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2020.4.12「喜びの朝に」

マタイによる福音書28章1〜10節(新P.59)

1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。

2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。

3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。

4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、

6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。

7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」

8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」


1.イエスの墓を見つめる女性たち

①重要な使命を果たした女性たち

 政府による緊急事態宣言が出されてキリスト教会も礼拝を中止せざるを得ない状況が生まれています。教会に集まる代わりにインターネットなどを通して礼拝を献げる教会が多くなっています。私たちもこのような形で皆さんと共に礼拝を献げることが日々、困難になってきていることを感じます。しかし、教会に人が集まるかどうかは別にして、私たちの献げている礼拝はイエス・キリストが墓から甦られた日曜日の朝から始まり、現在まで休みなく続けられて来ました。キリスト教会の礼拝は最初の日曜日の朝に復活されたイエス・キリストに出会った人々の喜びを受け継いで献げられて来たのです。今、私たちの置かれた状況がたとえ困難なものであっても、私たちは今日もこの礼拝で復活されたイエスと出会い、その喜びを分かち合うことに心を傾けたと思います。

 今朝、皆さんと共に復活祭の礼拝を献げるために選んだ聖書の箇所はマタイによる福音書が記した主イエスの復活に関する物語です。まず、この物語には二人の女性が登場しています。一人はマグダラのマリアと呼ばれる女性で、もう一人も彼女と同じように「マリア」と言う名前を持った別の女性です。ご存知のようにイエスの母となった女性も「マリア」と言う名前を持っていました。これは聖書を読む私たちを混乱させる原因にもなってしまうのですが、どうやらこの「マリア」と言う名前は当時の女性につけられた最もポピュラーな名前であったと考えられます。

 さて、ここに登場する二人の女性のマグダラのマリアともう一人のマリアはイエスに従った女性の弟子たちの一人であったと考えられています。教会の歴史では長い間、男性中心の社会制度の中で教会が運営されてきた影響で女性の働きをあまり重要視していなかったという傾向がありました。しかし福音書が記したイエスの復活の物語の中ではむしろこの女性の弟子たちが重要な役目を果たしていることが分かります。彼女たちはイエスが逮捕されて十字架にかけられるという過程でも、イエスから決して離れることがありませんでした。一方の男性の弟子たちが自分たちに害が及ぶ敵対勢力の迫害を恐れて、イエスの前から早々逃げ出してしまったのに反して、彼女たちは自らの身の危険も恐れずに、イエスの十字架の下に留まり続けたのです。今日、私たちは、イエスがどのように十字架にかかり死なれたのか、またそこでどのような言葉を語られたかを福音書を通して知ることができるのは、この女性たちの証言によるものだと考えることができます。


②イエスの墓を見に行った二人

 さて、マタイによる福音書は安息日が終わった後、イエスの墓に向かう二人の女性、マグダラのマリアともう一人のマリアの姿を紹介しています。私たちの使っている現代のカレンダーに置き換えると安息日は金曜日の日没から始まり、その翌日の土曜日の日没で終わります。その後、週の初めの日が始まると言うことになります。ですから彼女たちは日曜日の明け方にイエスの遺体が葬られていた墓に向かったことになります。彼女たちはこのときいったいイエスの墓に何をしに行ったでしょうか。他の福音書はイエスの遺体に香料として用いられた油を塗るために墓に行ったことを説明しています(マルコ16章1節)。ところマタイは彼女たちの目的はイエスの「墓を見に行った」とだけ記しています。興味深いことにマタイはこの同じ報告を少し前の部分、イエスの遺体がアリマタヤのヨセフの墓に葬られた場面でも記しています。アリマタヤのヨセフが密かにイエスの遺体を自分の持っていた墓に葬ったときに「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」(61節)と、この二人の女性がこの時もイエスの墓を見つめていたことを記録しています。

 ヨセフはイエスの遺体を安息日が始まる前、つまり金曜日の日没前に墓に葬りました。それから日を挟んで、この二人の女性はまたイエスの墓を見に行ったのです。彼女たちはイエスの墓で何かが起こることを期待してそこに行ったのでしょうか。どうもこの時点で彼女たちがイエスの復活を予想していたとは考えることができません。それでは彼女たちはどうしてイエスの墓を見つめ続けていたのでしょうか。

 最近は葬儀が簡素化されたり、葬儀自身しないという人も増えて来ました。現代人は葬儀に対して積極的な意味を持つことが出来なくなっているのかも知れません。ただ、それでも葬儀には大切な意味がいくつか残されていると思います。その最も重要な意味は、残された者が故人の死を確認することで、新たな人生を歩みだすための機会を作ることです。亡くなった人間に思いを寄せることは大切ですが、残された者はいつまでも故人との過去に留まり続けることはできません。どこかでけじめをつけて新しい歩みを始めなければならないのです。葬儀は残された者たちにそのようなけじめをつけるために大切であるとも言えるのです。もしかしたら、マリアたちがイエスの墓を見に行ったのはそのようなけじめをつけて、イエスのいない新しい人生を始めるためだったとも考えることができるのです。


③途方に暮れるマリア

 聖書はここに登場するマグダラのマリアについてイエスから「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリアと呼ばれる女性」(ルカ8章2節)と言う人物紹介をしています。興味深いのは、ルカはこのマグダラのマリアを紹介した同じ8章で悪霊に取りつかれて苦しんでいた別の男性の物語を紹介していることです(ルカ8章26〜39節)。この物語を読むと悪霊に取りつかれていた人は自分の意志を完全に悪霊に奪われていました。一日中暴れ回る彼を誰も抑えることができません。だから彼は家から追い出されて墓場を住処にしていました。その上で悪霊に自分の意思も奪われていた彼はイエスに向かって「助けてほしい」と言うこともできない有様だったのです。

 マグダラのマリアは「七つの悪霊」に取りつかれていたと説明されています。もしかしたら現代の精神医学で言えば多重人格障害のような病を持って苦しんでいたのかも知れません。いずれにしても悪霊の支配のために自分ではどうすることもできない人生を彼女は送っていたのです。その彼女の人生を悪霊から取り返してくださったのがイエスでした。そして彼女はイエスに取り戻していただいた自分の意思を使って、イエスに従い続ける生活を歩んで来たのです。彼女の人生にとってイエスの存在はなくてはならないものであったはずです。そのイエスが死んで墓に葬られてしまったのです。きっと、マリアはこれからどう生きて行けばよいのかが分からずに、途方に暮れていたのかもしれません。マリアにできることはただイエスの墓に行くことだけだったのです。


2.イエスはここにはおられない、イエスは私たちと共におられる

 しかし、途方に暮れるマリアたちはここで自分たちが予想もしていなかった、思いがけない出来事に遭遇し、それを目撃することになりました。

「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」(2〜3節)

 突然、地震が起こり、天使が現れ、イエスの墓を覆っていた石を天使が動かしたと聖書は説明しています。何のために天使はイエスの墓を覆っていた石を動かしたのでしょうか。それは墓の中に眠っていたイエスを外に出すためではありませんでした。なぜならこの時点ですでにイエスは復活されていたからです。あるべきはずのイエスの遺体はすでに墓の中から消えていたのです。

 天使たちが墓穴の石を取り除いた理由は別にありました。それはイエスの遺体が墓の中にはいないことをマリアたちに教えるためでした。復活されたイエスはすでに墓にはいないことを彼女たちに確かめさせるために天使はそのようにしたのです。だから天使は彼女たちに次のような言葉を語って、この事実を強調しています。

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」(5〜6節)

 イエスは「ここにはおられない」と天使はマリアたちに告げています。イエスは死から甦られたのです。この復活祭の礼拝に集う私たちがまず確認しなければならないことはこのことです。イエスは甦られたのです。イエスは過去のあるときに生涯を送り、死んで行った歴史上の人物の一人ではないのです。その上で私たちがさらに確認しなければならないことは、甦られたイエスが今、私たちと共におられると言うことです。確かに復活されたイエスの肉体はこの後、地上を離れて天に昇られています(ルカ24章50〜51節)。しかし、復活されたイエスは私たちにこうも約束してくださっています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28章20節)。この言葉の通り、復活されたイエスは私たちと共におられるのです。復活されたイエスは天から私たちのために聖霊を遣わしてくださいます。そして私との命の絆を作り、ご自身が私たちと共にいてくださることを教えてくださるのです。


3.神の約束に従う者に、イエスはご自身を示される

 マリアたちに語られた天使たちの言葉は次のように続いています。

「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」(7節)

 天使たちはここでマリアたちに使命を与えています。それはイエスが甦られたことを他の弟子たちに伝えることです。そして、イエスは彼らと会うためにイエスや弟子たちの故郷でもあったガリラヤに戻って、そこで彼らを待っておられると言うことを弟子たちに告げる使命がマリアたちに託されたのです。

 ところがこの福音書は実際にはこの天使の言葉とは違った出来事が起こったことを報告しています。なぜなら、この後すぐに復活されたイエスが婦人たちの前に現れたからです。どうしてイエスは天使たちの言葉とは違って、ガリラヤではなくここで婦人たちにご自身の姿を現わされたのでしょうか。そのことについてある聖書解釈者はこのような説明をしています。

 二人の女性は天使たちの言葉を信じて、その言葉通り従いました。すると彼女たちの前に復活されたイエスが姿を現れます。そのように復活されたイエスは神の約束に従う者の前にご自分の姿を喜んで現してくださると言うのです。イエスの復活を誰にでも分かるように説明することは困難です。しかし、イエスの約束に従う者に復活されたイエスは今でも喜んでご自身が生きていることを表してくださるのです。

 私たちの献げる礼拝は、この神の約束を信じ、その言葉に従って生きたいと願う者たちが集まるところであると言えます。だから、復活されたイエスは、この礼拝に集う私たちにも天から聖霊を遣わしてくださるのです。そしてご自身が生きて今も私たちと共にいてくださっていることを私たちに示してくださるのです。このような意味で私たちの礼拝は復活されたイエスと私たちが出会う大切な場所であると言えるのです。イエスは神の約束を信じる私たちが集まる礼拝において、ご自身が復活して生きておられることを示してくださるからです。


4.平和を与えるために復活されたイエス

 イエスはこのときマリアたちに「おはよう」と声をかけられています。ユダヤ人は現代でも挨拶の言葉として「シャローム」と言う言葉を使います。イエスがこのとき語られた言葉もこの言葉です。だから正確にイエスの言葉を訳せば「平和があるように」と彼女たちに語りかけられたことになります。

 私たちは自分の毎日の生活の中に「平和があるように」と願いながら生きています。しかし、私たちの持つ平和はこの世の出来事の中で簡単に揺り動かされ、失われてしまうことを知ります。今回のウイルスの問題もそのようよい例であると言えるかもしれません。今、私たちが確かだと思っていた生活がウイルスの力によって脅かされ、私たちに恐れを抱かせています。

 この物語には登場しませんが、かつてイエスの前から逃げ出してしまった弟子たちも、この復活されたイエスに出会って同じように「シャローム」と言う挨拶を与えられています(ルカ24章36節)。そして聖書は復活されたイエスからこのシャロームをいただいた弟子たちの人生がどう変えられて行ったかを証言しているのです。かつては、恐れのためにエルサレムの一室に閉じこもることしかできなかった彼らが、やがて死を恐れることなくキリストの復活を証しる使徒たちに変えられていった姿を聖書は教えるのです。

 イエス・キリストは私たちにも真の平和、シャロームを与えるためにこの日、甦ってくださいました。今、様々な制約の中に生きる私たちが、その制約の中でも自由に生きることができるように私たちも復活されたイエスから真の平和、シャロームをいただいて生きて行きたいと思います。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 私たちが今年もこの復活祭の喜びにあずかることができる幸いを感謝いたします。毎年春の訪れと共にやって来るこの復活祭を私たちは当たり前のように祝い続けて来ました。しかし、私たちの住む世界は今、この春の訪れさえも喜ぶことのできない危機に襲われています。私たちたちに真の「シャローム」、平和を与えるために復活してくださった主が、今、私たちにもその平和を与えてください。復活の最初の証人として選ばれた人々と同じように、御言葉に信じ、従うことで、私たちも復活のイエスとの出会いを体験し、その出来事を人々に証することができるように、私たちの導いてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.「安息日が終わった、週の初めの日の明け方」にイエスが葬られた墓に向かった人は誰でしたか。その人たちは何をしにそこに行ったのですか(1節)。

2.マグダラのマリアともう一人のマリアは墓でどのような出来事を目撃しましたか(2〜4節)。

3.天使はどのようなことを二人の婦人に話しましたか(6〜7節)。

4.婦人たちはこの天使の言葉を聞いて、何をしましたか(8節)。

5.聖書はそのように行動した婦人たちの上に、続けてどのような出来事が起こったことを教えていますか(9〜10節)。

6.あなたは今の自分の生活にイエスが与えてくださる「シャローム(平和)」が必要だと思いますか。イエスはあなたにどこでこの「シャローム」を与えてくださると思いますか。

2020.4.12「喜びの朝に」