2020.4.5「パウロの秘訣」
フィリピの信徒への手紙4章10〜14節(新P.366)
10 さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。
11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
14 それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
1.主に置いて喜ぶ
①贈り物への感謝
今日も皆さんと共にパウロの記したフィリピの信徒への手紙から学びたいと思います。今日の部分ではパウロがフィリピの教会の人々に感謝の言葉を伝えることから始まっています。何度も学びましたようにこの手紙を記したパウロはこの当時、ローマの都で獄中生活を送っていました。この都で自分のために裁判が開廷される日を待っていたのです。もちろん、パウロは犯罪を犯して囚人となっていた訳ではありません。キリストの福音を忠実に宣べ伝えたパウロを妨害しようとしたユダヤ人たちの陰謀によって彼は捕らわれの身となっていたのです。パウロはユダヤ人でありながらローマの市民権を持っていました。ですから、彼は当時のローマ政府に自分を正しく裁いてほしいと願い出たのです。その結果、彼の身はローマの都まで護送されて、この都で囚人生活を送ることとなったのです。
フィリピ教会の人々はこのパウロの消息を知って、自分たちにできることで何とか獄中のパウロを助け、励ましたいと考えました。そこで彼らはパウロのために集めた品物をローマの彼の元に届けたのです。そしてその品物をパウロのところに届ける役目を任されたのがエパフロディトと言う人物です。エパフロディトはローマに品物を届けた上に、パウロを助けにために働きました。しかし、そこでエパフロディトが病になってしまうと言うアクシデントが起こります。パウロを助けるためにやって来たエパフロディトがかえってパウロに面倒をかけることになってしまったのです。このフィリピの信徒への手紙はパウロに品物を送り、自分たちの仲間であるエパフロディトをローマまで遣わしてくれたフィリピの教会の人々に自分の感謝を伝えるために書かれた手紙でもありました。おそらくこの手紙は病気が治ったエパフロディトがローマからフィリピに持ち帰ったものだと考えることができるのです。
皆さんなら、誰かが自分のためにたくさんの犠牲を払って贈り物を準備して、送ってくれたならどんな気持ちになるでしょうか。恐縮してしまうと言うところもあるかもしれません。しかし自分が本当に困っているときに家族や友人が何かをしてくれたなら、本当にうれしいと思うはずです。パウロもここでその感謝の気持ちを伝えています。
「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。」(10節)。
パウロのこの感謝の言葉で興味深いのは、フィリピの人々が送ってくれた品物ではなく、それを通して表された彼らの「心遣い」に目を向けているところです。このときパウロはフィリピから遠く離れたローマの都にいまいした。しかし、パウロは遠くにあっても自分のためにプレゼントを贈ってくれたフィリピの人々の心遣いを感じて喜んでいるのです。しかもパウロはこの品物をフィリピの人々から受け取ったとき、フィリピの教会の人々が自分のことを忘れずに、いつも覚えていること、パウロと一緒に生きて行きたいと願っていることを感じることができたのです。おそらくパウロは、この贈り物を通して自分は決して独りぼっちではないと言うことを確認することが出来たのかも知れません。
②主の支配の中で
さてこのパウロの感謝の言葉を読むとき、忘れてはならない、大切なことがあります。それはこのパウロの感謝を伝える言葉の中にも表現されています。「わたしは主において非常に喜びました」と言う言葉の中の「主において」と言う表現です。ある聖書の解説書ではこの言葉を「主の支配の中で」と呼び変えています。パウロは自分の周りで起こる出来事を決して偶然の産物とは考えていませんでした。パウロはすべてが主イエスの御心によるという確信を持って生きていたのです。なぜなら、すでに自分の人生の中に主イエスの支配が実現していると彼は確信していたからです。
主イエスは福音書の中で「神の国は近づいた」と言う言葉を繰り返し語っています。主イエスの語った福音の中心はこの神の国にあったと言えるのです。この神の国とは神の支配と言う意味を持った言葉です。すべての出来事が偶然に起こるような無秩序がこの世を支配しているのではなく、正しい神の支配が始まったと言うことを主イエスは語ったのです。
パウロはこの少し前のところで次のように語っているところがあります。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(4〜5節)。
私たちに喜ぶことを勧めるこのパウロの手紙の中に「主はすぐ近くにおられます」と語られていることを私たちは既に学びました。この言葉は「主は手が届くところにおられる」と主イエスが自分のすぐそばにおられることを表すものです。実はこの近さこそ、主の支配、神の国が実現していることを表していると言えるのです。私たちの人生にすでに主イエスの支配が実現しています。だから「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8章28節)と言うような神の支配が自分の人生に実現していることを確信する言葉をパウロは語ることができたのです。
ですからパウロが「主において」と語る意味は、フィリピの教会の人々を通して豊かに働いてくださっている主イエスの御業を喜んでいることを表しています。このような意味でパウロがここで表した感謝はフィリピ教会の人々に向けてと言うよりは、そのフィリピ教会の人々の働きを通して現わされた主の御業、その支配にも向けられていると言うことができるのです。
2.自分が置かれた境遇に満足する
①環境に支配されない
このようにパウロは自分の感謝の気持ちをこの手紙の冒頭で記した訳ですが、この後でその言葉の流れは少し違った方向に変わります。なぜなら、パウロはこんなことを言い出したからです。
「物欲しさにこう言っているのではありません。」(11節前半)。
「自分は決してあなたたちからの贈り物を催促するためにこう語っているのではない」とパウロは言いだすのです。皆さんはこんな文章が書かれた手紙を受け取ったらどう思われるでしょうか。もしかしたら気分を害してしまう人もいるかもしれません。しかし、この手紙を受け取ったフィリピの教会の人々は違っていたのかも知れません。もし、彼らがパウロからの感謝の言葉を聞きたくて彼に贈り物したとするなら、こんな言葉を語れたら腹を立ててしまうかもしれません。ところがフィリピの人々は神に仕えるためにこの贈り物をパウロに送ったのです。それはパウロが伝道者としての使命を果たすことができるようにと願ってなしたことでした。だからこそ、パウロはここでフィリピの教会の人々に感謝の言葉以上に大切な福音を語ろうとしたのです。パウロは続けてこう語っています。
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(11節後半から12節)。
パウロはここで自分は「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」と語ります。そしてパウロはここでその秘訣を語ろうとするのです。自分の生き方にとって何が大切なのかをパウロはフィリピの教会の人々に披露しようとしたのです。
私たちはどちらかと言うと自分の人生の良し悪しを聞ける重要な条件として自分を取り巻く環境が大切だと考えています。その環境が良ければ自分は幸せになれると思っているのです。例えば自分が幸せになるためにはまず、自分の生活が豊かになる必要があると考えます。物が何もない貧しい生活は耐えられないと思うからです。戦争を体験し、多くの者を失った日本人はまず、日本が豊かにならなければならないと考え、懸命に努力してきました。今の日本が経済大国となったのは彼らの血が滲むような努力があったからです。確かに日本人の生活レベルは飛躍的に上がったのかも知れません。しかし、そのために頑張って来た人々が本当に幸せになれたのかどうかは疑問なところがあります。皆さんはこんな聖書の言葉をご存知でしょうか。
「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」テモテ一6章6〜8節)
どんなに豊かな財産を築き上げても私たちが世を去る時、それらのものを持って行くことはできません。だから財産を得ることにだけに自分の人生の時間を使うのではなく、もっと大切なことために人生の時間を使うことを聖書は私たちに教えているのです。むしろ、財産があっても、なくても、そんなことに左右されないような人生を私たちが築くことができたら、それほど私たちにとって幸せなことはないのです。
②ストア派の知恵
ところでパウロはここで「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と語っています。実はこの「自分の置かれた境遇に満足すること」は当時のギリシャの哲学が目指していた徳目でもありました。哲学者たちもこの秘訣を身に着けたいと考えていたのです。特にストア派と呼ばれる学者たちはこの考え方を強調しました。このストア派の考え方によれば人は自分以外の何かに頼ろうとすることをやめること、自分自身で人生を決めて行くことが大切となると教えます。
たとえば、親のことを非常に怨んで毎日を生きている人がいたとします。ストア派の考えによればこの人の人生を不幸せにしている原因は親にあるのでありません。「本当の親ならこうしてくれるはずだ」と勝手な期待を抱いしまっている本人の生き方が不幸の原因だと言うのです。だから大切なのはそんな自分を苦しめるような期待を捨てて、自分自身で自分の人生を幸せにしていく道を見つけ出して行くことです。大切な人生の時間を他人を恨むことで使ってしまうことは無意味だと教えるのです。この考えは確かに正しいところがあります。カール・ヒルティ―と言う人物が記した有名な「眠れぬ夜のために」と言う本には聖書の言葉と同じように、ストア派の知恵の言葉がたくさん収録されています。また論理療法という現代のカウンセリングの技術も基本的はこのストア派の考え方をベースにして作られています。しかし、パウロはここで自分もストア派と同じような生き方をしているとは語ってはいません。むしろ、パウロの秘訣はストア派とは全く違った生き方を語っているのです。
3.わたしを強めてくださる方
「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(13節)
パウロの見方はストア派よりももっと厳しいところがあります。パウロは私たちを幸せにできるのは自分以外の他人や環境ではないと言うことを認めます。そしてさらに、それは自分自身にできることでもないと言うのです。だから自分自身に対して持っている誤った期待を捨てて、「わたしを強めてくださる方」つまり神に頼って生きることが大切だと教えるのです。パウロは自分を強くしてくださる方によって環境や人に左右されことのない生き方を送ることができると教えるのです。もちろん、これは神を信じれば自分の人生はすべて都合のいいのように進むと言うことではありません。それはパウロの生涯を考えてみても確かなことです。パウロはたくさんの苦しみに出会いました。実際、パウロはこの時もローマの獄中で暮らさざるを得ない囚人となっています。しかし、パウロは「それでも自分は不幸せではない」と語るのです。負け惜しみではなく、実際にそうだとパウロは力説するのです。
人は思いがけない試練に出会うときに「どうして自分だけがこんな目に会うのだろうか」と考えます。そして誰かにその問いの答えを聞かせてほしいと願うのです。時にはその答えを求めて人は聖書の言葉を読もうとします。しかし、試練に出会ったパウロはこのような問い方をしませんでした。なぜならパウロは既に自分の人生は主イエスの支配下にあることを、神の国がそのイエスの支配を通して実現していることを確信していたからです。だからこそ、彼はその神が今の自分に何を求めているのかを考え、自分の人生で何ができるかを考え、それを行うことで神の支配に答えて行こうと考えたのです。
使徒言行録に記されているフィリピ伝道の記事を読むとパウロは最初、フィリピの町に行く計画を持っていませんでした。彼はフィリピとは違う場所に行く計画を持っていたのですが、何らかの理由でその計画が阻まれると言う経験をしています。聖書はパウロの計画実行について「聖霊から禁じられた」とか「イエスの霊がそれを許さなかった」と言って説明しています(使徒16章6〜10節)。パウロがどうしたらよいのか迷っているとき、彼の夢の中にマケドニア人が現れて、「自分たちのところに来てほしい」と願う姿を見たと言うのです。試練に出会ったパウロはどうしてこんなことが起こるのかと問うのではなく、このようなことを通して神は自分に何をするように望んでおられるのかと言うことを考え、それを実行したのです。
現在、私たちの住む日本もそして世界も、厳しい試練に出会っています。不安な日々がこれからも続いていくかもしれません。しかし、神の支配はそれでも私たちのこの世界に、そして私たちの人生に実現しようとしています。だからこそ、私たちは希望を捨てることなく、この時に、否、この時だからこそ私たちにできることをして、神の支配に答えていくことが大切なのです。そうすればパウロのマケドニア伝道によってヨーロッパ大陸への福音伝道が新たに始まったように、私たちの信仰に基づく行動を通して、神の新たな計画が明らかになって来るのです
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
今日もあなたに招かれて、この礼拝を献げることができた幸いを心から感謝します。あなたは私たちにみ言葉を与えて、豊かな励ましを与えてくださいます。どうか私たちが、自分たちの予想もつかない困難の中でも、それに対処して歩むことができるように力を与えてください。私たちの先輩の信仰者たちも、世の暗闇の中でもあなた自身が光となって私たちを導いてくださることを経験したように、私たちもあなたに信頼して生きていくことできますように。そして私たちがあなたが与えてくださった今日の言う日を大切に生きることが出来るようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.パウロはフィリピの教会の人々に伝える感謝の言葉の中で、自分はどんなことで喜んでいると語っていますか(10節)。
2.パウロは「自分は何を習い覚えた」と語っていますか(11節)
3.パウロは「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっている」と語っています。あなたはこのような秘訣を持っていますか。あなたは自分の人生を生きるために何が一番大切だと思っていますか。
4.パウロは「いついかなる場合にも対処する秘訣」をどこから授かったと言っていますか(13節)。