2020.2.23「主に結ばれている者たち」
フィリピの信徒への手紙2章19〜30節(新P. 363)
19 さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。
20 テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。
21 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
22 テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。
23 そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。
24 わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。
25 ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、
26 しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。
27 実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。
28 そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。
29 だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。
30 わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。
1.パウロ フィリピ教会のため
①伝道者は孤独か?
今日もフィリピの信徒への手紙から学びたいと思います。この聖書を読みながら、私は今から40年近く前に神戸の改革派神学校に入学した頃のある出来事を思い出しました。私はそのとき「自分は牧師となる」と言う大きな決心をして見知らぬ神戸の地にまでやって来ました。今考えると不思議なのですが、当時神学校では入学式の直前に教授たちが入学予定者の面接を行うことになっていました。もう荷物もすべて神戸に送ってしまい、故郷に戻ることはできません。私は「もし、この面接で神学校への入学が拒否されてしまったらどうしよう…」という不安を抱きながら教授室のとびらを叩き、中に入りました。そこには神学校の難しい顔をした何人かの教師たちが座っています。私はこのときに神学校の校長から「牧師という職業について君はどう思うかね…」と質問を受けました。そこで私は「はい、牧師は孤独な職業だと思います」と答えて、教授たちの失笑を買ったことを今でも覚えているのです。当時の私がなぜ、そんな珍回答を語ってしまったのか、今ではその理由も思い出せません。もしかしたらそれまで身近に接してきた牧師の姿からそのような印象を私を私は受けていたのかもしれません。だから、思わずそんな答えをしてしまったのかなと思うのです。
しかし、その後私が神学校を卒業して実際に牧師として働くようになってわかったことは、決して牧師は孤独ではないということです。私はこれまで牧師をしていてたくさんの人々に巡り合うことができました。たくさんの友人に巡り合い、その友人たちの祈りと支えによって牧師を今まで続けることができて来たのです。これらの人との出会いは私がイエス・キリストを自分の救い主として受け入れることを通して実現したものであると言えます。そのような意味で彼らは救い主イエスが私にめぐり合わせてくださった人々だと言ってよいのかもしれません。
今日のフィリピの信徒への手紙にはパウロが挙げた二人の人物の名前が登場しています。パウロにとってこの二人の人物は主イエスがめぐり合わせてくださった大切な友であり、信仰の仲間、そして伝道活動を行うために共に働く同労者でした。今日はこの箇所に登場する人々とパウロの関係から私たちのために立てられた神の計画の素晴らしさについて少し考えて見たいのです。
②パウロの計画と神の計画
これまで学んで来たように、パウロはこの手紙を書いたときにローマの獄中に捕らわれの身となっていました。使徒言行録によればパウロはローマの街で、自費で宿舎を借り、そこで面会者とも自由に話し合うことができたと報告されています(使徒28章30〜31節)。今で言えば、パウロは裁判の判決を待つ保釈中の囚人であったと考えたらよいと思います。パウロのこれからの人生はこの裁判の判決によって決まります。そこでパウロはその裁判で無実とされて釈放されるのか、あるいは有罪となって刑を執行されるのか、最悪の場合には死刑も予想されるような状況に立たされていました。皆さんだったら、このような立場に立たされたらどのような気分になるでしょうか。「これから自分の人生がどうなるか心配で、心配で何もすることができない…」。そんなパニック状態になってもいいような状況に立たされながらもパウロはここで自分のこれからの計画を冷静に立て、それを報告しています。
まず、パウロは自分がもし裁判で無罪となり、死から免れるとしたら、そこには神が自分の人生のために与えてくださった大きな意味があると考えていました。つまり、パウロはフィリピの教会の人々を助け励ますために、神が彼のために時間の猶予をくださったと考えたのです。だからパウロはそのフィリピの教会の人々のためにここで計画を立てているのです。彼はまず自分の協力者であるテモテを彼らのために送ろうと考えました。裁判の判決が出るまでにはまだしばらく時間があります。パウロはそれまでの間に自分の代わって働くことのできるテモテをフィリピの教会の人々に送ろうとしたのです。そしてその後パウロが晴れて自由の身になったら、今度は自分自らがフィリピに訪れる計画を持っていると語っているのです。実はこの計画は実際には実現されることがなかったと考えられています。なぜならパウロはこのローマの地で有罪判決を受けて、殉教の死を遂げたと教会では言い伝えられて来たからです。それではパウロが立てたこの計画は、身の程も知らない者が立てた無謀な計画だったと言えるのでしょうか。
決してそうではありません。なぜならパウロは自分のこの計画について次のような言葉で説明しているからです。
「わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。」(25節)
パウロはこの自分の計画が実現することを「主によって確信している」と語りました。この言葉の意味はどう言うことなのでしょうか。主がパウロに「あなたは必ず、自由の身となってフィリピの街に行くことができる」と教えてくださったから自分はそう確信しているとパウロは言っているのでしょうか。そうではないと思います。パウロはいつも最善の計画を立て導いてくださる方が主なる神であると知ってました。だから、もし自分が立てた計画が実現できなくなったとしても、神はその計画に変わる最善の計画をもって自分やフィリピの教会の人々を導いてくださると信じていたのです。
自分や教会のために計画を立てることは大切であると思います。しかし、私たちがその計画を自分の力や自分の才能だけを根拠にして立て行ったとしたら、どうでしょうか…。確かに物事がうまく進むときは、私たちは次々と新しい計画を立てることができるかも知れません。しかし、ひとたび厳しい失敗を経験すると、私たちはきっとそこで落ち込んでしまって、新たな計画を立てることもできなくなってしまうかも知れません。獄中で自分がこれからどうなるかも分からないパウロは、どうしてその獄中で冷静になって計画を立てることができたのでしょうか。それはパウロが神の確かな計画を信頼していたからです。神は私たちの計画をその計画の一部として大切に用いてくださる方です。だから、パウロは自分の立てた計画が計画通りに進むことがなかったとしても、決してその計画は無意味に終わることがないと信じることができたのです。
2.テモテ=自分のことを追い求めない
さて、パウロは自分がフィリピに行くまでの間、テモテと言う人物を彼らの元に送りたいとここで語っています。
「さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。」(19節)
ここに登場するテモテはパウロの協力者として働いた人物として有名です。彼の父はギリシャ人でしたが、母親は信仰を持つユダヤ人であったとされています(使徒16章1節)。新約聖書にはパウロがこのテモテに宛てて書いた手紙が収録されています。これらの手紙を読むとパウロが特にこのテモテをいつも信頼して心に留めていたことが分かります。おそらくパウロとテモテは親子ほどの年齢の差があったのでしょう。パウロは終生独身を貫いた人物とされていますが、そのパウロはこのテモテを「愛する子」と呼んで、自分の息子のようにかわいがっていたのです。もちろん、だからと言ってパウロがこのテモテを甘やかしていた訳ではありません。むしろ、パウロは自分の働きを引き継ぐことのできる伝道者としてテモテをよく訓練していたことが聖書の記事から分かって来るのです。
パウロはフィリピの教会の人々の元にこのテモテを派遣するにあたって、彼についての推薦状のような言葉をここに記しています。
「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」(20〜22節)。
小会の決定によってこの春の設立記念日にカウンセリングについてのお話を皆さんの前ですることになりました。今、そのためにいろいろな本を読んで勉強しています。カウンセラーの使命は悩みを持ってやってきた人の話を忠実に聞くことであると言われています。なぜならカウンセラーが真剣になって、相談者の話に耳を傾けることで、相談者自らが自分自身の悩みに耳を傾け、結果的にはその自分を受け入れることができるようになるからです。そこでよいカウンセラーになるためには、カウンセラー自身が自分を受け入れていることが大切であるとある書物に書かれていました。なぜなら、自分自身を受け入れることができない人は、他人を通して自分の価値を判断しようとする傾向があるからです。カウンセラーは「あなたは素晴らしい、本当に価値ある人です」と言う言葉を聞くために、相談者の話を聞き、そのような答えを導きだそうと考えるようになります。こうなるとカウンセラーが一生懸命になって相談者の悩みに耳を傾けるのはあくまでも自分が認められるためだと言うことになってしまいます。だからカウンセラーは様々な手段を駆使して、相談者の口から「あなたはすばらしい」と言う言葉を引き出そうとするのです。結果的にこれでは、相談者の本当の声に耳を傾けることができなくなるのです。
パウロはここでテモテについて「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。しかし、テモテという人物はそうではなくあなたがたのことを本当に心にかけることのできる人物だ」と説明しています。つまり、パウロは「テモテが自分の価値を確かめるためにあなたがたを利用する人ではない」とここで言っているのです。なぜ、パウロはこれほどまでにテモテと言う人物を信頼することができたのでしょうか。それはテモテがパウロの伝えるキリストの福音を耳を傾け、その福音を心から受け入れることができた人物であったからです。
キリストの福音は私たちに何を教えるのでしょうか。それはこの私を神がイエス・キリストを通して受け入れてくださったことを教えているのです。このイエスの救いによって私たちは神の子とされました。だから私たちはもはや自分が他人からどう思われているかを心配する必要はありません。なぜなら、神はすでに私たちをキリストにあって神の子として受け入れ、愛してくださっているからです。だからすでに神からの正しい評価を受けている私たちは誰かの助けを得て、自分の価値を確かめる必要はないのです。パウロは「テモテは本当にあなたがたのために働くことのできる人物だ」と推薦しています。神の福音を自分のためではなく、あなたたちのために伝えることができる人物だと言っているのです
3.エパフロディト=病で死にそうになった人
さて、パウロはここでフィリピの教会の人々のためにもう一人の人物エパフロディトを送ると語っています。このエパフロディトはパウロのこの手紙によれば、もともとはフィリピ教会のメンバーの一人でパウロを助けるためにローマに派遣されてきた人物であったようです。フィリピの教会の人々は獄中のパウロを支えるために様々援助物資を送りました。エパフロディトはこの援助物資をパウロのところまで届けるために特別に選ばれた人物であったのです。当時の旅は現愛のように新幹線や飛行機を使うようなものではありませんでした。かなり過酷な旅であったと考えることができます。エパフロディトは幸いにローマのパウロの元に行きつくことができましたが、そこで旅の疲れが出たせいか病気になってしまいました。パウロの記述によればエパフロディトの病状は重く「彼はひん死の重病にかかりました」(27節)と語られています。エパフロディトはパウロを助けるためにやってきたのに、かえってパウロに迷惑をかけることになってしまったのです。エパフロディトはきっとそのことについて心苦しく思っていたのかも知れません。だからパウロはここでフィリピの教会の人々に「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい」(29節)と語りました。そして「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」とパウロはエパフロディトを思いやる言葉をこの手紙に残したのです。
パウロがこれほどまで病気になったエパフロディトを思いやることができたのは、パウロ自身が病気の人の苦しみをよく知っていたからだと考えることができます。聖書を読むとパウロは自らも癒されることのない病を抱えていたと考えられています。パウロはこの病が癒されることを一時期、神に必死になって祈りました。ところが神から与えられた答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリント二12章9節)と言うものでした。もしパウロが病気を全く知らない、健康な人であったなら、ここまで病気になったエパフロディトのことを思いやることはできなかったかもしれません。
カウンセラーになる資格についてある本を読んでいたら、「自分が真剣に悩んだ経験のある人」という条件が書かれていました。その理由は「相談に来る人は病気になるほど、真剣に悩んでいる人なのだからだ」と言うのです。パウロが抱えた病はパウロが人を思いやるために大切なものであったのでしょう。おそらく、ここに登場するエパフロディトも深刻な病気をすることによって、それからの人生が変わって行ったのではないでしょうか。きっとフィリピの教会に帰ったエパフロディトはこのときのパウロと同じように、弱い人を思いやることができる者とされたはずです。私たちの神は私たちの人生に無意味なことを与えることはありません。なぜなら、神が私たちのために立てて下さる計画は最も信頼できるものだからです。パウロもテモテもそしてエパフロディトもこの神の計画の中で用いられた人でした。そして神は私たちも彼らと同じようにその確かな計画の中で用いてくださろうとしているのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
私たちにイエス・キリストの出会いを通して、様々な兄弟姉妹との出会いへと導いてくださるあなたの御業に心から感謝します。あなたは私たちのために最善の計画を持って、ふさわしいときにふさわしい友を与え、私たちの信仰生活を支えてくださいました。どうか私たちも、あなたが出会いを導いてくださった友を慰め励ますことができるようにしてください。そのために、私たちが何よりもキリストの福音を信じ、私たちが神の子とされていることを確信することができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.パウロはこのときどのような目的でテモテをフィリピの教会の人々の元に遣わそうとしていました(19節)
2.このパウロの言葉によればテモテはどのような人物であったことが分かりますか(20〜22節)。
3.この手紙に書かれたパウロの言葉から彼は自分についてこれからどのような計画を立てていたことが分かりますか(23〜24節)
4.パウロはエパフロディトと言う人物についてどのように紹介していますか(25節)。
5.このパウロの言葉から彼の元に遣わされたエパフロディトにどのようなことが起こったことが分かりますか(26〜27節)
6.パウロはフィリピの教会の人々がエパフロディトをどのように迎え入れてほしいと願っていますか(28〜30節)