2020.3.15「目標を目指してひたすら走る」
フィリピの信徒への手紙3章12〜16節(新P.365)
12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
1.走り続けるパウロ
①自分の信仰は完成していない
今日もパウロが記したフィリピの信徒への手紙から学びます。今日の手紙の部分でパウロは「自分の信仰はまだ完成していない」と述べています。だから、「自分は一生懸命になってがんばっている」とまで語っているのです。このパウロの言葉が記された手紙を最初に読んだ人たちはいったいこの文章をどのように理解し、受け取ったのでしょうか。私たちは既にパウロの記した他の文章を通して、「私たちの救いはイエス・キリストの御業によって完成している」、「だからそのイエスを信じるなら誰でも救われる」と言う教えを学んで来ました。パウロは神の律法を人間の力で実現して、そこから救いを得ようとする「律法主義」のがんばりを完全に誤りであると否定して来たはずです。それなのに、パウロ自身がここでは「まだ自分の信仰は未完成である。だからこそ自分は気を緩めることなく「がんばっている」」と言っているように聞こえるのです。パウロはここで何をがんばろうとしているのでしょうか。パウロの語る「完成」と言う言葉の意味はどのようなことなのでしょうか。そのことを考えながら私たちは今日もこの手紙を読んで行きたいのです。
②ゴールに向けて走るために
パウロはここで徒競走のレースに出場するランナーに例えて自分の信仰生活を表現しています。パウロの言葉によれば、彼はまだゴールに達してはいません。まだレースの真最中で彼はゴールに向かってで懸命に走り続けていると言うのです。要するに、パウロは私たちの地上の信仰生活には「卒業」はないと言うことを語っているのではないでしょうか。「洗礼を受けたばかりの若い頃には熱心に教会に行っていたけれど、今は、そう熱心もない、自分はもう信仰から卒業した」。もしそんなことを語る人がいたら、「それは違う」とパウロは言っているのだと思います。
私たちの信仰生活は、私たちが地上を離れる最後のひと時まで続きます。言葉を変えていえば、私たちの信仰生活は日々、ゴールを目指して前進しているのです。私たちは年齢を重ねて、自分の肉体の衰えを痛感することがあります。前には当たり前のように簡単にできたことが、やがてできなくなると言うときがやって来ます。そうなると私たちは何か自分の人生が後退しているかのように思えることがあります。しかし、パウロのこの手紙の言葉によれば、私たちの信仰生活は決して後退することはありません。日々、ゴールに向かって前進し続けているのです。大切なことは私たちが目標を目指して走り続けることです。そのためにパウロは徒競走のランナーがレースでするように「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」走っていると言うのです。
私は走るのが子どもの時から苦手でした。運動会でかけっこをすると必ずビリになりました。おそらく、その原因は自分の走る姿勢の悪さにあったと思えます。早く走るためにはのけぞるのではなく、パウロが言うように「前のものに全身を向けて」走る必要があります。この正しい姿勢は早く走るために大切なことなのです。パウロは信仰生活でも私たちはふさわしい姿勢を保って行くことを勧めているのです。
2.パウロは何のために走り続けるのか
①自分の願望を実現させるための信仰
先日から毎月一回、水曜日の晩に続けている教会教理学習会のテキストが変わりました。今までは宗教改革の学びをしていきました。聖書から離れてしまった当時のカトリック教会に反旗を翻した宗教改革者たちによって今から500年ほど前に宗教改革は起こりました。私たちが所属する日本キリスト改革派教会の源流も遡れば、この宗教改革に行きつきます。この学びがひと段落して今度はさらに歴史を遡って古代教会について学ぶことになりました。初代教会の誕生からローマ帝国によってやがてキリスト教が公認の宗教になるまでの歴史を学び始めたのです。どうして、私たちがこの学びを始めたかと言うと神戸の改革派神学校の吉田校長が古代教会の歴史を学ぶためのよいテキストを書いて、出版してくださったからです。 このテキストを読むと古代教会と現代の日本の教会との距離が縮まって、古代教会の存在が私たちの身近なものとして感じられるようになります。最初にこのテキスト、そのために古代教会と現代、私たちが所属している日本の教会が置かれている状況の類似性を語っています。この古代教会は使徒言行録の記事を読んでも分かりますように、最初少数の人々によって始まりました。当時は地中海一帯をローマと言う大帝国が支配していました。そしてその支配地域に存在していたたくさんの文化を取り込んだローマには、同じように様々な異教の宗教が存在していました。私たちが住む日本の社会にもキリスト教以外のたくさんの宗教が存在しています。異教社会の中で圧倒的な少数者の群れとして始まった古代教会の歩みは、現在の日本の教会の歩みとも似ているのです。だから私たちが古代教会から学ぶと言うことは、私たち日本の教会の歩みを考える意味でとても重要になって来るのです。
このテキストの中で説明されているところで興味深いのは、当時のローマ帝国内に住む多くの人々の信仰の内容です。当時の人々が抱いた信仰は自分の願望を実現させると言う目的のために信じられるものが多かったようです。つまりローマの人々が信じようとした神々の働きは、信じる者の事業を成功させたり、その人の病を癒すことにありました。神々はあくまでも人間の願いをかなえるもの、欲望を実現させるための手段に過ぎなかったのです。だからもし、信じたはずの神々がそれを実現できれければ、「役に立たない神」と人々に判断され、人気を失うしかなかったのです。
これらの信仰の特徴は信じる者を取り巻く環境を神々は変えるのであって、信じる者自身を変えることを神々に期待することはないと言うことです。そもそも、人間を本当に不幸にしている原因はその人自身が抱き続けている誤った願望にあるはずなのです。ところがこれらの神々に対する信仰は人々の欲望をどこまでも拡大させて、結果的にはその人を不幸にすることしかできないのです。これは私たちが住む日本でもてはやされている多くの宗教にも共通しています。日本人にとって祈るとは、自分の願望を一方的に神仏に伝えることです。神仏の方からその人に語りかけるとは一切ありません。このような信仰では祈りをささげた人は自分の祈りが聞かれることを待つだけなのです。
人の願望を実現させるための信仰の大きな弱点は何かといえば、人間の都合に合わない出来事が人生に生じたときに、その意味をちゃんと説明できないと言うことです。これらの信仰においては人が事業に失敗したり、病気になることは「信仰が足りないからそうなった」という説明はできても、それ出来事から人生にとって大切な意味を学ぶことはできないのです。
②自分を日々変えてくださる神
このように信仰とは自分の願望を実現することだとだけ考えている人々に対して、初代教会の信徒たちが行ったキリスト教宣教は大きなチャレンジを与えたと考えることができます。なぜなら、聖書の教える真の神は生きておられて、私たちに語りかける神であるからです。聖書の教える神は私たち自身を変えることができる方だからです。真の神は私たちの取り巻く環境を変えるのではなく、私たちを変えることができるのです。罪と死の奴隷として苦しみ続けていた私たちに真の自由を与え、私たちに永遠の命の希望を持って生きることができるようされる方なのです。
キリスト教信仰の大きな特徴は人生においてたとえその人の都合に合わない出来事が起こったとしても、そこには大きな意味があると言うことを信じることができと言うことです。事業に失敗することも、病にかかることも確かにわたしたちにとって苦しい出来事に違いありません。しかし、真の神はそれらの出来事を通してこそ本当の祝福を私たちに与えることができるお方なのだと言うことを私たちは信じることができるのです。多くの宗教は苦難を遠ざける方法を語りますが、キリスト教はその苦難の価値を認め、その意味を説明することができたのです。そこにキリスト教信仰がローマの人々の心を捉えることのできた理由があるとも考えられているのです。
パウロは自分の信仰は完成していないと言うとき、パウロは「自分の救いはまだ決まっていない、これからの自分の信仰次第では、その決定が覆されることがある、だから油断しないでがんばり続けるのだ」と言っているのではありません。パウロにとって救いは既にキリストの十字架の出来事を通して決定した事実なのです。そして私たちの救いはキリストの十字架で完成しているのです。
しかし、私たちにとって救いは既に決定したものです。しかし、神はそれでも私たちに日々働きかけて私たちを変えてくださる業を止めることはないのです。パウロは「自分は既にキリストに捕らえられている」と語ります。これは自分がキリストによって救われたことは確かなだと言うことを語っています。しかし、そのキリストは今もそしてこれからも私たちに日々、働きかけ続けてくださるのです。私たちはこのキリストの恵みにまだわずかにあずかっているにすぎません。キリストはあふれるほどの恵みを私たちの人生に与えようと働きかけ、私たちを変えてくださるのです。パウロはこのキリストの働きに対して遠慮することはありませんでした。「私はもう十分です。私の信仰生活はもう完成しました」とは言いませんでした。彼は神から恵みを受けるとるためにまだまだ全力で走り続ける必要があると考えていたのです。
3.キリストにとらえられたパウロ
①ゴールを変えてならない
パウロはここで「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」が大切であること私たちに教えています。
律法主義者は自分の力でゴールに向かおうとしました。だから彼らはそこで一つのトリックを用いたました。彼らは自分の力でゴールに達成できるように、そのゴールを自分たちに近付けてしまったのです。イエスはこの律法学者たちのトリックを見破り、彼らが教えているゴールは神が定めてくださった本当のゴールではないことを指摘されました。そして本当のゴールは人間の力では行きつくことできないところにあることを教えられたのです。新約聖書に記されたイエスの山上の説教はそのことを私たちに教えていると言うことができます。だから、もし私たちが山上の説教に記されたゴールに自分の力で近づこうとすれば、とてもそれが無理であることがよく分かるのです。大切なことは自分の力でも達成できるようにゴールを変えることでは決してありません。むしろ私たちが神の定めてくださった本当のゴールに向かうことができるようにその神の助けを求めることなのです。私たちを真のゴールまで導くことができるのは神だけであるからです。
パウロは神が示してくださったゴールを目指して走り続けます。彼は自分がゴールに達するためには神の助けが必要なことを誰よりもよく知っていました。ですから自分はまだゴールに達していない、完成していないからこそ、神の助けが必要でることを彼は確信していたのです。
②ゴールを目指すことで、救い主との関係を深める
私たちはときどき自分の理想とする信仰生活と自分の現実の信仰生活の間に大きな隔たりがあることに気づいてがっかりすることがあります。こんなときに私たちはどうしたらよいのでしょうか。「信仰生活なんて、所詮こんなものよ…」、そう割り切ってしまうことは、ゴールを勝手に自分に近付けることと同じです。これでは神が私たちに与えようとしてくださっている恵みを受け取ることができなくなってしまうはずです。
そもそも、私たちがもしこの地上の信仰生活で「自分は既にゴールに行きつくことできた。自分の信仰は完成した」と言うことができたなら、その私たちに神の助けは必要であると言えるでしょうか。完成し者に神の助けは必要ありません。こうなるとこの地上で自分の信仰が完成してしまったと言いはる者は、救い主イエスとの関係も失ってしまうことになりかねません。
しかし私たちの救い主イエスは私たちの日々の信仰生活の中で私たちと自分の関係をさらに深めようしてくださる方なのです。だから、私たちの信仰生活がこの世で完成してしまうことはないのです。神は私たちにさらにたくさんの恵みを与えようとゴールで準備してくださっているからです。私たちはこの信仰生活のゴールに向かってこれからも走り続けます。そしてこのゴールに向かう私たちはこれまで以上に救い主イエスの助けを必要としているのです。救い主イエスも私たちを助け続けてくださるのです。ですから私たちとイエスとの関係はゴールに向かって走れば走るほど深まっていくのです。
最後に誤解してはいけないことは、この信仰のレースは参加者同士の順位を争うようなこの世のレースとは違うと言うことです。だから私たちは自分と他人を比べて、その順位を争う必要はないのです。大切なのはゴールが向かって前だけを見て走ることです。私たちの信仰生活には卒業も引退もありません。私たちは自分の力の衰えを心配する必要はありません。なぜなら、神はこのレースを私たちが走りぬくことができるように、助けを日々私たちに与えてくださるからです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
イエス・キリストによって捕らえられた私たちに、確かな救いを与えてくださったことを覚えて感謝します。あなたはその救いに基づいて、私たちの地上の信仰生活を導き、祝福されたゴールを与えてくださいます。そのゴールに至るためにも、私たちが日々、あなたに助けを求め、あなたとの関係を深めることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.パウロは今の自分の状態についてどんなことをここで言っていますか(12節前半)。
2.パウロは「何とかして捕らえようと努めているのです」と自分のことを語っています。パウロは何を捕らえようとしているのでしょうか。パウロはこれほどまでに「捕えたい」と熱望する原因を作ったものは何だったのでしょうか(12節後半)。
3.パウロは自分が「完全な者」となるために今、何をしていると語っていますか(13〜14節)。
4.パウロはまだ自分は完全な者ではないと言っているのに(12節)、15節では「わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです」とも薦めの言葉を語っています。この二つの「完全」は同じことを言っているのでしょうか。それとは違うことを言っているのでしょうか。