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2020.12.6「死に至るまで忠実であれ」

ヨハネの黙示録2章8〜11節

8 スミルナにある教会の天使にこう書き送れ。『最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。

9 「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、わたしは知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。

10 あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。

11 耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」』


1.豊かな町に住む貧しいキリスト者

①古代教会の宣教活動を支えた黙示録のメッセージ

 神学校の校長を務めている吉田隆先生が昨年、「キリスト教の“はじまり”」と言う古代教会の歴史に関する本を出版されました。私たちの教会もこの読書会をしようと計画を立てていたのですが、その後発生したコロナウイルスの関係からまだその計画が実行できずにいるのが残念です。なぜ、私が先生の書いた古代教会史を学んでみたいと思ったのかと言えば、吉田先生がこの本の中で「古代教会の置かれた状況は異教社会の中で生きる私たち日本の教会の状況と類似している」と語っていたからです。そのため「私たち日本の教会は古代教会の歩みから様々なことを学ぶことができる」という勧めを吉田先生はしています。

 おそらく、多くの日本人にとっては「キリスト教は西洋の宗教」と言う印象が今でも強いかもしれません。しかし、実際にはキリスト教はアジアの西の果てに位置するパレスチナの地で生まれた宗教であると言うことができます。やがてそのアジアの宗教がヨーロッパ全体に伝わり、さらにはアメリカ大陸を経て他の様々な国に広まって行ったのです。このようにキリスト教は初めから世界的な宗教ではありませんでした。最初はイエスの弟子たちの小さな群れから始まった教会が、やがてギリシャやローマの社会に伝えられて、各地に教会が建てられるようになります。そしてこれらの教会を作り出した宣教活動は多くの無名な伝道者や信仰者によってなされたものであると言えるのです。彼らは古代ローマと言う異教社会の中で苦難を受けながらもキリストの福音を大胆に宣べ伝えました。その彼らの活動を支えたものとして、今、私たちが学んでいる黙示録のメッセージがあったと言えるのです。なぜなら古代教会の人々はこの黙示録の言葉に慰めを受け、また希望を持って信仰生活を送ったと考えることができるからです。ですから私たちもこの黙示録を学ぶことで私たちに与えられている福音伝道の使命を果たして行きたいと思うのです。


②殉教の死の危機に直面していた教会

 今日私たちは学ぶテキストは黙示録に登場する七つの教会の内の二番目であるスミルナと言う教会に宛てられた栄光の主イエスの言葉です。このスミルナは現在のトルコでは「イズミル」と呼ばれている町になります。このスミルナは私たちが前回学びましたエフェソと同じようにトルコの西海岸、エーゲ海に面した港町として知られています。さらにスミルナはエフェソから50キロほど離れたところ位置しています。教会の伝承ではこの黙示録を記したヨハネはエフェソ教会の指導者の一人と考えられています。ですからこのエフェソ教会の近くにあったこのスミルナの教会の人々もヨハネのことをよく知っていたと考えることができるのです。

 スミルナは深い湾の奥にあった安全な港町で、当時はとても豊かに栄えた町であったとされています。またこの都市は早くからローマの皇帝に対して忠誠を誓い、その見返りとしてローマから様々な特権を受けていました。つまり、スミルナは近隣の他の都市よりもローマ皇帝との関係が深かったと言えるのです。ですからこのローマ皇帝がキリスト教徒を弾圧しようと考えれば、スミルナの人々はまっさきにその指図に従い、キリスト教徒を迫害したのです。スミルナの人々にとってキリスト教徒を迫害することはローマ皇帝から自分たちが好意を受けるために必要なことであったと言えるからです。

「スミルナにある教会の天使にこう書き送れ。『最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。』」(8節)

 ここでの主イエスの自己紹介は先に学んだ1章17〜18節の言葉と同じです。しかし、この自己紹介がスミルナの教会の人々に対して再び語られていることには意味があると言えます。なぜならイエスはここで自分が死から甦り、その死に勝利された方であることを明らかにしようとしているからです。一方、スミルナの教会の人々はこのとき、厳しい迫害のために死と言う現実と向き合わなければならない立場に立たされていました。彼らは信仰を守り通すために、殉教の死を覚悟しなければならない状況に追い込まれていたのです。ですから、主イエスはまずここでその死にご自身が勝利されたことを明らかにされたのです。そのことによって私たちの地上の死に伴う様々な呪いは取り除かれたことを語り、私たちにとって地上の死はもはや私たちに禍をもたらすものではなくなってしまっていることを明らかにしようとしたのです。


2.誰が本当のアブラハムの子孫か

①キリスト教会と敵対するユダヤ人

「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、わたしは知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。」(9節)

 紀元70年に起こったローマ軍によるエルサエム陥落によりたくさんのユダヤ人が国を失い、各地に散らされました。そのユダヤ人たちの一部がこのスミルナの町にも移り住み、大きな共同体を作っていたと考えられています。ですからスミルナ教会は皇帝崇拝を奨励する人々とともに、このユダヤ人たちの共同体からも迫害を受けることになったのです。

 かつてキリストを信じる前のパウロがそうであったように、彼らユダヤ人は自分たちの信仰的立場からキリスト教会を迫害しようとしました。もし、キリスト教の教義を受け入れれば、アブラハムの子孫であることを頼りとし、聖書の律法を厳格に守ることでユダヤ人としての誇りを守ろうとする彼らの信仰が破壊されてしまうと考えたからです。


②私は知っている

 「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている」と栄光の主イエスはスミルナの教会の人々に語りかけています。ここで使われている「貧しい」と言う言葉は単なる貧しさを語るのではなく、むしろ「極貧」と言えるような極度の貧しさを表す言葉です。スミルナの事情をよく理解できない人から見れば、彼らは「神から罰を受けているから…」、「神から見放されているから…」と考えられてもよい状況に彼らは立たされていました。しかし、そのスミルナの教会の人々に向かって主イエスは「わたしは(あなたたちを)知っている」と語ってくださっているのです。この言葉は彼らに対して投げかけられた人々の誤った判断を覆し、彼らの正しい姿を表すものです。人からどのように見えたとしても、彼らは神から見捨てられていません。イエスは今でもこの教会の人々に深く関わっていてくださるのです。羊飼いがその羊を一匹一匹よく知ってくださっているように、スミルナの教会の人々は主イエスの愛の対象とされていることがこの言葉から分かるのです。


③あなたたちは豊かなのだ

 一方、教会を迫害するユダヤ人たちは主イエスから「真のユダヤ人ではない」と判断されています。彼らは「サタンの集いに属している」とまで言われているのです。サタンは神に敵対する者の代表者です。ユダヤ人たちはキリスト教会を迫害することで、神の救いの計画が地上に実現することを妨害し、その意味で「神に敵対する人々になってしまっている」と言われているのです。

 パウロはローマの信徒への手紙の中でアブラハムの真の子孫とはアブラハムと同じようにキリストを信じて歩むキリスト者のことであると教えています(ローマ2章28〜29節、4章参照)。なぜなら、アブラハムは神の約束を信じることで、その約束の中に示された救い主イエスを信じ、そのイエスによって救われた人だと言えるからです。しかしユダヤ人たちはこのアブラハムの信仰を無視して、勝手に律法主義という違った信仰を作り出してしまったのです。

 神はこのアブラハムの信仰を認め、彼と彼の子孫に豊かな祝福を与えると約束してくださいました。だから真のアブラハムの子孫とされたキリスト教会はその祝福を受け継ぐものとされているのです。キリストはこの貧しい教会の人々に「本当はあなたがたは豊かなのだ」と言ってくださっています。この言葉はスミルナの人々が間違いなく信仰によってアブラハムの子孫とされていること、そしてそのアブラハムに約束された祝福を受け継ぐ者とされていることを明らかにしているのです。


3.教会を支える主イエスの愛

①スミルナ教会の人々は完璧であったか?

「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(10節)

 このスミルナの教会への手紙の特徴は、先に学んだエフェソの教会の人々のように「初めのころの愛から離れてしまった」(4節)と言ったような主イエスからのお叱りの言葉を一言も受けていないと言うところにあります。どんなに完璧に見える人であっても、よく探せばどこかにその人の欠点を探し出すことができます。しかし、このスミルナ教会はそのような欠点を主イエスから指摘されていないのです。

 しかし私はそれでも「だからスミルナ教会の人々は完璧な人々であった」とは言うことはできないと思います。なぜなら完璧な人々に救い主の助けは必要ないと言えるからです。「医者を必要としているのは病人だ」と主イエスも語って下さっている通りです(マルコ2章17節)。

 スミルナ教会の人々は厳しい迫害の中で苦しんでいました。貧しさの中で困り果てていたはずです。どんな人間もそのような立場に立たされたら弱音をはくかもしれません。スミルナ教会の人々もそうではなかったでしょうか。信仰は我慢比べではありません。「誰が最後まで我慢できるか。最後まで我慢した人が救われる」となるなら、私たちの誰がその救いに入ることができるでしょうか。私たちを救うのは私たちの我慢では決してないのです。それでは何が私たちを救ってくれるのでしょうか。私たちのために十字架にかかって、復活された救い主イエスこそが私たちを救うことがおできになる唯一人のお方なのです。

 おそらくスミルナ教会の人はそのイエスの愛の中に生きることができた人々だと考えることができます。厳しい迫害と試練の中で弱音を吐くとき、その自分たちのためにキリストが苦しんでくださったと言うことを彼らは思い起こし、そこから慰めを受けることができたのです。私たちの中でも信仰の戦いの中で、自分の信仰の弱さ、そして罪深さを感じない人はいないと思います。「自分の信仰はこんなに弱かったのか…」。「自分はこんなに罪深い人間だったのか…」と改めて痛感させられるような経験を私たちは繰り返しするからです。しかし、そのとき私たちにはどこに目を向けるべきなのでしょうか。私たちは自分を見つめるだけでは絶望するしかありません。しかしこんなときも私たちを愛し、私たちのために命をささげられた主イエスを見つめることを通して、私たちは改めて、この私のためにイエスが救い主となって下さったと言うことを確信することができるのです。

 私たちの中に欠点を持たない者は一人もいません。弱さを持たない者も一人もいないのです。スミルナの教会の人々もそうであったはずです。しかし、彼らはその欠点や弱さを通して、自分たちに向けられるイエスの愛を一層確信することができました。そのことのゆえにスミルナ教会は主イエスから励ましの言葉をいただくことができたと言えるのです。


②ポリュカルポフの殉教

 スミルナ教会への手紙を取り上げる説教者は誰もこの教会の牧師であったポリュカルポフと言う人物の名前をあげています。彼はスミルナの教会の牧師でこの黙示録を記したヨハネの弟子であったとされています。彼は紀元155年にこのスミルナの町の人々に捕らえられ、火刑に処せられて殉教した人物としてキリスト教会の歴史に名が残されています。彼は町の人々から「信仰を捨てれば助けよう」と言われたときに「私の生涯の中で主イエスはただの一度も私に対して害を加えたことはありませんでした。このように私を救ってくださった主を、どうして私が捨てることができるでしょうか…」と語って殉教の死を遂げたと言われています。この言葉からもポリュカルポフはその生涯にわたって、救い主イエスを見つめ続け、その愛によって生かされた人物であったと考えることができるのです。

 完璧で特別に強さを持った人だけが信仰を最後まで守りぬくことができるのではありません。欠点を持ち、また弱さを持つ私たちを愛してくださり、その私たちに許しを与えてくださるイエスが、私たちの信仰を守り導いてくださるのです。

「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」

 この主イエスの言葉の「死」には定冠詞がついていませんから、私たち人間の一般的な死の事実が語らえていると言ってよいでしょう。しかし、「命の冠」の「命」には定冠詞がついています。つまり、この命は一般的な命ではなく、特別な命、主イエスが私たちに与えてくださる永遠の命のことを語っていると言えるのです。

 私たちを愛し、私たちの生涯を導いてくださる主イエスが、私たちのために永遠の命をあたかも競技に出場して優勝した選手が受ける冠のように、私たちに与えて下さると約束されているのです。だからこそ、この主イエスによって私たちの地上の死は「永遠の命への入り口と変わった」という教会の信仰告白(ハイデルベルク信仰問答42問)の言葉を私たちは信じ、希望を持って生きることができると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.スミルナ教会の人々にイエスはどのような自己紹介を語っていますか(8節)

2.9節に語れている言葉からスミルナの教会の人々がこのとき、どのような状況に追い込まれてことが分かりますか。

3.主イエスはスミルナの教会の人々がこれから受けようとしている苦難を「恐れてはならない」と語っています。主イエスはどうしてそう言われているのでしょうか(10節)。

2020.12.6「死に至るまで忠実であれ」