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2020.4.19「憐れみ深いサマリア人」

ルカによる福音書10章25〜37節(新P.126)

25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、

27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。

31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、

34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


1.永遠の命を受け継ぐには

①聖書を信じる様々な宗教

 私たちキリスト教徒が信仰の基準として大切にしているものは聖書です。ご存知のお方も多いと思いますが、この聖書は今でもキリスト教以外の宗教でも聖典として、またそれぞれの信仰を育むための大切な書物として用いられています。ユダヤ人の多くは聖書が約束していた救い主こそがイエスであると言うキリスト教の信仰に真っ向から反対しました。しかし、彼らは今でも旧約聖書を自分たちの宗教の聖典として重んじているのです。また、キリスト教に次いで世界にたくさんの信徒を抱えているイスラム教は独自にコーランと言う聖典を持っていますが、実は同時に旧新約聖書も神の言葉を伝える大切な書物として受け入れているのです。このほかにも世界では私たちが日ごろ読んでいる聖書を使って、キリスト教信仰とは違った様々な信仰を伝えているグループがたくさん存在しています。どうして同じ聖書を信じていながら、世界にはこんなにもたくさんの宗教が存在するのでしょうか。そのような疑問が私たちの頭にも浮かんでくるはずです。ここで大切になってくるのは、聖書をどのように読むのかと言う読み方であると思います。つまり聖書を読んでいてもその読み方が違ってしまえば、ユダヤ教やイスラム教のようなキリスト教とは異なった信仰が生まれてくる可能性があるのです。それでは私たちが信じるキリスト教はこの聖書をどのように読もうとするのでしょうか。


②聖書の専門家

 今日の物語には「律法の専門家」と呼ばれる人物が登場しています。この律法とは神がイスラエルの民に与えられた戒めのことを指しています。律法は旧約聖書の最初の五つの書物の中に記されていますので、この五つの書物を「律法の書」と呼ぶことがあります。また旧約聖書の他の書物もこの律法との関わり合いを通して書かれていることから、旧約聖書すべてを「律法の書」と呼ぶこともできるのです。つまり、ここに登場する「律法の専門家」は「聖書の専門家」と呼んでよい職業を持った人物だったと言えるのです。聖書の知識について他の人に引けを取らないそのような人物ではありますけれども、彼の聖書の読み方はどこかがおかしいのです。そのことについて聖書は「彼は自分を正当化して」と言う言葉を使って指摘しています。「神が聖書を通して何を語られているか」と言うのではなく、自分を正当化するために聖書を読むのです。そうなると人は聖書の伝える神からの正しいメッセージを受け取ることができなくなります。むしろ自分の考え、自分の意見を正当化するために聖書の言葉を用いると言うことになれば、それはまさに自分の考えを信じる、自分教になってしまうはずです。

 この「律法の専門家」はイエスに「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)と尋ねています。この「永遠の命」は神が私たち人間に与えてくださるものです。ですからその命をいただくためには聖書から神が示してくださる正しいメッセージを受け取らないといけないのです。自分の考えをいくら正当化しても永遠の命を手にすることは誰もできないのです。


2.隣人とは誰か

 イエスはここであえて「律法の専門家」に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(26節)と問い返されています。実はこの「律法の専門家」はイエスのところに真剣に自分の信仰に対するアドバイスを求めてやってきた訳ではありませんでした。彼は「イエスを試そうとして言った」(25節)と福音書はその理由を記しています。試験をする人はその試験を受ける人よりも知識が豊富であり、正しい答えを持っていなければなりません。私はだいぶ前になりますが、改革派教会の牧師になるための人を試験する試験委員に選ばれたことがありあす。そのとき試験問題を作るためにとても苦労したことを思い出します。何よりも試験官は受験生よりも正しい知識を持っていることが要求されているからです。この「律法の専門家」はきっとイエスより自分の方が優れていると考えていたのでしょう。

 この「律法の専門家」すぐにイエスの質問に答えて、自分が持っていた模範解答をここで披露しています。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」(27節)ここで語られている二つの戒めはいずれも旧約聖書で教えられているものです(申命6章5節、レビ記19章18節)。ですからイエスはこの答えを聞いて「正しい答えだ」と語りました。しかし、その後すぐに「それを実行しなさい」と「律法の専門家」に語っているのです。そしてイエスは「そうすれば命を得られる」とも語りました(28節)。

 ここでさらに続けて「律法の専門家」はイエスにこう尋ね返したと言うのです。「では、わたしの隣人とはだれですか」(29節)と…。当時のユダヤ人は自分たちと同じ先祖から血を受け継ぐ人々、同じ信仰を持つ仲間たちだけを「隣人」と考えていました。そしてそれ以外の人々を「敵」と考える傾向があったのです。「律法の専門家」の問いは、彼らのこのような聖書の読み方を反映するものでした。そこでイエスが語られたのが「善いサマリア人」と多くの人々に呼ばれている有名なたとえ話でした。


3.誰がその人の隣人になったのか

①けがをした人に近寄ったサマリア人

 このたとえ話はこのように「わたしの隣人とは誰か」と言う問いに答えるかたちでイエスによって語られています。しかし、結論から言えばイエスのこのたとえ話の中にはこの質問に直接答えている言葉はありません。むしろ、イエスはこのお話の最後で「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(36節)と「律法の専門家」に尋ねているのです。イエスのこの言葉から考えると、「誰が自分の隣人か」と考えること自体が間違いであり、むしろイエスは「私たちが誰かの隣人になるためには何をしたらよいのか」と言うこと教えていることがわかります。つまり、私たちにとっての隣人とは最初から誰それと決められた人がいるのではなく、私たちの生き方次第で誰でも隣人となりえる、私たちがその人の隣人になり得る可能性を持っていると言うことが分かります。

 ところでこの同じ個所を説教した、かつて東京恩寵教会の牧師だった榊原康夫先生はとても大胆な解釈でこの物語を説明しています。多くの人は先ほどのイエスが隣人について教えるこの物語の結論の言葉から、私たちは愛を持って使い合い、互いの隣人となっていく必要があると語ろうとします。ところが榊原先生はこの物語に出て来る出来事は、そのような私たちの身近な生活に適用する出来事を教えているのではないと言うのです。この物語の主人公はエルサレムからエリコの町に向かう途中で追いはぎに出会い、身ぐるみすべてを奪われた上で、暴力を振るわれて半殺しの目に会いました。傷だらけの男が裸で道に倒れていると言う出来事がここでは起こっているのです。だからこんなことは私たちの人生でめったに経験できることではないと榊原先生は語っているのです。

 おそらく皆さんが道で事故か事件に出会い、大変なけがを負っている人に出会ったら、「何とか助けたい」と考えるはずです。自分で応急手当が出来なくても、せめて救急車をすぐに呼ぶことでその人を助けたいと思うはずです。ここの登場するサマリア人はケガをして倒れている人に出会った人がする当然のことをしたのです。サマリア人は倒れている人を見て「憐れに思った」(33節)と言われています。サマリア人は人間が抱く自然な感情によって、倒れている人に近寄ったと考えることができます。


②近寄れなかった人々

 ところがこの物語ではそれができなかった人、いえ、それをしなかった人が登場しているのです。この事件現場は町外れの他には誰もいない、人目がないところで起こりました。人は通常は「こんなことをしたら、自分は人からどう思われるか」と言う人の下す自分への評価を気にして行動し、また考えています。しかし、この場所ではそれを気にする必要は全くなかったのです。「自分が何をしても、他人から批判されることはない…」。そういう場所でなら人間は自分の考えに忠実に従って行動することができます。だから、この物語に登場する祭司やレビ人と呼ばれる人は、自分の考えに従って、倒れている人を助けることをしなかったのです。

「ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」(31〜32節)

 祭司もレビ人もエルサレム神殿で執り行われるさまざま儀式を行う職業的宗教家たちです。彼らは共に道に倒れている人を自分の目で確認した上で、「道の向こう側を通って行った」と言うのです。わざわざ倒れている人から一番遠い場所を選んで、そこを通り過ぎて行ったのです。どうして、彼らはそんなことをしたのでしょうか。実は彼らは聖書が教えている律法に従ってそうしたと考えることができます。なぜなら、律法には死体に触れた者は汚れると教えられているからです(民数5章2節、19章11節)。もしこの時、祭司やレビ人が死体に触れたとしたら、律法に定められた手続きを経て一定の清めの期間を置かないと神殿での働きをすることができなくなってしまうのです。つまり、彼らは「何よりも神に仕える」と言う自分たちに与えられている使命を全うするためにそこを通り過ぎたと言えるのです。つまり、彼らの聖書の読み方から言えば、彼らの行為は正しかったと判断されてもよいものだったのです。

 ところが彼らに反してサマリア人は倒れていた人を「憐れに思って」助けようとしたのです。このサマリア人は様々な歴史的事情があって当時のユダヤ人が最も嫌っていた人々でした。イエスはユダヤ人たちにとって思いもかけないような人が、倒れている人の「隣人」となったと教えているのです。


4.聖書の正しい読み方

 聖書を読むとイエスは当時の律法学者やファリサイ人と呼ばれた「律法の専門家」たちと激しい論争を交え、律法の解釈で意見を異にしていたことが分かります。イエスは聖書とは違う教えを語ったのではありません。聖書の正しい解釈を彼らに教えようとしたのです。特に、その対立でよく出てくるのが安息日の戒めについての論争です。当時のユダヤ人は安息日には神を礼拝する以外に、他のことは何もしてはならないという教えを語り、それを固く守ってきました。しかし、イエスはこの安息日の戒めに拘束さえことなく、困っている人や病の人を安息日でも助けられたのです(たとえばヨハネ9章)。イエスは今日のたとえ話に登場するサマリア人と同じように病に苦しむ人を「憐れに思って」、彼らに癒しの手を差し伸べ、彼らを救ったのです。しかし、当時の律法学者やファリサイ派の人々はこのたとえ話に登場する祭司やレビ人と同じよう、安息日に神に仕えるためには、そんなことをしてはならないとイエスに対して強く主張したのです。

 私たちキリスト教会が信じているのはこのイエスが教えた聖書の正しい解釈です。なぜなら、神は罪人である私たちを「憐れに思い」、私たちを助けるために救い主イエスを送ってくださったからです。聖書は私たちを「憐れに思い」、救おうとされた神の御業を正しく伝える書物なのです。そのような意味で旧約聖書も新約聖書も同じ神の救いの御業を教えていると私たちは信じているのです。

 それでは私たちは「永遠の命を受け継ぐために」に聖書をどのように読むべきなのでしょうか。第一に私たちはこの聖書の教えを正しく教えることのできる方は、神の身元から遣わされた救い主イエスであることを認め、このイエスを通して聖書を読む必要があります。このイエスを無視すれば、私たちはいくら聖書を熱心に読んでも、この物語に登場するような「律法の専門家」のように誤った読み方に陥ることになります。

 それではこのイエスを通して明らかになった聖書の教えとはどのようなものなのでしょうか。それはすべての人がこのイエスを信じることで救いを受けることができると言うことです。私たちが永遠の命を受け継ぐためには聖書が明らかに教えるように、救い主イエスを信じ受け入れる必要があるのです。

 このように私たちはいつもこの聖書を救い主イエスを通して読み解く必要があります。そしてこの聖書が教える通りに、私たちが救い主イエスを信じて生きるならば、神は永遠の命を私たちに与えてくださるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.律法の専門家は何をしにイエスの元やって来ましたか。彼はイエスにどのような質問を投げかけましたか(25節)。

2.律法の専門家はイエスから律法についての質問を受けた時に何と答えましたか。また、彼は自分を正当化するために、さらにどんな問いをイエスに語りましたか(27〜29節)

3.エルサレムからエリコに向かう道の途中で追いはぎに会い、半殺しの目にあった旅人を見て、祭司とレビ人はどのような反応を示しましたか(30〜32節)。

4.サマリア人は道に倒れている人を見て、どのように思いましたか。彼は倒れている人のために何をしましたか(33〜35節)。

5.イエスは律法の専門家に対して「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねています。イエスはどうしてこの質問を彼にしたのだと思いますか(36〜37節)。

2020.4.19「憐れみ深いサマリア人」