2020.12.27「タラントンの話」
マタイによる福音書25章14~30節(新P.49)
14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほに五タラントンもうけました。』
21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
1.当たり前ではない明日
今朝は今年の最後の礼拝になりました。今日の礼拝で読まれる聖書の箇所はマタイによる福音書25章に記されているイエスの語られたたとえ話の中の一つです。実はこの25章には今日のお話を含めてイエスの語られた三つのたとえ話が収録されています。まず、「十人のおとめ」のたとえ(1~13節)、そして今日の「タラントン」のたとえ(14~30節)、三つめは「すべての民を裁く」と言うたとえ話です。この三つはいずれも世の終わり、つまり終末に関するイエスの教えが述べられているもので、このお話を聞く人々に終末の時に備えた生き方をするようにと促しています。
最初の「十人のおとめ」のたとえでは、花婿の到着を待つおとめたちの中で、賢い五人のおとめたちは予備の油を準備していました。しかし、愚かなおとめたちはその準備を怠ってしまいました。そのため花婿が遅れて到着したときに、彼女たちは自分の油を切らしてしまって、花婿を迎え入れるという重要な任務を全うすることができなくなってしまいます。
このお話では分かることは賢いおとめは「もしかしたら…」と言うときのことを予め想定してその出来事に備えたていたと言うことです。一方の愚かなおとめたちはそれをしなかったことで大失敗をしてしまいます。この愚かなおとめたちにとっては花婿が予定通りに到着することは「あたりまえ」であったと言えます。だから、彼女たちは「もしものとき」のために備えることができなかったのです。
先日行われたクリスマスイブの礼拝で参加者の皆さんに私は「今年一年を振り返って、神さまに一番感謝できることを話してください」とお願いしました。すると一人の兄弟が「今年も戦争がなく平和に過せたことを感謝します」と言う言葉を語られました。おそらくこの兄弟は幼いころに経験した戦争の悲惨さを知っているためにこのような言葉を語ることができたのだと思います。しかし私のように戦争を知らないで育った世代は戦争がなく、平和であることがどこかで「あたりまえ」と思ってしまうところがあります。ですが実際に平和が守られたことは「あたりまえ」の出来事ではないのです。だから私は改めて日本が平和であったことは本当に感謝すべきことなのだなと思わされたのです。
私たちは夜眠ったら、かならず次の朝には目が覚めるという日常の繰り返しがいつの間にか「あたりまえ」ことだと思ってしまっています。しかし、夜寝床についたまま息を引き取る人の話を時々聞くことがあります。この日常が続くことは「あたりまえ」ではないのです。終末に備える生き方とはこの「日常の生活があたりまえ」ではないことに気づくことから始まります。そして今日と言う一日が与えられたことが、神からの恵みであり、それがどんなに貴いものなのかを知っていることが大切だと言えるのです。このお話の「賢いおとめ」たちは今日と言う一日の大切さを知って生きたからこそ、大切な時に備えることが出来たのだと言えるのです。
2.忠実な僕と不忠実な僕
それでは私たちは決してあたりまえではないこの日常の生活を、あたりまえではない自分の人生はいったい何のため送ったらよいのでしょうか。神は私たちにこの人生を与えることで、私たちに何を求めておられるのでしょうか。それを教えるのが今日、私たちが読んでいるタラントンのたとえ話であると言えるのです。
「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」(14~15節)。
新共同訳の巻末の資料によるとこの一タラントンは六千ドラクメにあたると解説されています。ドラクメはギリシャの貨幣の単位ですが、このドラクメは聖書によく登場するローマの貨幣デナリオンとほぼ同額の価値を持っていると言われています。聖書では一デナリオンは労働者の一日分の賃金の額として紹介されていますから、一タラントンは労働者の六千日分の賃金にあたることが分かります。つまり、ここで登場する僕たちに主人が預けた金額はとても普通の人では手に入れることのできない大金であったことが分かるのです。
物語は主人から五タラントンと二タラントン預かった僕たちがそのタラントンを使って何らかの商売をして、それぞれ倍に増やしたことが報告されるのに対して、一タラントンを預かった僕だけはそのタラントンをそのまま使わずに地面に埋めてしまったと言うことが語られています。そして主人が旅から帰ったときにそれぞれの僕からタラントンを使って何をしたかが報告されます。そこで預かったタラントンで二倍のもうけを出した僕たちは主人からお褒めの言葉をいただいたのに対して、一タラントンをそのまま埋めてしまった僕は主人から解雇されて「外の暗闇にほうりだされた」と言う結末が語られています。
このタラントンと言う貨幣の単位は英語の「タレント」の語源となった言葉だと考えられています。私たちはタレントと言うとテレビや映画に出演する芸能人たちのことだと考えますが、もともとこのタレントと言う言葉は「才能」と言う意味を持つものだそうです。芸能人たちは自分に与えられた才能を使ってテレビなどに出演している訳ですが、聖書によればこの才能は彼らだけに与えられているのではなく、すべての人に与えられていると言えるのです。そしてこのお話から神が私たちに与えてくださった私たちの人生はまさに使えば使うほど、大きな価値を生み出すものであることが分かります。しかし、この人生の価値を理解できずに、何もせずに無為に人生を送ってしまう者を象徴するのが、この最後の一タラントンを預けられた僕だと言うことができます。つまり、このたとえ話は終末のときに神は私たちがそれぞれ自分に与えられた人生をどのように使ったのか、それを問う時が必ずやって来るとことを教えていると言えるのです。
3.主人を信頼できない僕
ところでここで一タラントンを主人から預かった僕は、なぜそのタラントンを使わないでそのまま地面に埋めてしまったのでしょうか。たとえ話の中でこの僕はその理由を次のように語っています。
「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。」(24~25節)
この言葉から分かることは一タラントンを主人から預かった僕はその主人を全く信頼していないということです。ですから、自分が主人から預かった一タラントをまるで「やっかいなものを預かってしまった」としか思っていないのです。これではせっかく主人から大金を預かっても何もできなくなってしまうはずです。
ある説教者はこの物語を取り上げながら、このたとえ話を読む者の多くの人が「自分は神からそんなに多くの大金を預かっていない」と考えていると言います。自分の人生を考えて見ると、「神は私には一タラントンも預けてくれていない」と多くの人は思っていると言うのです。しかし、そこにこそ私たちの大きな誤解が隠されています。なぜなら、このたとえ話に語られているように実際には神は私たちに豊かな価値を生み出す命と言う宝を預けてくださっているからです。
イエス・キリストが私たちの元に救い主として遣わされたこともこのことと深く関係していると言えます。どうしてイエスはご自身の命まで捨てて、私たち一人一人の命を救ってくださったのでしょうか。それは私たちの命が本来、貴い価値を持つ命であり、豊かな可能性を秘めるものだからです。私たちはこのイエス・キリストを通して自分に神が豊かな価値を生み出す力を持った命を預けてくださったことを改めて知ることができるのです。今日と言う一日、私たちにこのように命が与えられ、生かされていることは当たり前のことではありません。神は私たちに預けた命が豊かに実を結ぶことを期待して今日と言う一日を私たちのために与えてくださっているからです。
4.失ったことから新たに得たもの
①やもめに与えられた大切な任務
世界的なコロナウイルスのパンデミックによって私たちの毎日の生活には大きな制限が加えられています。今まで当たり前にできていたことが、当たり前ではなくなってしまったことが分かります。おそらくこのような生活はこれからもしばらく続くと考えた方がよいかも知れません。
このような中で神から大切な命をいただき、今日と言う貴重な時間をいただいている私たちはどのように生きればよいのでしょうか。確かに私たちは様々な予防的な手段を使って、このウイルスから自分の身を守っていくことが大切であると言えます。テレビなどで報道されているように余計な外出を避け、家に留まることも一つの方法かもしれません。しかし、ここでも勘違いしてはならないのは私たちが病気にならずに健康に生きることは大切ですが、その健康は決して私たちの人生の目的ではないことを忘れてはならないと言うことです。一タラントンを預かった僕はそこを勘違いしていました。だから、彼は預かったタラントンを誰からも損なわれることがないようにと地面に埋めてしまったのです。
先日の祈祷会でイエス・キリストの到来を待った女預言者アンナと言う一人のやもめが取り上げられ、そのテキストで興味深い解説がなされていました。聖書において「やもめ」とは夫を失い、生きて行くため大切な支えを失った女性のことを言います。だからやもめには人々の助けが必要とされていると聖書では強調されているのです。そして自分では生計さえ立てることのできないやもめを助けるのが同じ共同体に属する者の任務だと教えるのです。しかし、キリスト教会においてはこのやもめは人々から助けられる存在であるだけではなく、彼女自身に重要な任務が与えられていたと言うことが分かるのです。
「やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません」(Ⅰテモテ5章5,9-10節)。
やもめは確かに自分にとって大切な主人、また家庭を失ってしまったからも知れません。しかし、やもめはそれによって自由になった時間を他の兄弟姉妹のために使う人ことができます。そして教会はそのような婦人を「やもめ」と呼んで、大切にしたのです。やもめは自分にとって大切なものを失ったからこそ、別の大切な任務を果たすことができると言えます。私たちの生活からも様々なものが今、失われて行っているかも知れません。しかし、だからこそ、私たちにできるようになったこともあるのではないでしょうか。そして神は、私たちに今日と言う大切な一日を与えることで、私たちに今だからできることをするようにと求めてくださっているのです。
②私たちの就寝前の祈り
聖書ではこのアンナが登場する同じ場面で、もう一人シメオンと言う老人を登場させています。このシメオンは神殿で幼子イエスに出会ったとき「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」(ルカ2章29節)と語りました。なぜなら、彼はこの日、約束の救い主として来られたイエスに出会うことで、自分の人生の使命を見事に果たすことができたことを悟ったからです。だからこの言葉はシメオンが自分の人生に満足して語ったものと言えるのです。テキストの解説ではこのシメオンの言葉をカトリック教会では「寝る前の祈り」で唱える習慣があると言われていました。これを読んで「何か、これから寝るのではなく、まるでこれから死んじゃうような祈りだ」と感想を語った人がいましたが、考えて見るとそこにも深い意味があると思いました。なぜなら私たちにとって明日が必ずやって来ることは決して当たり前のことではないからです。私にとって今晩が最後の夜になることもありえるのです。しかし、その終わりのひと時に、「わたしは今日と言う一日で、与えられた使命を果たしました。私は今、満足して一日を終えることができます」。そのようにシメオンのこの言葉を祈れたならどんなに幸いなことでしょうか。
もちろんこのように私たちが祈れるのは私たちの努力の賜物ではありません。私たちに救い主イエスを遣わして、私たちの命を回復させてくださった方が、私たちに預けた命の価値を私たちに今日も示してくださったからこそ、私たちはその一日を感謝して終えることできるのです。
そう考えて見ると、イエスの語られた終末についての教えははるか未来のことを語っているのではなく、私たちが一日の生活の終わりのたびに終末を体験していることを教えていると言えるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.ある人が旅行に出かけるとき、その僕たちを呼んで、どのようなことをしましたか(14~15節)
2.主人から大切なタラントンを預かったそれぞれの僕はそこでどのようなことをしましたか(16~17節)。
3.主人が帰って来て決算を始めた時、その主人はそれぞれの僕をどのように評価しましたか(19~23節、26~30節)。
4.一タラントンを主人から預かった僕は、そのタラントンを地中の中に隠してしまった理由をどのように説明していますか(24~25節)。
5.この一タラントを預かった僕の言葉から、彼が自分の主人をどのように思っていたことが分かりますか。あなたはあなたに命を与えてくださる神をどのように思っていますか。