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2020.3.22「わたしに倣う者になりなさい」

フィリピの信徒への手紙3章17〜21節(新P.365)

17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。

19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。


1.わたしに倣う者となりなさい

 今日も皆さんと共にパウロの記したフィリピの信徒への手紙から学びます。前回の礼拝で学びましたように、私たちの救いは、私たちが救い主イエスを信じることによって実現します。神はイエスを信じる私たちに恵みとして救いを与えてくださるからです。このことによって私たちの救いは確かなものとされました。しかしだからと言って私たちの地上での信仰生活がすべて完成してしまったと言う訳ではありません。なぜなら、神は私たちが天国に凱旋するまでの地上での信仰生活を通じてもっとたくさんの恵みを私たちに与えようとされるからです。私たちが自分の信仰生活を省みるとき、そこに満足することができず、返って欲求不満を感じてしまうことがあります。しかし、それは私たちに自分からもっと沢山の恵みを求めるようにと願う神の働きの結果であるかも知れません。だから私たちは競技場で走るランナーのように後ろを振り返ることなく、目標を目指して全力で走ることが大切です。神はそのように走る私たちを助けてくださるのです。私たちの地上での信仰生活はそのようなものであるとパウロは前回の箇所で私たちに説明しています。そしてパウロはフィリピの教会の人々にこのように信仰生活を説明した後で、今日のとこでは次のような勧めの言葉を語っています。

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」(17節)

 パウロはこの手紙の読者であるフィリピの教会の人々に対して、「わたしに倣う者となりなさい」と告げています。「わたしをお手本としなさい」。私たちはこんな言葉を身近で聞くことがあるでしょうか。もし、私たちの周りでこんなことをいうことができる人がいたら、その人はかなりの自信過剰な人と考えられて、かえって人々から敬遠されてしまうかも知れません。おそらく私たちは普段、こんな言葉を他人に語ることはないと思います。なぜなら、私たちは「自分をお手本としてほしい」などと言う言葉を言えるほど、自分の生き方に対して自信を持ってはいないからです。むしろ、「自分を反面教師にしてほしい」と言いたいほどに、自分に自信を持てないのが私たちの現実ではないでしょうか。ところが、パウロはここで大胆にも「わたしに倣う者となりなさい」と私たちに語るのです。

 もっとも、私たちはパウロならこんな言葉を言っても仕方がない、パウロならその資格があると考えるかもしれません。なぜなら、私たちは聖書の言葉を通してこのパウロが信仰者として、またキリストの福音を伝える伝道者としてとても優秀で立派な人物であったと言う印象を持っているからです。だからパウロはその優秀な自分を模範として私たちが自分の信仰生活を送るべきことを勧めていると考えてしまうのです。しかし、本当にパウロはそんなことを言っているのでしょうか。パウロはここで自分が人間として、あるいは信仰者として優秀であるから、その自分に倣ってほしいと教えているのでしょうか。

 私たちはここで少し前にパウロが自分のことについて触れた言葉を思い出す必要があります。彼は確かに家柄においても、また学歴においても誰よりも優れた経歴を持つ人物でした。パウロの生きていた時代、聖書は既にローマ帝国一帯に散らばるユダヤ人たちを通して、異邦人たちにも伝えられていました。そしてその異邦人たちの中らかも改心者が現れて、割礼を受けてユダヤ人となる人たちもいたのです。しかし、パウロはそのような異邦人からの改宗者ではなく、純粋なユダヤ人の血を受け継ぐ名門の出身であることを自己紹介しています。

 また、彼は幼いころから聖書の知識に秀でており、律法に従うという厳格な生活を送るファリサイ派のメンバーの一人でした。しかも、彼は当時の最高の律法学者と考えられていたガマリエルと言う人物の弟子でもあったとされています。まさに彼は将来を有望視される学歴を持った人物でもあったのです。しかし、パウロはこれらの経歴について「今では一切のものを損失とみています」、「それらを塵あくたと見なしています」(8節)とすでに語っているのです。つまり、パウロは自分のこのような点を見て、それに倣うような者になってほしいとは語っている訳ではないことが分かるのです。

 それではパウロはどのような意味で「わたしに倣う者」になりなさいと言っているのでしょうか。私たちはパウロと言う人物から一体何を学び、何をお手本とすることができるのでしょうか。


2.十字架に敵対して歩んでいる者たち

①教会に影響を及ぼそうとする偽教師たち

 そのことについて考える上で重要となってくるのが、この手紙でパウロが続けて語っている言葉です。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(18〜19節)

 突然パウロはここで「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」と言う人々の存在を話題に取り上げています。しかも、彼は「今また涙ながらに言います」とまで語っています。「涙を流しながら人に忠告する」。そんなことを私たちは他人にすることがあるでしょうか。もし、それをするとするなら、私たちはその人を本当に愛しているからこそ、涙を流して警告するはずです。その人に不幸になってほしくない、決してつらい目に会ってほしくはない…。そのように相手のことを心から思いやるからこそ、私たちは涙を流して警告しようとするのです。パウロもここでフィリピの人々に対して愛を持って警告をしています。

 パウロが「わたしに倣う者となりなさい」と彼らに語ったのは、明らかにフィリピの人々がこの時、パウロではない誰かを手本として生きようとする危険があったからです。それはパウロがローマの獄中にいることを絶好の機会と捉え、フィリピの教会の人々に近付き、彼らに影響力を及ぼそうと企む人々でした。パウロはここでその人々の正体を「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」と語っているのです。

 それではパウロがここで語る「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」とはどういう人たちのことを言っているのでしょうか。実はそのことついてはこの手紙の中では詳しいことは語られていません。ただ、彼らの影響力がフィリピの教会の人々に及ぶ恐れがあることをパウロがかなり心配していることから、彼らは教会の外部にいる人々ではないと言うことが分かるのです。たとえば、当時ユダヤ人たちは新しく伝道を開始したキリスト教会の存在を目の敵にし、妨害活動を繰り広げました。パウロがローマの獄中に捕らえられたのも、このユダヤ人の陰謀によると言えるかもしれません。また、ローマ帝国も、自分たちの領土の中でかなりの勢いで成長を遂げているキリスト教会に対して警戒心を抱き始めていました。実際に、パウロもペトロもこのローマ政府の迫害を受けて、殉教の死を遂げたと教会の伝承では伝えられています。しかし、これらの教会の外部の人がキリストを信じて集まっている教会の人々に影響を与えると言うことは考えることができません。教会の人々は彼らを警戒はすれども、彼らから影響を受けると言うことはまずなかったと言えます。

 考えられることが出来るのは「キリストを信じている」とは言いながら、パウロの語る福音とは全く違った教えを語ろうとする偽教師たちの存在です。パウロがこの3章の初めで「あの犬どもに注意しなさい」(2節)と言っているのは、そのような人々のことです。彼らはキリストを救い主と信じて、洗礼を受けていても、それだけでは十分だとは言えないと人々に教えました。そして聖書に書いてある通りに、割礼を受けてユダヤ人となり、律法に従う生活をすることが大切だとも教えたのです。私たちは今、信仰の基準として新約聖書を持っていますから、彼らの主張が誤りであるということをすぐに理解することができます。しかし、先日、皆さんに紹介した吉田先生の古代教会史の本でも語られていますが、新約聖書が私たちの知るような形で教会の中で「聖典」として扱われるようになったのはかなり後のことなのです。実際この古代教会の時代に教会の中で「聖書」と呼ばれていたものは私たちが知る「旧約聖書」しかなかったのです。つまり古代教会の時代にキリストの福音は旧約聖書の言葉を使って人々に説明されていたのです。そうなると問題は深刻になるはずです。「割礼を受けなさい」、「律法に従いなさい」、そしてユダヤ人と同じ生活をするようにと旧約聖書は教えているとも読むことができるからです。だからこの偽教師の教えを「なるほど」思って騙される人も出てくる訳なのです。

 実は古代教会の時代に教会の中に影響を及ぼしたグループはこのユダヤ主義的な教えを広める人々だけではありませんでした。この時代、生まれたばかりの教会に入り込もうとした誤りのもう一つはユダヤ主義とは対局にあると考えられるギリシャ思想の影響です。ここでこの誤りを説明することは避けますが、むしろこの思想は私たちの日本人の信じる宗教とかなり近いものがあると言えることだけをお話します。なぜなら「人は何らかの修行を積むことにより、何らかの知識を得ることで、悟りのようなものを得ることができる」と教えるのがギリシャの思想の影響を受けた人々の考えだったからです。


②十字架の救いの完全性を否定する誤り

 それではこれらの考えや教えがどうして「キリストの十字架に敵対する」と言えるのでしょうか。答えは簡単です。神はキリストの十字架を通してだけ私たちを導き、私たちを救おうとされるからです。だから、このキリストの十字架以外の教えを伝えようとする者はすべて「キリストの十字架に敵対する者」と呼ばれることになるのです。

 パウロが教えた福音はこのキリストの十字架の完全性を語るものでした。私たちが救われるために既にキリストはすべてのことをしてくださったのです。だから、私たちはもはやそのキリストの御業に何かを付け足す必要はありません。しかし、パウロが語る「キリストの十字架に敵対する者」たちはそうは教えませんでした。「キリストを信じることも大切だ、しかし、それだけはでは不十分であって、旧約聖書が教えるように割礼を受けて、律法に従う生活をする必要がある」と教える人たちだったのです。また、「私たちはパウロや聖書が教えていない。もっと大切な教えを神から授かっている、もし私たちと同じような修業をし、同じような体験を積むなら、誰も経験したことのないような喜びに満ちた信仰生活を送ることができる」と教えたのです。これらの偽教師たちは人々の心を惑わすような言葉を語って、人々の心を捉えようとしていたのです。しかし、彼らの教えに共通していることは、「キリストの十字架だけでは不十分である」と言う主張です。彼らはいずれも「キリストの十字架の御業だけでは私たちは救われないのだ」と教える点では共通していたのです。だからパウロは、彼らのことを「キリストの十字架に敵対する者たち」と呼んで、フィリピの教会の人々に彼らの影響をくれぐれも注意するようにと警告を伝えたのです。


3.わたしたちの本国は天にあります

①キリストの十字架だけを希望とする人々

 このように考えるとき、パウロがフィリピの教会の人々に「わたしに倣う者になりなさい」と言った意味が私たちにも少しずつ理解されてくるはずです。パウロはキリストの十字架だけを唯一の希望と考えて生きていました。十字架の上で成し遂げられたキリストの御業だけが自分を救い、世界を救うことができると信じたのです。だから「わたしに倣う者となりなさい」と言う勧めは、そのパウロの信仰と同じ信仰を持って生きることを私たちに勧めていると言うことができるのです。

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」(17節)

 テレビの通販番組に登場する販売員のように「これを買えば、あなたの生活は全く変わります」と言って、彼らは新しい商品を次々と紹介していきます。私たちに対して新しい教えを語る人もこれと同じだとパウロは言っているのです。そして、パウロは「決して彼らの巧みな言葉に騙されてはならない」と語っているのです。なぜならキリストの十字架だけが私たちを完全に救うことができるからです。実際に、パウロと同じようにキリストの十字架だけを信じて生きる人たちがフィリピの教会の中にも存在していました。だからパウロは「その人々に倣って生きるように」とも勧めているのです。


②国籍を天に置くと言うことは

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(20節)。

 ここでパウロは「キリストの十字架にだけに希望を置く者はすでにその国籍を天に置いている者たちだ」と語っています。私たちが海外旅行に持って行くパスポートは私たちの国籍が日本にあることを証明する大切な品物です。しかしこのパスポートにはその他にも大切な役目があります。それはこのパスポートを持っていればどこの国に行っても、誰であっても「日本人」として日本政府の保護を受けることができるからです。各国に置かれた日本の大使館の職員は日本人の保護のために働くと言う重要な任務を持っています。私たちの国籍が天にあると言うことは、私たちが今、地上のどこの国で生きていたとしても、私たちのことを神が守ってくださると言うことを保証し、証明することなのです。

 今回、神学校の校長の吉田先生が「ウィルス禍についての神学的考察」という文書を作り、改革派の全教会に配布しました。そこには今まで世界を何度も襲った「パンデミック」、疫病による災害についてキリスト者たちがどのように対処したかという興味深いお話も紹介されています。

 3世紀半ばにローマを襲った疫病によって、ローマの町でも一日で5000人もの人が死亡するような出来事が起こりました。この疫病を恐れて各地に逃げ出す人々によって、さらに疫病は広がり、地中海世界は一気にパンデミックのような状態になりました。そのときローマの植民地の一つであったカルタゴの教会で働いたキプリアヌスと言う牧師が語った説教が残されています。キプリアヌスはこの説教の中で私たちの希望が神にあることを力説しています。もちろん、彼は「疫病と戦うことを諦めなさい」と言っているのではありません。彼はその説教の中で私たちを襲おうとしているこの得体の知れない疫病に対する恐れから、私たちを守るものはキリストを信じる私たちの信仰だとはっきりと教えたのです。

 宗教改革の時代にもヨーロッパ全体でペストが流行してたくさんの人々の命が奪われました。そのような中で宗教改革者たちは疫病と戦う人たちのために祈ること、彼らと共に協力して助け合うことを強調します。しかし、それと同時に宗教改革者たちもまた私たちを疫病の恐怖から守る方は神であることをはっきりと語ったのです。

 「わたしたちの本国は天にあります」。この言葉はキリストの十字架だけが提供できる希望を私たちに教えています。ですから今、試練の中にある私たちがこの言葉の意味をさらに確かめることのできる信仰生活を送れるように、神に祈り願い続けて行きたいと思うのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 イエス・キリストの十字架を通して私たちに完全な救いを与えてくださったあなたの御業に心から感謝します。私たちがこのキリストの十字架にのみ希望を置いて生きたパウロのように生きることができるように、私たちに聖霊を送り助けてください。私たちと私たちの住むこの世界は今、深刻な危機の中に置かれています。未知のウイルスの働きによってたくさんの人々が深刻な病に苦しみ、命を失った人もたくさん存在します。この危機と戦う人々に知恵と力を与えてください。また様々な恐怖に捕らわれている私たちに、あなたが心の平安と希望が与えてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロはここでフィリピの教会の人々に何を勧めていますか(17節)

2.パウロは「涙をながしながら」フィリピの人々に対して何を知らせようとしまいたか(18節)。

3.パウロは「キリストの十字架に敵対する者たち」がやがてどのようになってしまうことをここで教えていますか(19節)。

4.パウロはキリストの十字架にだけ希望を置いて生きる者の国籍がどこにあることを私たちに教えていますか。このような国籍を持つ者は困難や試練の中でも、何を期待して生きることができますか(20〜21節)。

2020.3.22「わたしに倣う者になりなさい」