2020.4.26「パウロの豊かさ」
フィリピの信徒への手紙4 章15〜23 節(新P.366)
15 フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
16 また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
17 贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
18 わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
19 わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。20 わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
21 キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。
22 すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。
23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。
1.本当の豊かさとは何か
①焼け跡で見つかった財産
相当前に読んだのですが、新聞に報道されたある事件の記録が今でも私の記憶に残っています。その事件は身寄りのない二人の老いた姉妹の家が火事となり、焼け跡から二人の遺体が見つかったと言うニュースでした。これだけなら、不幸な火災事件を伝える出来事なのですが、実はこのニュースはそこで終わりません。なぜならこの後、その残された焼け跡から驚くべきものが見つかったからです。この火災で焼け死んだ姉妹は普段から身寄りがなく、貧しい暮らしをしていました。近所の人たちもその姉妹の生活がとても貧しそうに見えたと言っています。だから、同情する近所の人たちからもいろいろと助けられて、その姉妹は細々と生活を続けていたと言うのです。実はその焼け跡の中から頑丈な金庫が見つかったのです。そして消防署の職員が中身を確かめるためにその金庫を開けて見ると、その中から多額の現金と有価証券などの書類が見つかったのです。それらの価値を計算すると、姉妹がたとえ相当の長生きをしたとしても、その余生を使ってはとても使いきれないほどの大金だったのです。近所の人々はそのことを後から知って、「貧しい姉妹だと思っていたけれども、本当は大金持ちだったのね」と驚いたと言うのです。しかし、このニュースを読んだとき、私は本当にこの姉妹は金持ちだったと言えるのだろうか、本当にこの姉妹は豊かな人生を送ることができていたと言えるのだろうか…と疑問に思ったのです。
聖書の中にはイエスが語られたたとえ話で「愚かな金持ち」と言うお話があります。ある金持ちの畑が大豊作になりました。金持ちはたくさんとれた穀物を保存するために、古い蔵を取り壊して大きな新しい蔵を作ってその中にすべての穀物を納めます。そして金持ちは「これで自分は一生、楽をして暮らせる」と喜んだと言います。ところが残念なことにその晩、金持ちは急病になって突然に息を引き取ります。結局、彼が蔵にしまい込んだたくさんの穀物は、この金持ちのためには何の役にも立たないものとなってしまったのです(ルカ12 章13〜21 節)。
②神の前に豊かになる者
このたとえ話の結論の部分でイエスは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(21 節)と教えています。財産を得るためだけに自分の人生を使い果たしてしまうのではなく、「神の前に豊かになる者」になりなさいとイエスは言うのです。それではこの「神の前に豊かになる者」の生き方とは、どのような生き方を指しているのでしょうか。私たちは使徒パウロが記したフィリピの信徒への手紙をこれまでこの礼拝で学び続けて来ました。今日でのその学びも一段落を迎えます。そしてパウロはこの手紙の最後の部分で「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています」(18 節)と語っています。今日はこのパウロの言葉から私たちの人生を本当に豊かにする生き方とは何かについて少し学んでみたいのです。
私たちは普段、お金や物を豊かに持っていれば、たくさんの財産を持っていれば幸せになれると思っているところがあります。だから懸命になってそれらのものを得ようとして、毎日努力して、働き続けているのです。ところがその反面で、必ずしも財産があれば幸せになれるかと言えば、それもそうではないと言うことも私たちはうっすらと理解しています。もちろん、皆さんの中には「自分は金持ちになった経験がないので、そんなことは分からない」と言われる方もいるかも知れません。しかし、先ほどのイエスのたとえ話でも分かるように、物をたくさん持っているからと言ってその人の人生が本当に豊かであるとは言えなという場合もあるのです。
資本主義の三大原理という言葉を以前どこかで聞いたことがあります。「よく働き」、「よく貯め」、そして最後に「よく使う」というのがその原理の内容だそうです。ところが西洋から資本主義の制度を輸入した日本ではこの三大原理の最初の二つはよく知っていても、最後の「よく使う」と言うことはなかなか理解されていないと言うのです。
おそらくこの原因には資本主義が生み出された本場の欧米と日本では財産についての考え方に大きな違いがあるからかも知れません。元々、聖書に親しんでいる欧米の社会では、財産は神から与えられる賜物の一つと考えられて来ました。神はその賜物を私たちがふさわしく用いるために預けてくださったと教えられて来たのです。ところが日本では財産はあくまでも自分の努力によって手にいれたものだと考えます。だから自分の好き勝手に用いていいと言うのです。欧米では金持ちが多額の財産を社会事業に寄付するということが時々、聞かれます。有り余る財産の一部を有効な使い道のために寄付するのです。これもまた、資本主義の「よく使う」と言う原理を適用した行為だと言えるのかも知れません。そのようにして神から与えられたものをすべて有効に用いようとするのです。このことから考えると本当に豊かな人生とは、持っている財産の大きさを言いのではなく、むしろそれらのものを有効に使えるかどうかにかかっていると考えることができるのです。
2.豊かな実を結ぶ人々
①フィリピの教会から届いた贈り物の意味
先ほど読んだように、パウロはこの手紙の最後の部分でフィリピの教会の人々から贈られた金品について感謝の言葉を述べています。ここに登場するフィリピもテサロニケも地図で見ると現在のギリシャの北部にあったマケドニアと言う州に属した都市の名前です。不思議な神の導きによって始まったパウロのヨーロッパ伝道は、このマケドニアの地からスタートしたのです。そしてフィリピの教会の人々はパウロのヨーロッパ伝道をそれ以後、ずっと支え続けて来たと言うのです。「あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」(16〜17 節)。フィリピの教会に集う人々が特別に豊かな人たちであったと言う記録はどこにも残されていません。おそらく、彼らは自分の大切な持ち物の一部を進んでパウロのために贈り物として送り続けたのです。そしてパウロの伝道活動は彼らから贈られた品物によって継続することが可能となりました。彼らの助けがなかったらパウロの働きは続けることができなかったのです。ところでパウロはこのフィリピの人々からの贈り物について、パウロを助けただけではなく、「むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」と語っています。フィリピの人々がパウロに捧げた品物を通じて、むしろパウロではなく、フィリピの人々が豊かな実を得ることができると教えているのです。彼らの捧げものはパウロのためだけではなく、彼ら自身の人生を豊かにするためにも用いられるとパウロはここで語っているのです。これはどういう意味なのでしょうか。
これについて考えられる理由は、第一にパウロを通してなされている伝道の業の意味です。キリストの福音がすべての人々に宣べ伝えられることはフィリピの教会の人々の願うことでもあったからです。だから、彼らがパウロの伝道活動を支えることが、彼らの願いをかなえることにもなったと考えることもできるのです。
さらに第二の理由は、すべての人々に福音が宣べ伝えらえることは、パウロやフィリピの教会の人々の願いと言うよりも、神ご自身の願いであると言うことができます。ですから、この伝道のためなら犠牲を払って神に仕えることが、私たちの人生にとても重要な意味を与えるのです。つまり自分の人生で実を豊かに実らせる生き方とは、神の期待に答えて、私たちが自分の人生や自分の持っている物を使うことでだと言えるのです。だからパウロはフィリピの人々の生き方を神が認めてくださるようにと語っているのです。
②神が求められる目的のために使う
私たちは自分の人生も、自分の持ち物も、自分が満足できるように使えばそれでよいと考えているところがあります。しかし、聖書はそれらのものを神の望まれることのために使いなさいと教えているのです。私たちの人生も、私たちの持っているものも神が私たちに与えてくださったものです。神が与えてくださるものに無意味なもの、また価値のない物は何一つないと言えます。だから大切なことは私たちが自分に与えられた人生や財産を、神が求めておられることのために使うことだと言えるのです。イエスが愚かな金持ちのたとえの最後の部分で語った「神の前に豊かになる者」とは、自分の人生を神の御心に従って使い、その命の価値を十分に発揮できる者の生き方を教えていると言えるのです。パウロはここで自分の人生について「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています」と語っています(18節)。パウロは「あらゆるものを受けている」と言っています。しかしご存知のようにパウロは決して大金持ちだった訳ではありません。何度も語るようにパウロはこの手紙をローマの獄中で記しています。彼は囚人として不自由な暮らしをしなければなりませんでした。囚人ですから自分の持ち物も多くはなかったはずです。だからフィリピの教会から届いた贈り物は彼の生活を助けることができたのです。しかし彼はそのような生活にも関わらず自分は「あらゆるものを受けた」と言っているのです。これは神のために自分の人生を使ったパウロにとって、彼に与えられたものは、彼にとって十分なものであったと言うことを語っているのです。
この手紙の最後でパウロはフィリピの教会の人々に挨拶の言葉を書き送っています。その中に「特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです」(22節)と言う言葉が記されています。ここで語られている「皇帝」とは当時のローマ帝国を支配していた人物のことです。この言葉によれば、パウロの伝道はこのときローマ皇帝の近親者にまで及んでいたと言うのです。ローマ皇帝の近親者がキリストを信じる信仰を持って、フィリピの教会の人々に挨拶を送っていると言うのです。この言葉からもパウロは囚人でありながら、大胆に伝道の業に励み、ついにはキリストの福音をローマ皇帝の近親者にまで伝えることが出来きたことが分かるのです。このような意味でパウロは自分に与えられた使命を果たすために、神は自分に必要なものを「豊かに与えてくださった」と言うことができたのです。そしてパウロはその与えられたものを自分の人生で「豊かに使う」ことができたとも言えるのです。
3.パウロの豊かさ
『大草原の小さな家』と言うアメリカで作られた古いテレビドラマがあります。そのドラマの中で今でも思い出す話があります。ある日、このドラマの主人公の父親が自分の仲間と一緒に働いていました。その時、彼の仲間の一人が急病になり、突然息を引き取ってしまうと言う出来事が起こりました。目の前で親しい友人を失った出来事を経験したこの物語の主人公の父はショックを受けます。彼はせめて、亡くなった家族に慰めの言葉を伝えようと残された家族の家に行きます。ところが一家の主人が亡くなってそんなに月日が経ってはいなかったのに、その家を尋ねると家族は既にどこかに引越して、もぬけのからとなっています。残されているのはもはや誰も訪れること無い、荒れ果てた友人の墓だけだったのです。ここから自分の命の儚さを痛感した主人公の父は、自分が死んでも、自分のことを人々に思い出してもらえるためには何をしたらよいのかと言うことを真剣に悩み始めます。この話の結末がどうなったのかと言うことは忘れしまって今では覚えていません。しかし、自分の命の儚さ知り、悩む主人公の父の心境はこのドラマを見た私にもよく分かるような気がしたのです。
イエスの語られた愚かな金持ちの主人公は自分のためには最後まで役に立つことのできない財産を作るために自分の人生の大切な時間を使い果たしてしまいました。しかし、残された財産はもしかしたら、彼以外の誰か困っている人々のために役立てられることがあったかのかも知れません。しかし、それでも金持ちが生きていたと言う証は、その財産と共にこの世から消えて行ってしまうはずです。そうなると彼の人生はいったい何のためにあったと言えるのでしょうか。新型コロナウイルスに感染して、その病の急激な症状の悪化のために命を落としてしまった人のニュースを聞きます。そのニュースを聞くと、私たちも「自分も同じようになるかも知れない」と思い、不安や恐れを抱くことがあります。私たちは普段、考えることのなかった自分の命の儚さに気づかされることがあるのです。しかし、聖書は私たちの存在は決して忘れ去られることがないと言うことを私たちに教えています。なぜなら、私たちの人生や私たちのこの地上での歩みは神がすべて心に留めてくださっているからです。だからこそ、私たちはこの地上の人生を豊かに生きる必要があります。神はどのような状況の中に私たちが置かれたとしても、私たちの人生が豊かになれるようにすべてのものを与えてくだるお方です。だから私たちもこの神を信じて、パウロのような豊かに生きる人生を送って行きたいと思うのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.この箇所のパウロの言葉からフィリピの教会の人々は彼のために何をし続けていたことが分かりますか(15〜16節)。
2.パウロはこのようなフィリピ教会の働きを通して、何が実現することを期待していると言っていますか(17節)。
3.このときローマの獄中で捕らわれの身だったパウロは自分の置かれた状況について、どのように表現することができましたか(18節)。
4.19節のパウロの言葉を読むと、私たちに必要なものを与えてくださる方は誰であることが分かりますか。
5.このとき獄中にあっても自分は「豊かだ」と言うことができたパウロの信仰の姿勢から、私たちが学ぶことができることは何だとおもいますか。
6.今のあなたに一番必要なものは何ですか。神がそれらのものを与えてくださるように祈って見ましょう。