2020.2.16「共に喜ぶ」
フィリピの信徒への手紙2章12〜18節(新P. 138)
12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
16 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。
18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
1.フィリピ教会の人々に従順を求めるパウロ
①危険な従順
今日も皆さんと一緒にフィリピの信徒への手紙を続けて学びたいと思います。前回の箇所ではパウロが当時、多くの人たちに知られていた賛美歌の歌詞を引用して、この手紙を読む人々にイエス・キリストが示した謙遜の模範に従うようにと教えました。神の子であったイエス・キリストが私たち人間と同じ姿を取られて、十字架の死に至るまで父なる神に従順であったと言う歌の歌詞をパウロは引用しながら、今日の部分ではフィリピの信徒たちに対しても「従順でありなさい」と勧めています。パウロは信仰者の生活にとって一番大切なことはこの従順であると教えているのです。
現代人の私たちは「従順」と言う言葉をあまり身近なところで聞くことはないかも知れません。しかしかつては私たちの住むこの日本の社会でも様々な権威を尊ぶことが当然だとされていました。戦前は学校教育などを通して「天皇陛下に従え」と国民は教えられました。また、それ以前の江戸時代には殿様や上に立つ権威に従うことが武士にとっての美徳と教えられた時代がありました。しかし、現代社会のように様々な権威が否定されて、自分以外の誰かに従うことはむしろ愚かなことだと考えられるようになった時代に生きる私たちにとっては「従順」と言う言葉の意味は分かったとしても、この言葉は自分の生活とは関係のない死語のように考えられているかも知れません。
確かに安易に人や権力に無批判に従うことは危険であると言えます。かつての日本では天皇への従順を誓わされた国民が無謀な戦争へと駆り出され、多くの犠牲者が生まれました。従うべき権威が誤った判断をすれば、それに従う人々にも大きな災いがふりかかります。そのような意味では「ただ従順でありなさい」と言う勧めには私たちは用心する必要があるのかもしれません。
②神への従順を勧めるパウロ
しかし、私たちが唯一、無条件に従順を示してもよいお方がおられます。パウロがここで勧めている従順の対象は、そのお一人の方、私たち人間を造り、天地万物を治めておらえる真の神です。私たち人間はこの真の神に従順に生きることで、祝福された人生を送ることができるのです。だから誤り得る人間ではなく、全能の神を自分の指導者と仰いで生きること、その神に従順に生きることを聖書は私たちに勧めているのです。
パウロとこの手紙を最初に受け取ったフィリピ教会の人々との間には特別な関係がありました。フィリピ教会はこの手紙の著者であるパウロの伝道によって生み出された教会だったからです。パウロの語る福音の教えを受け入れて、彼の指導に従順に従った人々がこのフィリピ教会を作ったのです。また、実際に私たちが学んでいるフィリピの信徒への手紙がこのような文章として残されている理由は、パウロがフィリピを旅立って行った後でも、フィリピの教会の人々はパウロを自分たちのリーダーと考え続け、彼の言葉に従おうとしていたからだと言えます。だからパウロはそのように思っているフィリピの教会の人々を指導するために手紙を書いたのです。
そしてパウロはここでフィリピの人々にかつて自分に示した彼らの従順を、真の神に示して生きなさいと教えています。なぜなら、フィリピの人々の本当のリーダーは真の神お一人しかおられないからです。そして伝道者パウロに与えられた使命は人々がすべてこの真のリーダーである神に目を向け、神に従順に生きることを勧めることにあったのです。
2.自分が選び、自分で決断して生きる
「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)。
民主主義が発達した現代でも世界ではたくさんの独裁者が権力を握っています。どうしてこのような独裁者が生まれるのか。かつて独裁者が生まれる原因を探った社会心理学者がいました。彼によれば自分で自分の人生の責任を負いたくないという大衆の真理が、「わたしに従えば大丈夫」と語る独裁者を待望し、新たな独裁者を産む原因となったと言われています。黙って他人に従うことの利点は、自分は何も考えなくてもよいと言うところにあります。しかし、パウロはフィリピの教会の人々に「神に従順に生きなさい」とは勧めますが、「あなたたちは何も考えなくてもよい、あなたたちは何もしなくてもよい」とは決して教えていないのです。
パウロはここでむしろ、フィリピの人々に「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と教えています。信仰生活はエスカレーターに乗っているように、自分の足で歩かなくても、自動で目的の階まで運んでくれるものではありません。神を信じた私たちは自分の足で歩まなければなりませんし、そのためには自分で自分の人生の行く手を決めていかなければなりません。
洗礼を受けるのも、聖餐式に参加するのも誰かに強いられてするのではありません。私たちが決断して神の恵みを受けるためにそれらのものにあずかるのです。永遠の命の道を進むのか、それとも空しい人生を送って本当の命まで失ってしまうのか…。そのどちらかを選び、決めるのは私たち自身です。パウロはその決断が私たちの人生にとって重要なことであるからこそ、「恐れおののきつつ」それをしなさいと教えています。私たちの今日の決断が、私たちのこれからの人生の歩みを変えていきます。だからこそ、私たちは今、神に従うことを、神の祝福を受けることを自分で選び取る必要があるのです。
3.神に喜んで従う自由
「自分の救いを達成するように努めなさい」。私たちはこの言葉を読むと、何かパウロがいつも言っていることと矛盾することを彼は言い出しているのではないかと疑問に思います。なぜなら、パウロは私たちが救われるためには私たちのなす業は一切通用しないことを何度も語っているからです。私たちが救われるために御子イエスが十字架にかかり、私たちの罪に勝利してくださったからこそ私たちは救われると彼は教えました。私たちの救いは自分の力ではなく、ただ神からの恵みとして私たちに与えられることを教えてくれたのはパウロであったはずです。そのパウロが今度はまるで自分の意見を変えてしまったかのように、フィリピの教会の人々に向かて「自分の救いを達成するように努めなさい」とここで教えはじめています。これはいったいどういうことなのでしょうか。私たちはパウロの言葉尻だけを捕らえてこの文章を誤解しないようにすべきです。なぜなら、パウロはこの言葉の後に続けて次のように説明しているからです。
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(13節)。
私たちが自分の悲惨な人生から救われたいと言う思いをいだくようになったのは、神が私たちの内で働いてくださるからだとパウロは教えています。私たちが礼拝の中で読んでいるウエストミンスター小教理問答書の中には「有効召命」と言うちょっと難しい言葉が登場しています。主イエスが私たちの心に送ってくださる聖霊が、私たちの心を変えて神に向かわせることを「有効召命」と言うのです。それまでは、神に対して無関心で、自分の救いのことなど一切考えてこなかった私たち、むしろ自分で自分の人生を破壊してしまうような決断を喜んでしていた私たちの心が神の御業によって変えられることを言っているのです。これこそ神の御業であり、私たちが自分の人生で体験する神の奇跡と呼べるのです。
ですから、私たちが「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努め」ようにと言うパウロの勧めに従って生きることができるのは、この神の御業があるからです。つまり、私たちが神に従う決断ができるのも、自分が救われるために必死になって生きることができるのも、この神の御業の結果であり、すべたが神の恵みだと言えるのです。
かつて宗教改革者マルチン・ルターは私たちキリスト者に神が与えてくださった自由は、私たちが喜んで神に従うことができる自由だと説明しました。それまでの私たちは罪の奴隷となって生きるしかなく、神に従うことは全くできなかったのです。しかし、キリストによって罪の奴隷から解放された私たちは聖霊の有効召命によって、今、神に従う自由を恵みとして与えられているのです。
4. 不平や理屈
このように神への従順を勧めるパウロは、次にフィリピの教会の人々に向かって「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)と教えています。
かつてイスラエルの民がエジプトで奴隷として過酷な生活を送っていたとき、神は彼らにモーセと言う人物を遣わして彼らを救おうとされました。神はイスラエルの民に彼らを必ず救い出すと約束されたのです。神が約束を忘れることは決してありません。神はご自分が誓われた約束を必ず実現してくださるのです。そのことを私たちに教えているのが旧約聖書の出エジプト記の物語だと言えるのです。
神は約束を必ず守ってくださる方です。ところが人間の側はそうではありません。人間は神が誓ってくださった大切な約束をすぐに忘れてしまうのです。そして神の約束を忘れた人間が必ずすることがあります。それは自分の力や経験を唯一の判断基準として生きようとすることです。「自分には今、何ができるか。今まで何をしてきたか…」。確かに私たちが慎重に人生を送るためには、それを考えることは大切です。しかし、自分の力と自分の経験だけを唯一の判断基準とする私たちは、そこでどうしても「自分には無理だ」と言う結論に至るのです。
イスラエルの民が約束の地に入ろうとしたときもそうでした。「自分たちの力はあまりにも弱い、実際に自分たちはそのために何度も辛酸をなめてきた、だから約束の地に入っても、すぐにそこに住む敵たちに自分たちは滅ぼされてしまう」と結論づけたのです。そして彼らは挙句の果てに、自分をそこまで連れてきた神に不平をぶつけました。「どうして自分たちをここまで連れて来たのか。エジプトにいた方がよっぽどましだった」と。この出来事を踏まえて「不平や理屈」には用心しなさいとパウロは教えているのです。そして私たちがこの「不平や理屈」から守られる方法はただ一つです。それは私たちに対して語られた神の約束を思い出すことです。そしてその約束を実現してくださる神の御業に心から信頼して生きることだと言うのです。
5.私たちに与えられた神の祝福
①世にあって星のように輝く
そしてパウロはフィリピの教会の人々に自分が勧めるように神に従順に生きるなら、どのようにその人生は祝福されるかを次のような言葉で表現しています。
「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(15〜16節)。
私たちが「非のうちどころのない神の子」として生きることができるのは、私たちのために主イエスが十字架にかかってくださり、私たちの罪を解決してくださったからです。私たちはだからこのイエスによって「神の子」とされるのです。私たちは誰も、神を「父なる神」と呼んで祈る資格を本来は持っていませんでした。だから、私たちが神を「父」と呼んで祈れるのは、イエスがその権利を私たちに与えてくださったからなのです。私たちが神に祈ることは「義務」ではありません。祈ることができるのは神から私たちに与えられた「特権」なのです。そしてどんな時も神を父と呼んで祈れる私たちは「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかりと保って」生きることができると言うのです。
②私たちのために世に勝利してくださったキリスト
さてパウロは次に「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」(16節)と続けて語っています。私たちは簡単に自分の人生を無駄であったと考えてはなりません。なぜなら、私たちがこの世で支払った労苦の本当の意味は私たちが神のみ前に立つ時になって、はっきりと分かってくるからです。私たちはこの世で様々な試練に出会うことになります。主イエスは私たちにそう語っています。そしてイエスは「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)と私たちに約束してくださっているのです。
このイエスの約束の言葉に従うならば、私たちの人生にどのようなことが起こったとしても、そのすべては私たちがこの世に勝利するための道のりであり、そこで払う労苦は一切無駄になることはないと言うことができるはずです。パウロはこの主イエスの約束を信じて生きました。そしてパウロはこの手紙の読者たちも、このイエスの約束を信じて生きるようにと促しています。そうすれば、私たちもパウロと同じように自分の人生でのすべての労苦が無駄ではなかったことを知る日を喜びを持って迎えることができるのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
私たちがこの世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかりと保って生きるために、私たちに聖霊を遣わして、私たちの心を変えてくださるあなたの御業に心から感謝します。私たちは今、その御業によって神に喜んで従うことのできる自由を与えられています。どうか私たちが恐れとおののきを持って自分の救いのために信仰の戦いを続けることができるようにしてください。そして私たちがこの世で払ったすべての労苦がすべて大切な意味があったことを知ることができる日を迎えることができるようにしてください。
これらの祈りを私たちの神の子としてくださるために救いの御業成し遂げられた主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.パウロは自分が共にいたときだけではなく、フィリピの教会の人々に今もどのように生きるようにと教えていますか。またそのために何に努めるようにと勧めていますか(12節)。
2.このパウロの「自分の救いを達成するために努めなさい」の勧めは、私たちは神の恵みによって救われるという教えとどのように関係してくるのでしょうか(13節)。
3.私たちが「不平や理屈」を言わないためには、何を思い出し、また信頼する必要がありますか。
4.この世の中で神に従順に従う者は人生はどのように祝福されるとパウロは教えていますか(15〜16節)。
5.17〜18節の言葉を読むと、パウロが自分の殉教の死を覚悟しているような表現が記されています。それでもパウロが喜ぶことができ、またフィリピの教会の人々にも「一緒に喜びなさい」と言えた理由はどこにあると思いますか。