがて来られる救い主イエスに向けるために働いた人物です。
同じようにこのヨハネの黙示録に私たちの目をやがて来られるイエスに向けさせようとしています。なぜなら、この信仰の戦いを勝利に導くために主イエスが来られるからです。だから私たちは、私たちの心を主イエスに向けることで希望を見出し、慰めと励ましを受けることができるのです。
②口の剣、マンナ、白い小石
この手紙に記されたイエスは「わたしの口の剣でその者どもと戦おう」と語っています。通常、剣は手で持つものです。戦士は剣を手に持って、その敵と戦います。しかし、ここではその剣が主イエスの口にあるのです。ですから、この剣とは、主の口からでる言葉、聖書に記された神の言葉を表していると言えます。そして主イエスはこの神のみ言葉を持って神に敵対するサタンと悪しき勢力に属するすべての者たちと戦われると言われているのです。この神の言葉は私たちの日常に起こる信仰の戦いの中でも有効に働きます。なぜなら、私たちが聖書に記された神の言葉に信頼し、その言葉を証して生きるなら、その言葉を通して主イエス・キリストが働いてくださるからです。私たちは私たちが今読んで耳にしている神の言葉が、この私たちにとっては神から与えられた剣であることを覚え、その言葉に大切にしたいと思うのです。
昔の侍はいつ起こるか分からない戦いに備えて、持っている日本刀を毎日、手入れしたそうです。そうしなければ刀が錆びついて、戦いの際に使い物にならなくなってしまうからです。だから私たちが神の言葉を毎日読むことはとても大切なのです。なぜなら、いざと言うときにその神の言葉が私たちの信仰を守り、敵と戦う剣となるからです。この手紙の最後の部分には「マンナ」と言う言葉や「白い小石」と言う不思議な言葉が記されています。マンナはイスラエルの民が荒れ野をさ迷ったときに、天から与えられた不思議な食物のことを表す言葉です(出エジプト16 章参照)。イスラエルはこの不思議な食物によって厳しい荒れ野の生活を生き抜くことができたのです。また「白い小石」には様々な解釈が存在しています。その中の一つに当時の裁判官が裁判の際に用いた道具だという説があります。当時の裁判官は「白い小石」を用いて、裁判で訴えられている被告が無罪であることを示したからです。
私たちは今、救い主イエス・キリストによってすべての罪を赦され無罪とされています。つまり私たちもすでにこの「白い小石」を主イエスから受け取っているのです。また、このマンナについて、私たちが礼拝においてあずかる聖餐式の食物に例えて説明する人もいます。なぜなら私たちはこの聖餐式にあずかるごとに、主イエスの救いの御業によって自分が生かされていることを確信し、新たな力を受けることができるからです。この世の厳しい信仰の戦いの中でも、主イエスは既に私たちを慰め励ますために「白い小石」を与え、また聖餐式のパンとぶどう酒を通して天からの「マンナ」を与え続けることで、私たちの信仰生活を守り導いてくださるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.ペルガモンの教会に宛てた手紙の中で主イエスはご自身についてどのような自己紹介をされていますか(12 節)。
2.この手紙の言葉から当時、ペルガモン教会の人々がどのような信仰の戦いの中にあったことが分かりますか(13〜14 節)。
3.民数記22 章から25 章を読んでバラムとバラクに関する物語を読んでみましょう。黙示録の中で主イエスが指摘している「バラムの教えを奉ずる者」とはどのような人たちのこと言っていますか(14 節)。
4.ペルガモン教会の人々に「悔い改めよ」と勧める主イエスはどのような武器で敵と戦うと言われていますか(16 節)。
5.信仰の戦いの中でも私たちが主イエスによって罪を赦されていること(白い小石)。また主イエスの贖い恵みによって毎日生かされているということ(マンナ)は、私たち信仰生活をどのように励ますものだと言えますか。