2020.2.2「へりくだられたキリスト」
フィリピの信徒への手紙2章1〜11節(新P. 362)
1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
1.勧めを実現させる力
①信仰のための苦しみと喜びの関係
今日も皆さんと共に使徒パウロの記したフィリピの信徒への手紙から学びます。前回、学んだ箇所でパウロはフィリピの教会の人々に対して次のような言葉を語っています。
「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(1章29節)。
パウロはフィリピの教会の人々に信仰の戦いを自分と共に戦ってほしいと願っていました。パウロはこのときキリストへの信仰を持ち続け、キリストから与えられた使命に生きようとしたために囚人として捕らえられローマの牢獄で不自由な生活を送っていました。この時のパウロが置かれた状況からもわかる様に、キリストを信じる信仰を持って生きるためにはこの世との戦いを回避することはできません。救い主イエスも地上で公生涯を送る際に厳しい信仰の戦いを経験されました。もしこの戦いがなかったらイエスの十字架と復活の勝利はあり得ませんでした。同じようにキリストの弟子たち、使徒たちの信仰の歩みも戦いの連続であったと言えます。そして彼らのその戦いの結果、キリストの福音は世界に伝わることができたのです。
パウロはここで私たちが経験する信仰のための戦いは、神が信仰を私たちに与えてくださったのと同じように、神から与えられたものだと説明しています。なぜ私たちの信仰生活に「苦しみ」が与えられるのか?パウロはその質問の答えとしてこの「苦しみ」は苦しみに終わるのではなく、私たちを信仰の勝利へと導くものだと教えているのです。
このフィリピの信徒への手紙は多くの人から「喜びの手紙」と呼ばれて来ました。その理由はこの手紙の中でパウロは私たちに「常に喜びなさい」(4章4節)と勧めているからです。そのような意味でこの手紙は私たちがいつでも喜ぶことのできる秘訣を教えていると言えるのです。そう考えるとパウロは私たちがキリストとのために苦しむことも私たちの喜びにつながると説明していると考えることができます。そこで私たちは今日もこの喜びの秘訣をパウロの手紙から学び続けて行きたいと思うのです。
②私たちの信仰生活の根拠である三位一体の神
先日、聖書研究会の内容を通してある方から「パウロがどのように三位一体の神を教えているか説明してほしい」と言った質問を受けました。三位一体という教理はキリスト教会がもっとも重要な教えとして受け継いできたものです。しかし、残念ながら聖書には「三位一体」と言う言葉はどこにも記されていません。また、この三位一体の教えを簡潔な言葉で説明する聖書箇所も存在していません。この教理はキリスト教会が聖書全体の教えから引き継ぎ、信じてきたものだと言って良いのです。パウロもはっきりとした言葉でこの三位一体の教えを語ることはありませんでしたが、パウロが三位一体の神に対する信仰を持っていたことは、彼の書いた様々な文章から分かるのです。今日の聖書の箇所でもパウロの三位一体の神への信仰をまず表しています。
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら…」(1節)。
ここでパウロは「キリストによる励まし」、そして父なる神の「愛の慰め」、そして聖霊による「交わり」を通して私たちに慈しみや憐れみの心が与えられたことをまず語っています。パウロは今、自分たちが信仰生活を送り、信仰の戦いを戦いぬくことができるのはこの三位一体の神の御業が私たちの信仰生活を通して実現しているからだと教えるのです。このような意味でパウロにとって三位一体の神への教えは、知識好きの神学者たちが興味をもつような話題の一つではなく、自分の信仰を成り立たせる唯一の根拠として信じていたことが分かります。
パウロはこの2章の最初の部分でフィリピの教会の人々に「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」ほしいと願っています(2節)。信仰の戦いを続けている教会にとって大切なことはそこに集まる信仰の仲間たちが「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」することです。そしてパウロはそれを可能にする根拠をここで示しているのです。「それはあなたたちの努力の結果のように思えるかもしれないが、決してそうではない。三位一体の神がそれを可能にしてくださるようにあなたたちに働きかけてくださるからだ」とパウロは言っているのです。誤解がないように語れば、パウロは私たちに信仰生活のために努力する必要はないと言っているのではありません。むしろ、パウロは私たちに、自分たちが努力できる根拠を示そうとしているのです。もしこの根拠が私たち自身の内側から出て来る何らかの力だとしたら、これほど頼りにならないものはありません。どんな人にも自分の持っている力が失われるときがやって来るからです。しかし、神が私たちにその力を与えてくださるのです。だから、キリストに救われている者であるなら、「わたしにはそれができません」と言うことはできないのです。それができる根拠は私たちの内側にあるのではなく、神から、私たちの外側から与えられるからです。
このようにパウロは私たちが「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つに」できるようになる根拠をここでまず最初に示しながら、続けて、「どのようにすればそれが可能なのか」と言う問いに、その方法はすでにキリストがご自分の生き方を通して示されていると答えるのです。だからそのためにも。私たちにキリストの示された模範に従うようにと勧めているのです。
2.他人は自分より優れている
①利己心や虚栄心からではなく
パウロは私たちが「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つに」するためにここで一つの具体的な方法を示しています。そしてパウロはその方法はキリスト自身も模範を示されたものであると教えているのです。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」(3〜5節)
私たちは普段、自分の存在をなんとか他人に示そうとして必死になって行動しています。それは社会から認められずに、自分が忘れられてしまうことに恐怖感を覚えるからです。ここでパウロが語っている「利己心や虚栄心」とは私たちが他人を押し除けて、自分を示そうとする生き方を表しています。それではパウロはなぜ、私たちの信仰生活にとって「利己心や虚栄心」は不必要だと言っているのでしょうか。それは私たちを神が認めてくださっているからです。私たちを正しく評価できるのは神御自身なのです。だから人を恐れるのでなく、神を恐れて生きることが私たちの信仰生活では大切であるとイエスご自身も私たちに教えてくださっているのです(マタイ10章28節)。
そしてパウロは「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」なさいとさらに勧めています。「へりくだる」こと、つまり謙遜になることは私たちの社会でも美徳の一つとして教えられてきたものです。しかし、パウロはさら私たちが「へりくだる」ことができるために私たちが「互いに相手を自分よりも優れた者と考え」るようにと教えているのです。これはどういう意味なのでしょうか。「どうせ自分は一番ダメな人間だ。みんなより自分は劣っている」。私たちにそのような劣等感を持って生きなさいと言うことなのでしょうか。決してそうではありません。なぜなら劣等感は結局、私たちが自分自身を受け入れることのできないことで起こる感情だからです。だからあるがままの自分を受け入れることのできない人は強い劣等感を抱くことになります。
②相手を優れた者として見る
先ほども語りましたように、イエス・キリストを信じる者は劣等感を抱く必要はありません。なぜなら私たちは神によって受け入れられているからです。神は十字架のイエス・キリストの御業を通して私たちをありのままで受け入れてくださったのです。だからこの事実を知るもの、信じる者は劣等感からも自由にされるのです。
しかし、ここで大切なことがあります。それは神が私をそのままで受け入れてくださっているように、その神は私の教会の仲間たちも同じようにそのままで受け入れてくださっていると言うことです。神が私を愛してイエス・キリストの命を与えてくださったように、教会に集まる兄弟姉妹も同じように神の愛の対象であり、キリストの命が与えられた人たちなのです。この事実に立ってパウロは教会の仲間を裁く過ちを行っている人を戒めて、ローマの信徒への手紙の中で「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(14章15節)と語っています。だから他人を見下したり、否定することは、神が自分を愛してくださっていると本当に確信して生きている者から出てこないものなのです。
それではどうのようにしたら、私たちは「相手が優れている」と思えるのでしょうか。「そう思って一生懸命その人の長所を捜してみたけれども、ちっとも見つからないで、わるいところだけ思い出して余計腹が立ってしまった…」。皆さんもこれまで、そんな経験をしたことがあるかもしれません。パウロはここでそんな方法を私たちに提案しているのではありません。なぜならパウロは人間にそれぞれ備わった才能をいつも、神から与えられた賜物であると理解していたからです。ですから、他人を優れていると認めることができるのは、神がその人に優れた賜物を与えてくださっているという信仰を持つことがでるからです。確かに神は、教会に集まる私たち一人一人に豊かな賜物を与えてくださっています。神は私たちを工場で作られる製品のように、全く同じものとして造られたのではありません。それぞれに、ふさわしい違った賜物を神は私たちに与えてくださっているのです。だから私たちは「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つに」なる必要があるのです。
そう考えると私たちには一つの希望が与えられてきます。もしかしたら私たちは今まだ、自分に与えられている賜物に気づいていないかもしれません。なぜなら、神さまが私たちに与えてくださった賜物は私たちが教会の兄弟姉妹と一つなって生きるとき、本当の力を発揮することができるのです。私たちに神から与えられた本当の力は、教会の兄弟姉妹と共に生きるときに豊かに表されるものだからです。
③キリストが示された「へりくだり」の模範
さらにパウロは私たちに示された「へりくだり」の見本として6節から13節でイエス・キリストが示された模範を記しています。実はここのところの文章はパウロ自身の作ではなく、この当時、教会で歌われていた賛美歌の中の一節を引用した言葉だと考えられています。なぜならば、この箇所の文章はパウロが普段使っている言葉や表現の仕方とは違ったものが用いられているからです。神の子であるキリストがこの地上に来て示された「へりくだり」の模範を示されてことを語る賛美歌、当時の人々はこの賛美歌を口ずさみながら、キリストに従う信仰生活を送っていたのかも知れません。
実際にキリストが示された生き方には「利己心や虚栄心」は一かけらも見つけることはできません。彼はいつも父なる神の御心に従って生き、そして地上の人々を愛し抜かれました。このキリストの生き方を通して最終的に表されたものは、キリストを地上に遣わされた父なる神の素晴らしさでした。だから人々はこのキリストを見て父なる神をほめたたえることができたのです。
このように考えると「へりくだり」とは私たち自身の存在を示す生き方ではなく、私たちを創り、今も私たちを生かしてくだる神の素晴らしさを表すことであると言えるのです。これは私たちがいつも大切にしている「神の栄光をあらわす人生」と言う人生の目的と同じことを言っていることが分かります(ウエストミンスター小教理問答書第一問)。そしてそのように生きる私たちに神から本当の喜びが与えられるとパウロは語っているのです。
3.パウロの喜び
パウロはフィリピの教会の人々にこのような勧めを語りながら「わたしの喜びを満たしてください」(2節)と語ります。この言葉は「あなたたちが私の言うことを聞いてくれたら、自分は本当にうれしい」と語っているようにも聞こえます。しかし、ある聖書解説者はパウロの喜びは、私たちが毎日の生活の中で一喜一憂するようなその喜びではなく、終末論的な喜びであると言っています。そしてパウロそれ終末的な喜びを先取りして今も喜ぶことができると言っていると解説しているのです。
私たちが本当に喜ぶことできるのは、神の救いがすべて完成して、私たちがキリストの前に立つ時だと考えることができます。なぜなら、そのときになって始めて私たちがこの地上で経験した出来事のすべての意味が私たちに明らかにされるからです。私たちの人生には様々なことが起こります。私たちには未だに、「何であんなことが自分の人生に起こったのだろうか…」そう思わされるような出来事があるはずです。しかし、私たちが天国でキリストに出会うとき、すべての謎が解かれる時がやって来るのです。パウロは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8章28節)とローマの信徒への手紙の中でも語っています。パウロが語ったこの言葉はキリストによって訪れるはずの終末を先取りした言葉だと言ってよいでしょう。今の私たちには分かりませんが、私たちがこの地上で味わった苦しみさえも、神の救いのためにであったことが分かるときが必ずやって来るのです。パウロはその喜びをフィリピの教会の人々も持ってほしいと願っています。
私たちが「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」することができるのは神の恵みの結果です。そして私たちがそのように生きることができるようにと、キリストご自身が私たちに「へりくだり」の模範を示されました。このキリストの模範に従って生きるなら、私たちもまたパウロと同じように終末的な喜びを共にすることができます。私たちの地上の生涯で起こる出来事は何一つ無意味なことはありません。私たちがそのことを実際に確信できるときが必ずやって来ることをパウロは私たちに教えているのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
私たちのために三位一体の神が私たちに働いてくださり、私たちが信仰生活を送ることができるようにしてくださることを心より感謝いたします。その神によって受け入れられて集まった私たちが、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つ」にすることができるように助けてください。私たちが互いに与えられた神からの賜物を認め合い、協力しあうことができるようにしてください。すべての出来事を私たちの救いのために用いてくだるあなたを信じます。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.パウロはフィリピの教会の人々が「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つ」にすることができるために神は何をしてくださったと説明していますか(1〜2節)。
2.パウロはフィリピの教会の人々が一つとなって信仰の戦いを続けるために、どのようなことに心がけるようにと教えていますか(3〜4節)。
3.キリストが示された「へりくだり」の模範とはどのようなものですか(6〜8節)
4.このようなキリストのへりくだりを通して何が明らかになったとパウロは教えていますか(9〜11節)。
5.あなたは実際の教会生活の中でキリストが示されたよう「へりくだり」の模範に従おうとしていますか。今日のパウロの言葉から考えるとき、あなたが「へりくだる」ためには何が一番大切だと思いますか。