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2020.3.1「主を知ることのすばらしさ」

フィリピの信徒への手紙3章1〜11節(新P. 364)

1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。

2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。

3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。

4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。

5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、

6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、

9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、

11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。


1.喜びなさい

 今日もパウロの記したフィリピの信徒への手紙から学びたいと思います。パウロは通常、自分の書いた手紙の中の最後の部分で個人的消息を記す傾向があると考えられています。パウロは手紙の最後の部分で自分がよく知っていて、自分と深い関りのある人々の名前を一人一人上げて、その安否や挨拶、そして様々な伝言を記しました。私たちが前回学んだ箇所ではパウロはフィリピの教会の人々に自分の協力者であるテモテを送る計画を披露し、その後で自分もフィリピに向かう予定であることを告げています。そして、自分を励ますためにローマまで遣わされてきたフィリピ教会のメンバーの一人であったエパフロディトと言う人物を思いやって、彼をフィリピに帰すので心から歓迎してほしいと伝えています。おそらくパウロはここで手紙を書き終えようとしたのではないかと思わされるような個人的消息を伝える内容がこの部分に記されているのです。ところがこの手紙はここで終わってはいません。続けて、パウロはこの手紙を書き続けました。それはパウロがどうしてもフィリピの教会の人々に伝えたいことをここで改めて思い出したからかもしれません。だからパウロは続けてこのような言葉を手紙に書き記しました。

「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。」(1節)

 このフィリピの信徒への手紙はよく「喜びの手紙」と言うような別名で呼ばれることが多いようです。なぜならこの短い手紙の中でパウロは何度も「喜ぶ」と言う言葉を繰り返し書き記しているからです。この手紙をパウロが記した当時、彼はローマの獄中にあったと言うことを私たちは何度も学んで来ました。彼はそこで自分が法廷で裁かれる日を待っていたのです。この裁判でパウロは無罪となり自由の身になる可能性もありましたが、一方で有罪の判決を受けて厳しい刑を執行される可能性もありました。私たちの目から見ればこの時のパウロは決して喜べるような状況ではなかったとも考えることができます。それなのにパウロは、自分は「喜んでいる」と言う言葉を繰り返し記しています。そしてこの箇所の少し前のところではパウロはこんな言葉も記しているのです。

「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」(17〜18節)

 ここでパウロは「たとえわたしの血が注がれるとしても、私は喜びます」と語っています。これはおそらくパウロが自分の殉教の死を覚悟して語った言葉だと考えられています。パウロは自分がこれから受ける裁判の結果、有罪の判決が下り、処刑されることになったとしても、それを「喜ぶ」と言っているのです。この言葉を考えるとパウロの言っている「喜び」は私たちが通常考えているような「喜び」とは全く違うと言うことが分かります。

 私たちが通常「喜ぶ」と言う言葉を使うときは、何か自分に喜びを与えるような出来事が起こって、その結果「喜び」を感じると言うことが多いはずです。つまり、私たちの喜びはいつも外から与えられるものだと言えるのです。だからパウロが「喜びなさい」と勧めても、「どこに喜べることがあるのか…」と私たちは思ってしまって、この命令の意味をさっぱり理解することができなくなってしまうのです。

 せいぜい私たちは「喜びなさい」と命じられたら、「今日も朝、元気に起きることができた」、「今日も守られて教会の礼拝に出席することができた」と必死になって自分が喜べる理由を捜すくらいしかできません。しかし、パウロは私たちに「あなたが喜べる根拠をあなたの周りで捜して見なさい」とは言っていません。ただ私たちに「喜びなさい」と命じているだけなのです。

 そこでこの言葉を理解する上で最も大切になって来るのが「主において喜びなさい」と言う言葉の「主において」という文章です。パウロの語る「喜び」はいつも「主」、つまり私たちの主イエス・キリストと関係していることが分かります。パウロの語る「喜び」はこの主イエス・キリストがあって初めて成り立つものであると言えます。また、逆に言えば主イエス・キリストがいなければ、この喜びは生まれないと言うことができるのです。

 私たちを取り巻く出来事は日々刻刻と変化していきます。ですから昨日は自分の人生に喜びを与えてくれたものが、今日はそうではなくなると言うことがよく起こるのです。今、私たちの住む日本も、また世界も新しく発生したウイルスがもたらす危機によって揺れ動いています。その中で私たちが確かだと思っていたものが、実は頼りにならない危ういものであったことを感じることが実際に起こっています。しかし聖書は私たちの喜びの根拠を「きのうも今日も、永遠に変わることのない方」(ヘブライ13章8節)である主イエス・キリストにあると教えています。またこの方は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)と私たちに約束してくださっておられます。つまり、聖書は私たちの喜びの根拠はこのイエスにあることを教え、さらにこの方はどんなときにも私たちがから離れることはないと言っているのです。つまり、パウロはどんなときにも喜ぶことができると言えたのは、この主イエス・キリストによってであったことを分かるのです。


2.あの犬どもに注意しなさい

 さてパウロはフィリピの教会の人々に「喜びなさい」と命じた後にすぐ彼らが今、一番注意すべきこと、用心すべきことが何であるかを語っています。

「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。」(2節)

 パウロがここで「あの犬ども」と呼ぶ人々がどのような人々であったのかは今ではよく分かりません。ただ、すくなくとも彼らが「働き手」と呼ばれているところから、教会の外側にいる人たちではなくて、教会の中で働く奉仕者、伝道者であったことが分かるのです。彼らは教会の人々のために熱心に働いているように見えますが、むしろ教会の人々を真の喜びの根拠であるイエス・キリストから引き離すような「よこしまな働き手」であるとパウロは語っているのです。さらに「あの犬ども」と言う言葉は当時のユダヤ人にとって「犬」は汚れた動物と考えられていましたから、パウロが彼らのことをどんなに警戒していたのかがこの呼び方を通しても分かるのです。

 この「いつわりの働き手」は「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と言われていますからユダヤ人がこれまで守って来ていた「割礼」と言う儀式を強調し、キリストを信じた者でもこの「割礼」を受けなければ救われないと教えた人々であると考えることができます。そしてパウロは教会の人々にこの「よこしまな働き手」が教えるように「肉に頼る」ことは無意味だと教えているのです。

 ここで使われている「肉」と言う言葉は「霊」と対立する言葉として用いられています。つまり「霊」とは私たちが主イエス・キリストによって救われており、この主イエス・キリストによっていつでも「喜び」が与えられるということを語ります。それに反して「肉」とは私たちの救いは私たちが行った行為や自分の考えによるものであり、喜びもまた自分が作りだすものであると言うことを指すものだと言えます。ですから肉に頼る者は「昨日も今日も、永遠に変わらない」ものではなく、私たちからいつ離れていってしまうか分からないような儚いものに自分の救いと喜びの根拠を置く信仰だと言ってよいのです。

 人間は本物によく似せたものを作るのが得意です。それは「イミテーション」と言われるものです。「イミテーション」は本物に手が届かない人にとっては便利なものです。しかし、偽物はあくまでも偽物で本物ではありません。だから「肉」に頼っても私たちは本当の救いを受けることはできませんし、そして本当の喜びを受けることもできません。返って「イミテーション」は私たちの信仰の目を狂わせ、私たちに本物を分からなくさせてしまう害を与えるのです。ですからこの「よこしまな働き手」たちは、人々の信仰の目を真の福音から逸らさせてしまうような、危険な人々でした。だからパウロはここで彼らに注意するようにと厳しく命じているのです。


3.主イエスを知るすばらしさ

①すばらしい本物を知った私たち

 「偽物」と「本物」は一見似ているように見えますが、結局は全く違うものです。そして本物の素晴らしさを誰よりもよく知っているのは、今までの人生でその本物に出会い、その価値をよく味わうことができた人たちだと言えるのです。パウロはその本物をよく知っていました。知っていたからこそ彼は決して偽物に騙されることがなかったのです。

 パウロはここでとても興味深い話の進め方をしています。なぜなら、パウロは、自分は「肉」に頼ろうとしている人たちが強調する条件よりも、もっと優れた条件を持っているとここで語っているからです。彼は生まれたときから誰よりも優れた条件を持っていた人物でした。生まれも育ちも、誰よりもよく、律法に対する熱心のゆえにかつてはキリスト教会を迫害したこともありました。しかし、彼は誰もが自慢したくなるこれらの条件を今自慢だと思っていないと語るのです。

「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(7〜8節)

 パウロは「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」と語ります。イエス・キリストを知った瞬間、それ以外のものには全く価値がない、まるでゴミくずのように思えるようになったと彼は語っているのです。よく、一度死の境をさ迷った経験をした人はそれ以後の人生観が変わると言う話を聞きます。私たちがこの世を去る時、今まで必死になって作り上げて来たものはどうなるのでしょうか…。私たちはそれらの物を持って天国に入ることはできません。私たちもそのことをよく分かっているはずです。しかし、私たちはそれを知りながら、いろいろなものに心奪われて自分を見失ってしまうことが多いのです。それは私たちが死という出来事を実際には体験していないからです。だからひとたび、それに似た体験をした人は、それ以後の人生観が変わると言うのです。

 しかし、パウロの人生観の変換はそれとは全く違っています。むしろ彼は何物にも代えがたい素晴らしいイエスを知ってしまったので、それ以外のもののすべてが光を失ってしまい、全く価値のないものと感じられるようになったと言ったのです。


②イエスを知る

 それではパウロがここで言っている「主イエス・キリストを知ること」とは一体どういうことなのでしょうか。イエス・キリストのことを聖書を読んで「知った」と言うことなのでしょうか。聖書が「知る」と言うときはこのような単なる「知識」について語っているのではありません。私たちはテレビ出て来る芸能人のことを知っているかもしれません。しかし、その芸能人は私たちのことを全く知りません。聖書の語る「知る」はこの一方通行の知識を言っているのではありません。だから私たちがイエス・キリストを知ると言うことは、イエスが私たちを知ってくださったと言うことを前提として実現します。イエスは真の羊飼いは自分の羊を知っていて、羊も自分の羊飼いを知っている(ヨハネ10章14節)と語られたように、イエス・キリストを知ると言うことは私たちとイエスとの命の関係が生まれたことを意味しているのです。

 私たちの主イエスは私たちのことを知ってくださっています。だから私たち一人一人に聖霊を送って下さって、私たちがイエスをよく知ることができるようにしてくださるのです。これがイエスの御業によって生まれる私たちとイエスとの関係です。そしてこの関係の中に生きるものは本物をよく知っていますから偽物に騙されることはないのです。

 偽札を見分けるためには偽札をいくら研究してもだめだと言います。むしろ本当のお札をよく知ることこそが偽札を見分けるために大切なのです。私たちもイエス・キリスト以外に目を向けてしまえば途端に偽物と本物の区別がつかなくなってしまいます。大切なことはイエス・キリストに信仰の目を向けること、このイエスをもっともっと知りたいと願うことです。

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(10〜11節)

 パウロは自分の信仰はまだ完成しておらず、まだ発展途上だとここでは言っています。まだまだ私たちは本当のイエス・キリストの素晴らしさを知り尽くしていないのです。だから私たちは主イエスが私たちに聖霊を遣わしてくださり、その主をさらに知ることができるように願う必要があります。そうすれば、私たちはこの主を知ることで、喜びに満たされた信仰生活を送ることができるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 「主において喜びなさい」との勧めを私たちに与えてくださることを感謝いたします。私たちがこの喜び従うとき、私たちは世の煩わしさ、危険からも解放されることを信じます。どうかそのため私たちに聖霊を送って、主イエス・キリストを知ることができるようにしてください。私たちが不確かで、頼りにならないものに自分の命をゆだねるではなく、昨日も今日も、永遠に変わることがなく、私たちといつまでも共にいてくださる主イエスに確かな命の基盤を置くことができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロは3章1節で私たちに何を命じていますか。どうしてそれは私たちにとって煩わしいことではなく、安全なことだと言えるのでしょうか

2.パウロがここで注意するようにと言っている「あの犬ども」と呼ばれる人々はどのような人々で、何を頼りにして、何を教えていたと思われますか(2節)。

3.パウロは彼らと違って何を頼りにしていると語っていますか(3節)。

4.どうしてパウロは自分が誰もがうらやむような条件を持っていたとしても、それを今は「塵あくた」のように見なしていると言うことができたのですか(4〜9節)。

2020.3.1「主を知ることのすばらしさ」