2020.3.29「主はすぐ近くにおられます」
フィリピの信徒への手紙4章1〜9節(新P.365)
1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。
3 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
5 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
8 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
9 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
1.キリストの福音を信じる
①主によってしっかりと立ちなさい
今日もパウロの記したフィリピの信徒への手紙を皆さんと共に学びます。今日の箇所はパウロがフィリピの教会の信徒たちに「主によってしっかりと立ちなさい」とアドバイスするところから始まっています。このアドバイスの言葉には「このように」と言う前置きの言葉がついていますので、むしろ前回学んだ箇所の結論として語られていると考えるのが一般的な定説です。フィリピ教会の人々の下にキリストの福音に敵対するような人々がやってきて彼らに影響を与えようとしていました。もちろん、彼らは口では「私たちもあなたがたと同じイエス・キリストを信じる信仰を持っている」と語って、近づいて来たはずです。しかし、彼らの教えはキリストの十字架による救いの完全性を否定するようなものでした。パウロはだから彼らを「十字架に敵対して歩む者たち」と呼んで、彼らの働きに警戒するようにと教会の人々に教えたのです。なぜなら、私たちを真の救いに導くことができる方は救い主イエスだけしかおられないからです。ですから、そのキリストだけを信じて生きること、これが「主によってしっかりと立ちなさい」と言うアドバイスの意味であるとも言えます。
②簡単すぎるから受け入れられない
他人が自分に語る言葉を聞いて自分の信仰が揺らいでしまうと言うことがある場合、その最大の原因は私たちの内側にあると言えます。揺らぐのは自分自身の信仰がまだしっかりしていない証拠です。キリストを信じれば私たちは救いを受けることができると聖書は教えます。私たちはそのことを言葉ではよく分かっていても、その言葉通りに心から理解して受け入れることは容易ではありません。いえ、私たちが人間の知恵だけに頼ろうとするならこの聖書が教える真理を信じることは不可能なのです。
旧約聖書(列王記下5章)に登場するアラムの将軍ナアマンは自分の不治の病を癒してもらうために、わざわざイスラエルの預言者であったエリシャの下を訪ねます。しかし、ナアマンに返って来たエリシャの答えはあまりにも簡単すぎるものでした。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」(列王記下5章10節)。ナアマンはこのアドバイスがあまりにも簡単だったために受け入れることができません。それはどうしてでしょうか。今まで自分をさんざん苦しめてきた問題が、そんな簡単なことで解決するとは考えられなかったからです。このように私たちの持っている経験や私たちの知識は福音を受け入れることに障害となることがあるのです。パウロはだからこそ、「しっかりと立ちなさい」と私たちに勧めています。キリストだけが私たちを救うことがおできになるという福音の真理に私たちがしっかりと立って行くようにとアドバイスしたのです。実はこのキリストの福音にしっかりと立つと言うことは、今日取り上げられる箇所の問題でも大切になってくるのです。
2.同じ思いをいだきなさい
①聖書の言葉を通して御心を知る
この言葉を語ったすぐ後でパウロは当時のフィリピの教会で起こっていた問題にここで具体的に言及していきます。それはエボディアとシンティケと言う二人の婦人の間に起こっていた対立に関する問題でした。このことがローマのいたパウロの耳にも届けられたと言うことはそれほど、フィリピ教会の内部ではこの問題が深刻になっていたことが伺えるのです。きっとフィリピの信徒たちから贈り物をローマに届けたエパフロディトがこのニュースを詳しくパウロに報告していたのかも知れません。
この二人についてパウロは「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」(3節)とわざわざ説明しています。このことから、この二人は先に言及された「キリストの十字架に敵対して歩んでいる人たち」とは違い、確かにパウロの語った福音を受け入れていたフィリピの教会員であることが分かります。しかも彼女たちはパウロの行ったフィリピでの伝道に積極的に協力した女性たちであったとも考えることができるのです。この熱心な信者同士であったはずの彼女たちが何らかの理由で仲たがいしてしまって、教会の人々に深刻な影響を与えるような事態が起こっていたのです。このことから二人の女性はこの教会でかなりの影響力を持つ人々だったと考えることができます。教会はこのような問題が生じたときにはどうしたらよいのでしょうか。パウロはこの二人の婦人に対して「主において同じ思いを抱きなさい」(2節)と勧めています。
二人の対立の原因がどのようなものであったのかは詳しくは分かりません。ただ、このようなことは私たちの身近でもよく起こる問題であると言えるかもしれません。むしろ、私たちの生活の中で人と人の思いが一致すると言うことの方が難しいことなのかもしれません。人は互いに違った経験を持ち、また考え方も違っています。だからこそ、教会では自分の考えではなく、主の思い、主の御心が優先されなければならないのです。それでは私たちはどこでこの主の思い、主の御心を理解することができるのでしょうか。それは聖書の言葉を通してです。なぜなら、私たちに対する主の御心は聖書の中にはっきりと記されているからです。私たちはこの聖書の言葉を読んで、その言葉を自分の生活に適応しようとします。「わたしはこの聖書の言葉の通りに今生きているだろうか」、「この聖書の言葉に従うためには自分は今何をすべきだろうか」と…。私たちがそのように聖書の言葉を考えるとき、聖書に記された主の言葉は私たち自身に語りかける言葉となって行きます。そして私たちは自分に示された神の思い、御心を知ることができるのです。
②私たちが同じ思いとなるためには
さらにここで問題になって来るのは、その神の思いを教会員同士でどのように共有するかということだと思います。おそらくエボディアとシンティケの二人の婦人は互いに「これが主から示された御心だ」と信じて行動し、そこで対立が生まれていたのかもしれません。
以前、自分の教会の牧師が「これが神様の御心です」と言って教会の方針を示すのですが、それがどうして神様の御心なのか自分にはよく分からないと疑問を抱く人の話を聞いたことがあります。私はあまり「これが神様の御心です」と言う言葉を教会で口にすることはありませんが、この言葉を切り札にしてリーダーシップをふるおうとする教会の指導者も中にはいるのです。先ほども言いましたように、神の言葉を自分の生活に適応して考えることで、私たちに神の御心は示されます。しかし、これは個人的な適応の仕方です。だからもしそれが神の御心でなかったと思えるようになっても、それを自分でそれを判断し、再び聖書を読んで修正すればよいのです。
しかし教会のような多数の人が御心を共有するような場ではこの事情は少し異なってきます。パウロはここで次のようなアドバイスを送っています。「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。」(3節)。二人の婦人の意見に耳を傾けて、二人が主の御心に従うことができるように配慮する第三者の存在がここでは求められています。つまり、教会の方針に関わるような主の御心に関して言えば、誰か一人が勝手にそれを判断して決めるのではなく、何人もの協力者が話し合って決めていく必要があります。異なった意見が出ることを前提として、何が主の御心なのかを仲間たちと話し合って決める方法が大切なのです。私たちの改革派教会が教会の会議をとても大切にするはこのような意味があるからです。個人の信仰生活ではなく、教会のようなたくさんの人々が集まる共同体に示される主の御心はそこに集まる人々が話し合って決めなくてはならないからです。
3.常に喜びなさい
さてパウロは教会の兄弟姉妹が主において同じ思いとなり、主において一致して生きていくことを勧めながら、そのためにも次のことが大切だと教えます。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(4〜5節)。
ここでもパウロはこの手紙の鍵となる勧めの言葉を語っています。「喜びなさい」とパウロはフィリピの教会の人々に命じています。「喜ぶ」ことは私たち信仰者に与えられた使命のようなものだとパウロは言うのです。確かに、喜べない人は「広い心」、つまり寛容な心を持つことはできません。私たちの心が不満でいっぱいのとき、私たちは他人がすることなすことすべてに文句を言いたくなるような気になります。「自分が不幸なのはあの人のせいだ…」。自分の不幸の責任を他人に転嫁することで、怒りを爆発させようとするのです。
しかし、パウロは私たちに「喜びなさい」と勧めています。なぜなら、私たちには既に喜ぶべき根拠が与えられているからです。それは救い主イエスが私たちを救ってくださったという事実です。私たちの救いは私たちがイエスを信じるときに確実となっています。そしてこの救いの事実は揺るがされることはありません。たとえ私たちの状況がどんなに変わったとしても、この救いの事実は全く変わらないのです。パウロはだから私たちに「喜びなさい」と告げています。
さらにここで大切なのはパウロの語る「主は近くにおられる」と言う言葉です。この言葉は読み替えると「主はあなたの手が届くところにおられる」と言う意味を持っています。「救われていると言っても、それは自分がこの世の生涯を終えて、天国に行ったときの話だ。むしろ自分にとって大切なのは今抱えている問題をどうするべきかだ…」と言う人がいます。将来のことではなく、今の自分の生活が大切だと考えるのです。それは当然です。だから、パウロはここであえて「主は近くにおられる」と言葉を語ったのです。パウロは「主イエスの御業は今のあなたの人生にすでに働いている」と言うのです。「あなたは気づいていなかもしれないが、主イエスは今のあなたの生活に深く関わってくださっている」とパウロは教えているのです。だからパウロはこの言葉に続いて次のようなアドバイスを語ります。
4.思い煩うのはやめなさい
①思い煩いは無駄
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(6〜7節)
イエスは「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6章34節)と私たちに語っています。なぜなら明日のことを思い煩っても私たちの生活は何も変わることはないからです。むしろ、私たちは思い煩うと言う行為に没頭することで今という大切な時間を無駄遣いしてしまうだけです。
ただ、「思い煩わないようにしよう…」と考えるだけでは、元の木阿弥です。大切なことは、今の時間を思い煩う代わりに何に使うことができるかと言うことです。自分にとって一番よい時間の使い方は何かと言うことです。だからパウロは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」とここで語っています。「思い煩う代わりに神に祈りなさい」と私たちに教えるのです。ただ、パウロは「祈ればすべのことがあなたの思う通りになる」とは語っていません。その代わりにパウロは私たちのささげた祈りに対する神の答えが必ず与えられることだけを語っているのです。
②神が共にいてくださる
「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(7節)。
私たち日本人の多くは祈ると言うと神仏に自分が一方的な願いを語りかけることだと考えます。そしてもし、その神仏が自分の願いをかなえてくれないと分かったら、他のもっと御利益があると言われる神仏に祈りの対象を変えようとするのです。しかし、聖書の語る祈りはこのようなものではありません。なぜなら祈りは神と私たちの間のコミュニケーションと言えるからです。私たちが神に語りかけることと同じように、神が私たちに語りかけ、また私たちに働きかけてくださるのです。
そもそも、私たちが思い煩いに陥ってしまう原因は私たちが抱いている誤った願望のせいであるとも言えるのです。私たちは自分の願いが実現すれば自分は幸せになれると思っているかもしれません。しかし、実は私たちはその誤った願いのゆえに自分自身を不幸にしてしまっているのかも知れないのです。私たちにはそれがわからないのです。私たちの神は私たちの人生にとって何が一番大切なのかをよく知っておられる方です。だから、神は祈る私たち自身の思いを変えてくださるのです。「人知を超えた超える神の平和」とはそのことを通して与えられるものです。神は私たちを変えてくださり、私たちが平和の内に生きることができるようにしてくださるのです。
そしてパウロは私たちが思い煩いから解放される秘訣をさら続けて語ります。
「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」(8〜9節)。
パウロは私たちが神に祈るだけではなく、進んで自分が今できることを行うようにと教えています。信仰は何もしないでじっと我慢する我慢比べとは違います。だから自分にできることをすることが大切なのです。もちろん、何でもすればよいと言うことではありません。聖書を通して教えられたことで、私たちが今できるよいと思えることを捜し出し、それを行うのです。私たちの近くにおられるイエスはそのことを通しても私たちに働いてくださるからです。
今、世界と私たちの住む日本の国は未知のウイルスとの戦いの真っただ中に置かれています。具体的には不要の外出を避けるようにとか、人が集まるようなところに行かないようにと様々な制約が私たちの生活にも生じています。しかし、これらのことをすべて守ったとしても、私たちの不安は決して消えることはないと思います。私たちにとって大切なのは、自分に与えられたこの時間を使って何をすることができるかを考え、それを行うことです。そのためにも私たちは日々、聖書の言葉を通して神の御心に耳を傾けつつ、その御心に従う生活を送ることが大切だと言えるのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
私たちの喜びの根拠として救い主イエスによって確かな救いを与えられていることを心から感謝いたします。そのイエスはすでに私たちの日常の生活に深く関わってくださっていることにも感謝いたします。今、私たちの世界を取り巻く困難な問題の中で、私たちが正しく行動することができるように助けてください。何よりも平和の神御自身が私たちと共にいてくださり、私たちの心に平安を与えてくださるように願い求めます。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.パウロはエポディアとシンティケと言う二人の女性にどのような勧めを述べていますか(2節)。また、この二人の女性が一致して信仰生活に送るためにはどのような助けが必要であると言っていますか(3節)。
2.私たちが教会の教会姉妹と一致して共に生きて行くためには「主において喜ぶ」ことはどうして大切なのでしょうか(4〜5節)。
3.普段の私たちは様々思い煩いに支配されて生きています。パウロはこのような私たちが思い煩いから解放されるために何を教えていますか(6節、8節)。
4.パウロは神に願いをささげる私たちに、神はどのような答えを与えてくださると言っていますか。それは私たちの願望がそのまま実現すると言うことですか。それとももっと違った答えが与えられると言うことでしょうか(7節)。