2020.3.8「うしなわれた息子」
ルカによる福音書15章11〜24節(新P. 139)
11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
1.真の神の愛
①親の愛を利用する詐欺師たち
最近はよく「特殊詐欺」と呼ばれるようですが、人から多額の金銭をだまし取ると言う事件が未だに後を絶ちません。その中でも最もよく知られているのが、「オレオレ詐欺」と呼ばれる手法です。電話をかけた人物が電話を聞いている人の子どもや孫になりすまして「何とか助けてほしい…」と言っては多額の現金をだまし取るという犯罪です。今でも驚くほどの人々が、これまた驚くほどの金額をだまし取られたというニュースをよく耳にするのです。ですからこの詐欺の防止のために様々なところで注意喚起や犯罪防止のための広報活動が続けられています。一日も早くこんな詐欺は世の中から無くなってほしいと私たちは思っています。
しかしだからと言って、私たちは騙された人がおかしいと単純に判断することはできません。なぜなら彼らはたとえ犯罪に巻き込まれてしまったのだとしても、子供を愛してたとえ自分の財産がなくなったとしても、子どもや孫を助けたと考えて行動したからです。
②父の愛を理解できない兄弟
今日私たちが学ぶ聖書の物語は多くの人に「放蕩息子」という題名で呼ばれるイエスが語られた有名なたとえ話です。このお話はこれまで学んできた「いなくなった羊」、そして「失われた銀貨」のたとえ話と同じときに、同じ場所でイエスによって語られたものです。ですからこの三つのたとえ話はお互いに密接な関係をもっていると言えます。どのお話もいなくなったもの、失くしたものを見つけることができた喜びを語るところが共通しています。ですからイエスはこの三つのたとえ話を通して神の前から失われていた人たちが再び神のもとに帰って来ることを神が喜んでくださることを私たちに教えようとしたと考えることができるのです。
今日のお話でもいなくなった息子が帰って来たことを喜ぶ父親の姿が登場しています。ついでにその喜ぶ父親の姿を少しも理解できないもう一人の息子も描かれています。二人の息子の内、弟の方の息子は自分を愛する父親の心を理解することができずに、父のもとを離れたいと願い、それを実行しました。もう一方の兄の方の息子は父親のもとにはとどまり続けましたが、彼もまた自分を愛してくれている父親の心を理解することができなかったのです。このお話を説明する人の中には題名を「失われた息子たち」と複数で呼んでいるものがあります。実は父の愛を理解できずに、いなくなっていたのは兄と弟二人とも同じだったと考えるのです。この物語に登場する弟も兄もどちらも正しい生き方をしていないのです。私たちはいったいどちらの息子のタイプに近いのでしょうか。それを考えながらこのお話を読むことも私たちがこのお話を理解するために大切になって来るかも知れません。
2.放蕩
①常識に反した父親の決断
この物語は二人の兄弟の内の弟の方が、「自分に財産を分けてほしい」と父親に願い出るところから始まっています。どうして彼はそんな願いを父親に語ったのでしょうか。それは彼がそのあとに実際に取った行動から理解できるはずです。弟息子は父の元から離れて自由になりたかったのです。「独り立ち」と言うと立派なように聞こえますが、結局弟息子は自分がこのまま父の元にとどまることに満足することができなかったのです。最初の人間が蛇に騙されて、エデンの園から出て行くことになったときもこれと似ています。彼らは神が共にいてくださる世界にとどまることが最も安全であったのに、それに満足することができずに蛇の言葉にまんまと騙されてしまったのです。
実はこの弟息子の願いは当時の人々にとっては常識に反した無謀な願いと判断されてもいいようなものでした。現在であれば、相続税対策の一つとして「生前贈与」という方法がとられることがありますが。しかしこの物語が語られた時代には、父親の財産はその父親が世を去ったときになって初めて、その息子たちが譲り受けることができるものだったのです。ですから父親が生きているうちに、息子たちに財産が分け与えられるということはほとんどありませんでした。それはむしろ常識に反する愚かな行為だと判断されるものだったのです。
旧約聖書の外典では親が生きているうちに息子に財産を譲ることは愚かな行為だと戒められています。なぜなら、財産を自分の手に置くことが父親にとって自分の権威を守るための大切な方法だったからです。外典では財産を子供に譲ってしまったら、途端に父親はその権威を失うことになると教えられているのです。このような文章から当時の人々が意外と家族関係を厳しい目で考えていたことが分かります。
しかし、この物語に登場する父親はこのような社会の常識に反した決断をここでしています。自分はまだ元気なのに、父親は弟息子が願うままに、その財産を彼に渡してしまったからです。この物語に登場する父親は真の神を表していますし、その息子たちは私たち人間を表していると考えられています。そう考えると神は私たちを権威によって縛り付けて、支配しようとされる方ではないことが分かります。自分がたとえどのような犠牲を払っても、私たちを愛し続ける、その神の姿がこのお話ではよく示されているのです。
②罪の奴隷
弟息子は父親から財産を受け取ると、すぐに最初から考えていた目的の通り、財産をすべて金に換えて父親の元から離れて行ってしまいました。彼は遠い町に引っ越して、そこで新生活を始めたのです。もちろん、彼も最初から自己破壊的な生き方をしようと思っていなかったはずです。むしろ「自分の力で立派に独り立ちして生きていこう」と決心してこの町にやってき来たのだと思います。しかし、彼はその思いに反してこの町で「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」のです。どんなに大金を持っていても、それを正しく使う方法を知らなければ、財産はアッという間に消えていってしまうのです。
そして持っていた財産を何もかも使い果たしてしまった弟息子にとどめ押さすように、その地方一帯に飢饉が起こりました。誰からも助けを得ることができずに困り果てた弟息子は豚飼いにまで身を落とすことになります。聖書には「羊飼い」はよく登場しますが「豚飼い」あまり登場していません。なぜなら、ユダヤ人たちにとって豚は忌み嫌うべき動物で、食べることは愚か、近づくことも許されないような存在だったからです。だから彼が「豚飼い」になるということは、ユダヤ人としての誇りと尊厳を放棄するような、最も恥ずべき行為であったと考えることができます。しかし、そこまで落ちぶれても、彼の飢えはいやされることがありませんでした。
この豚飼いになった弟息子の姿は神に造られたはずの人間がその尊厳をすべて放棄して、罪の奴隷として生きるようになった姿を表しています。父の元を離れて自由に生きたいと考えた弟息子が、豚飼いに身を持ち崩したように、私たち人間も神の元を離れることでみじめな罪の奴隷となって生きるしかなくなってしまったのです。
3.自分の本当の姿を気づく
しかし、この弟息子にも自分の人生を変える転機がやって来ます。聖書は彼の人生に起こった転機を「彼は我に返って言った」という簡単な言葉で言い表しています。「我に返る」、この言葉は「自分を見つけた」という意味を持った言葉です。私たちは普段「自分のことは自分がよく知っている」と考えています。しかし、実際にはそうではありません。私たちは自分自身を見失って生きているのです。だから何かの理由で突然、本当の自分の姿を垣間見るとき、驚きを隠すことができないのです。
昔、山室軍平と言って救世軍で活躍した有名な伝道者がいました。この山室が「放蕩息子」という題でやはりこの箇所を説教しているものがあります。その山室は説教の中でこんなお話を紹介しています。
一人の貧しい農夫が幸運にもあるきっかけでたくさんの財産を得ることになりました。彼は「もう自分は貧しい農夫ではない、これから紳士として生きよう」と決心します。その上で彼は妻にもその決心を打ち明けて「お前もこれから淑女として生きるように」と語りました。妻は「そんなこと言っても、私たちはどうしたら紳士や淑女になれるのかしら」と疑問を挟みます。農夫はしばらく考えたうえで、「紳士や淑女と呼ばれている連中はよく、美術館などに足を運んでいるようだ。だから私たちも美術館に行って紳士や淑女になる勉強をしよう」と言い出しまた。彼らは意を決して、美術館にやってきます。ところが今まで貧しい暮らしをし続けてきた彼らはわざわざ時間をかけて絵などを見たことがありません。結局、退屈しながら、やっとのことでその美術館の絵を一通り見終わりました。すると農夫はこんな感想を漏らしたのです。「画家っていうのはいろいろな絵を描くというが、中には本当につまらない絵を描くこともあるのだな…。お前、あの出口のそばにあった、絵を見たか。みすぼらしい男が退屈そうに突っ立ているだけで、本当に変な絵だったよな…」と。すると妻は驚いたようにこう答えます。「何言っているのよ、あなたあれは絵じゃなくて、姿見のためにかけられていた鏡よ」。ここで弟息子は父親の元を離れた自分の悲惨な姿に初めて気づきます。そして彼はこう考えたというのです。
『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』(17〜19節)
彼はここで自分の本当の姿に初めて気づきます。自分が今まで何不自由なく生きることができたのは、自分を愛してくれる父親がいたからでした。そして、自分は愚かにもこの父親の元から離れてしまったためにこのような悲惨な目に会っているのです。このままでは異郷の地で一人寂しく死を迎えなければなりません。彼に残されている道はただ一つしかありません。それは自分の父のところに戻ることでした。私たちが神を信じることは、この弟息子が父親のところに帰って行くことと同じ意味を持っています。罪の奴隷となって生きる私たちを待っているものは、罪の刑罰である死という現実です。私たちがこの死から逃れる方法はただ一つだけです。それは悔い改めて神を信じることです。私たちにはその方法しか残されていないのです。神を信じることだけが私たちに残されているただ一つの道だからです。
4.父の愛
①息子を見つけ出す父親
弟息子は決心して故郷への道を歩みだしました。飢餓のためにやせ細った弟息子は、足取りもおぼつかないままにその道を急ぎます。「本当に父親や自分を受け入れてくれるだろうか…」。自分が父親にした愚かな行為を思い起こせば思い起こすほど、彼の心の不安はきっと膨らんでいったはずです。しかし、たとえどんなに不安であっても、彼に残されていることはこの道を進むことだけです。
イエスはここで誰の心にも印象に残る情景を語りだします。
「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(20節)。
変わり果てた息子の姿をはるか遠くからでも見つけ出す父親の姿がここに記されています。私たちが神を見つけるのではありません。神の方が、どんなに私たちの姿が変わり果てていたとしてもちゃんと見つけてくださるのです。このお話はその事実を私たちに教えています。たくさんの画家がこの聖書の物語に感動して、このシーンを絵に描きました。息子に走り寄って抱き着く父親の姿、ある絵ではこの父親の履物が右と左別々なものになっています。父親は自分の姿など気にしていません。近所の人々が「あいつは息子になんて甘いのだ…」と非難するような眼をこの父親に向けたとしても、そんなことは気にせずに、彼は息子を抱きしめました。
②償われていた罪
弟息子は父親に会ったら伝えようと用意してきた言葉を語りだします。
『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』(21節)。
彼は父親に自分の犯した罪のすべてをありのままに、隠さずに語りました。「もう自分はあなたの息子と呼ばれる資格はありません。それでもどうかわたしを許してください」。息子は続けて自分が考えてきた、自分の犯した罪を償う方法を父親に語ろうとしました。「雇い人の一人にしてください」。ところが、その言葉は父親の次の言葉で遮られて、語ることができませんでした。
『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』(22〜24節)
神は罪を告白する私たちに対して、その罪の償いを要求することはありません。なぜなら、その償いは御子イエス・キリストが十字架の死を通してすべて支払ってくださっているからです。だから父親は息子に「いちばんよい服」を着させ、「手に指輪」をはめ、履物を履かせます。それは紛れもなく彼が父親の子どもであるということを示す印です。さらに父親は肥えた子牛を屠ります。それはたくさんの招待客を呼んで祝いの食卓を囲むためです。
ここに表されているのはいなくなった息子を見つけ出した父親の常識を超えた喜びです。だからもう一人の息子、つまり放蕩息子の兄の方はこの父親の喜びを理解することができなかったのです。イエスはこの父親のように、神は私たちを愛してくださっていることを教えてくださるのです。そして神は私たちが自分のありのままの姿を認め、その罪を告白して、自分のもとに帰ってくることを心から喜んで迎えてくださると教えてくださったのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
私たち罪人が滅びることを望むことがなく、罪を悔い改めて、赦しを求める者を喜んで受け入れてくださるあなたの愛に心から感謝いたします。そしてイエス・キリストの十字架の贖いを通してたちのような者たちを喜んで子としてくださることにも感謝いたします。私たちはそのあなたの喜びにあずかるために今日もこの礼拝に集いました。私たちがそのあなたの愛に答えて、あなたの子として生きることができるように、聖霊を送って私たちを助けてください。様々なこの世の出来事の中でも私たち確かな喜びの源であるあなたに信頼して生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.この物語に登場する二人の息子の内の弟の方は父親に何を願いましたか。この願いから彼が何を考え、何をしようとしたことが分かりますか(11〜13節)。
2.遠い町で自分の財産をすべて使い果たしてしまった彼にはどんなことが起こりましたか(14〜16節)。
3.彼は「我に返って」、どのようなことに気づきましたか(17〜19節)。
4.この息子の父親は息子を見つけるとどうしましたか(20〜24節)。
5.もう一人の息子の方はこの父親の姿を見てどのように思いましたか(25〜30節)。
6.父親に不満を語ったもう一人の息子は父親の何がわからなかったのでしょうか(31〜32節)。