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2020.2.9「なくした銀貨」

ルカによる福音書15章8~10節(新P. 138)

8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。

9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」


1.喜べないファリサイ派の人々

①喜べない人々

 今日もイエスの語られたたとえ話から私たちの信じている神がどのような方であるかについて皆さんと学んで行きたいと思います。もう何度も礼拝のお話に取り上げていますが、私が学んだ神戸改革派神学校の授業では毎週、説教演習という時間がありました。この授業では学生が交代に講壇に立って聖書を解き明かすお話をします。説教演習が教会で普段行われる礼拝と違う点は、聴衆が皆神学校の教授たちや、学生たちだけだと言うことです。その説教を聞いて神の恵みをいただこうと言う姿勢で聞いてくれればよいのですが、この説教演習に集まった聴衆はそうではありません。説教者が少しでも間違った点や、おかしな点を語るならば徹底的にそれを批評してやろうと考えている人たちなのです。だからこの説教演習の時間を好きな学生は一人もいなかったと思います。大半の学生はこの説教演習を受けるとがっくりとうなだれて、落ち込んでしまうことが多かったような気がします。

 ある日の説教演習のことです。たぶんその日に説教壇に立ったのは福音自由教会から来ていた神学生だったと思います。彼はこのルカによる福音書15章に記されている有名な放蕩息子のお話から、見事に伝道説教を語ったのです。「さすが福音自由…、理屈っぽい改革派の神学生と違う」と思って私はその説教を関心して聞いていました。ところがこの後、教授たちの批評の時間に移ったとき、一人の先生がぶすっとした顔で「君はこの聖書の箇所を間違って読んでいる」と言い出したのです。そのとき、その神学生は家を飛び出して放蕩の限りを尽くした息子を無条件で受け入れて喜んだ父の姿を示しながら、私たちに対する神の無限の愛を語ろうとしたのです。しかし、その先生は「このお話の主人公は放蕩息子の兄の方だ」と言うのです。不思議なことに私はこのルカによる福音書15章のたとえ話を読むと、この日の説教演習でのやり取りを今でも思い出すのです。

 この放蕩息子の話は次回に学びますので詳しくはここで取り扱いません。実はこのイエスが語った三つのお話で重要なことは、「神の喜びを共にする」と言う主題です。いなくなった羊が見つかったこと、そして今日のお話では失くした銀貨が見つかりました。さらにその後には家を飛び出していった放蕩息子が戻って来たというお話が記されています。すべてこれらのお話は失われてしまったものが戻ってきた喜びを語っています。ところがこのたとえ話のきっかけとなるお話ではすでに私たちが学んだように、このお話の冒頭にはそれを喜べない人々が登場しています。それはファリサイ派の人々や律法学者たちと呼ばれる人々です。彼らはイエスの元に福音を聞きにやって来た徴税人や罪人たちの姿を見ると、「イエスはなんであんなゴロツキたちと仲良くするのか」と不平を言い出したと言うのです(1〜2節)。このようにこの15章に記されている三つのお話は本来喜ぶべきことを、喜べない人々の問題が取り上げられていると言えるのです。つまりこう考えると放蕩息子のたとえでは、弟息子の帰りを心から喜ぶ父親の姿を理解できない、真面目な兄が主人公になってくると考えてよいのです。


②自分の正しさを証拠付ける存在

 このファリサイ派の人と徴税人との関係がよく表したたとえ話がこの同じルカによる福音書に紹介されています。「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ(18章9〜14節)と呼ばれるお話です。ここで登場するファリサイ派の人は神殿に行って、次のように祈ったと言うのです。

「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」(11節)。

 この祈りの中でファリサイ派の人は自分の正しさを証拠付けるためにそばにいた徴税人を利用しています。「自分はこの徴税人のような人生の落後者ではありません」と彼は胸をはって祈っているのです。このように自分の正しさを確認するために、そうできない人の存在を必要としている人たちがいます。彼らは自分が利用して来たその人が悔い改めて神を信じることを喜ぶことも、許すこともできません。なぜなら、彼らが変わってしまったら自分の正しさを証明すべき存在が無くなってしまうからです。これでは具合がよくありません。

 私たちは人の失敗する姿を見て安心すると言うことはないでしょうか。「ああ、あの人でもこんな失敗をするのか。安心した…」。このような方法で自分の安心を得ようとする人は、むしろ他人が成功する姿を見ると嫌な気持になったり、落ち込むことになるのです。このような誤った安心の仕方を頼りに生きる人は他人の成功を喜ぶことはできません。彼らが成功してしまったら、自分の正しさを証明できなくなってしまうからです。

 ファリサイ派の人々はだから、イエスの元にやって来た徴税人や罪人たちが悔い改めて、神に受け入れられることを決して認めることはできなかったのです。彼らは神の喜びを決して理解することができません。失われてしまったものが見つかって喜んでいる神と喜びを共にすることができなかったのです。


2.探しているのは神

①私を見つけてくださった神

 最近、新しくなった改革派教会の式文を読んでいてふと気づいたことがあります。毎月、教会で行われる聖餐式をするとき、私はこの式文を読みます。この時、式文は聖餐式に参加できる人は誰で、できない人は誰だと説明しているところがあります。以前の古い式文ではこの文章の中に「洗礼を受けていない求道者は聖餐を受けることができません」と言う文章が確かにありました。ところが、この文章の部分が新しい式文では「洗礼を受けっていない方々は聖餐を受けることができません」と記してあって、「求道者」と言う呼び名が無くなっているのです。式文からこの呼び名がなくなってしまった理由はどこにも書かれていません。たぶんは一般の人にはこの「求道者」と言う呼び名が馴染みにくいし、分かりにくいと思われたので変更されたのだと思います。

 教会は洗礼を受けていない人たち、これから洗礼を受けようと準備している人たちをこれまでずっと「求道者」と呼んできました。この教会でも「求道者会」などと言って、今でもこの言葉を使っています。この「求道者」と言う言葉は呼んで分かるように「道を求めている人」と言う意味になります。信仰の道を求め続けているが、まだそれを見つけられていない人が「求道者」と呼ばれるのです。このように考えると「求道者」と言う呼び名の意味は求めている人間が主人公となっていることが分かります。

 この言葉のように神を求めているのは私たち人間であり、私たちが神を捜していると考えるのです。「今まで、いろいろところに行って魂の平安を求めたけれども見つけることができずにいたが、聖書に出会って、教会にやって来て、真の神さまを見つけ出しました」。私たちはどちらかと言うとそんな風に考えて、自分が神様を見つけたと思っているところがあります。

 しかし、イエスの語られたこの三つのたとえ話を読んでわかるように、捜し出してくださるのは神の方であって、私たちではありません。私たちは神に見つけ出された者と言われているのです。だから私たちがこの礼拝に参加できているのは、神が私たちを見つけてくださったからだと言えるのです。そして神は私たちがこの礼拝に集まる姿を見て、心から喜んでくださっているのです。


②伝道の意味

 神は私たちをこの神の喜びの集いに参加するようにと招いてくださっているのです。ところで聖書はどうして私たちは私たちの隣人に福音を宣べ伝えることを求めているのでしょうか。私たちが隣人を伝道する目的はどこにあるのでしょうか。それはこの神の喜びに私たちがあずかるためであると言えるのです。失われていた一人の人が神のところに戻って来たことを、私たちは神と共に喜ぶ、それが私たちの礼拝の意味なのです。この喜びは私たちの献げている礼拝の場でしか味わうことができないものなのです。

 ときどき、ニュースを見ていると行方不明になった子どもを捜してたくさんの人が山の中を捜索している映像を見ることがあります。子どもの帰りを心配して待っている両親のために捜索隊は懸命になって作業を続けます。私たちはこの捜索隊の一員として今、ここに集められていると言えるのです。両親は子どもの帰りをいつまでも諦めることなく待ち続けています。私たちの神もそのような方だと言えます。だから神はこの捜索隊の陣頭指揮をさせるために救い主イエスを私たちの住むこの地上に遣わしてくださったのです。

 実際に今まで私たちが見つかるまで、たくさんの人がこの捜索隊のメンバーとして働いて来ました。そして今度は、私たちがその捜索隊に加わることを聖書は求めているのです。


3.銀貨をなくした婦人

①特別な銀貨

 さて、ここで少し今日の聖書箇所に記されている「失くした銀貨」のたとえについて考えて見たいと思います。このお話は前回に学びました「見失った羊」のたとえと同じように、必死になって失ったものを捜し求める人が登場しています。それは「ドラクメ銀貨を十枚持っている女」です。このドラクメ銀貨の「ドラクメ」と言いのはギリシャの貨幣単位であったようです。新約聖書では他のところでよく「デナリオン」と言う貨幣単位が登場してきます。こちらの貨幣単位はローマで使われたもので、一デナリオンは労働者の一日分の賃金に相当する額と考えられています。一ドラクメはこの一デナリオンと同等の価値を持っていたようです。

 当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありましたから、通常流通しているのはデナリオン貨幣と言うことになります。ですから、ここに登場するドラクメ銀貨はもしかしたら「古銭」と言えるものなのかも知れません。この女性はこのドラクマ銀貨を十枚持っていました。金額に換算すれば、労働者の十日分の賃金ですからそんなに大金ではありません。以前、どこかで読んだことがありますが、この銀貨は十枚一組でネックレスのような仕上がりにして、この女性は大切に持っていたとも考えることができるそうです。

 昔見たテレビドラマで、父親が都会に旅立つ息子に「いざとなったら仕え」と言って泥が付いた一万円札を手渡すシーンがありました。それは貧しい父親が必死になって稼いで、取っておいたお金です。その息子はこの後にどんなに困ってもその一万円札だけは使うことができなかったと言うのです。なぜなら、彼にとってその一万円札は単なるお金ではなく、自分を故郷で心配して待っている父親との関係をあらわすものだったからです。

 もしかしたら、この女性にとってもこの失くした一ドラクメ銀貨は特別な意味を持っていたのかもしれません。なぜなら、どうみても、この女性はここで一ドラクメ銀貨の価値に相当するよりも多くの負担を払って銀貨を捜しているからです

「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」(8節)。

 貧しい女性の住んでいたこの家にはきっと大きな窓がなかったのかもしれません。昼間でも薄暗い室内で失くした銀貨を捜すのは大変なことです。そのため彼女は「ともし火」をともします。このともし火で使われる油は貧しい女性にとっては高価なものでした。さらに彼女は家を一生懸命、掃除をしています。ですから彼女は一ドラクメ以上の労働時間を使って銀貨を捜しているのです。この女性の事情をよく知らない人なら、「その同じ労力を使って他で働いたなら、もっとたくさんのお金を得られる」と言ったはずです。しかし、彼女はどんな犠牲を払っても失くした銀貨を諦めることがありませんでした。必死になって探して、最後に失くしたドラクメ銀貨を見つけ出すのです。

 さらに、彼女が銀貨を見つけ出した後も彼女は不思議な行動をしています。「失くした銀貨が見つかったから、一緒に喜んでください」と友達や近所の人を自分の家に呼び集めたと言うのです。呼び集めたからにはそのお客に何も出さないと言うことはできないはずです。彼女はそこでも何らかの負担を支払って客たちをもてなしたはずです。もし、私たちならこんな集まりに突然呼ばれたらどう思うでしょうか。「忙しいのにいいかげんにしてほしい。銀貨一枚見つけたからと言ってこんなに喜ぶのは変じゃないか」と文句を言うかもしれません。なぜなら、他人には彼女の失くした銀貨の価値は分からないからです。少なくともこの失くした銀貨を一ドラクメ、あるいは一デナリオンというこの世の貨幣の単位で考えることしかができない人にとってはこの女性の喜びようはとても理解することができないのです。

 こんな話を聞いたことがあります。一人の日本人がカトリックの神父になるために外国の神学校に留学しました。そこで彼は親しくなった同級生の一人が、いつも古い聖書を使っていることに気づきました。今はもっと新しい翻訳の聖書が出版されていて、それを使った方がよいはずなの、彼はずっとその古い聖書を愛用しています。決して彼が貧乏だったから新しい聖書が買えない訳ではないようです。あるときその同級生は、自分が大切に使っている聖書についてこんな告白したというのです。この聖書は自分の母親が使っていた聖書で、自分はこの聖書を読むたびに、自分のためにいつも祈ってくれている故郷の母親を思い出すことができる、だからこの聖書は自分にとって宝物なのだと…。

 神さまは失われてしまった私たちを必死になって探してくださいました。私たちのために御子イエス・キリストを遣わしてくださり、たくさんの信仰の先輩たちを捜索隊に加えて、私を捜してくださったのです。もしかしたら、こんな風に言われても私たちはこの神の気持ちを簡単には理解できないかもしれません。なぜなら、私たちは自分の価値を、ファリサイ派の人がやったように他人と比べて考えているところがあるからです。だから「自分など何の価値もない」と思い込んでしまっているところがあるのです。

 イエスの語られたたとえ話は、神は私たちに一人一人が神にとって特別な存在であることを教えています。神にとって私たち一人一人は「他のもので代用すればよい」と言う存在ではないのです。私たち一人一人は他の何者に変えることできない存在として神に取り扱われているのです。

 神は私たちを見つけ出した喜びを私たちにも分かちにも味わってほしいと願っておられます。だから私たちはそのためにこの礼拝に集められました。そしてイエスは次のように語ってこの話を閉じています。

「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(10節)。

 天で神の天使たちが喜んでいるように、地上の教会にも神の喜びが満たされるように、神は今も、働いてくださっているのです。私たちも神に見つけられた者の一人として、また神によって編成された捜索隊のメンバーの一人としてこの喜びにさらに与って行きたいと思うのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 なくしてしまった銀貨を必死で探した女性のように、あなたは私たち一人一人を捜し出すために独り子イエスをこの地上に遣わしてくださいました。この世の価値観に支配される限り、このあなたの御業の本当の意味は理解することができません。しかし、あなたはイエス・キリストを通してご自分の喜びを私たちに示し、さらにこの喜びに私たちも加わるようにと招いてくださいました。私たちがこの喜びに共にあずかり、私たちを捜し出してくださったあなたに感謝を献げることができるようにしてください。どうか私たちを、なおも失われた人々を捜すために働いておられるあなたの御業に仕える者として用いてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスは見失った羊を捜す羊飼いのお話を語った後に、続けてどのような人が登場するたとえ話をここで語られていますか(8節)

2.ドラクメ銀貨一枚を失くした女はその銀貨をどのようにして捜しましたか(8節)

3.銀貨を見つけた女性はその後、何をしましたか(9節)

4.イエスは「一人の罪人が悔い改めることで」、どのようなことが起こると言っていますか(10節)。

5.イエスはこのたとえ話を通して私たちに何を教えようとされたと思いますか(参照1〜2節)。

6.このお話は罪人を救い出すために御子イエスを遣わされた神について語っています。あなたはこのお話を通して自分にとってイエスをこの世に遣わされた神はどのような方だと思いますか。

2020.2.9「なくした銀貨」