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2020.5.10「愚かな金持ち」

ルカによる福音書12章13〜21節(新P.131)

13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」

14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」

15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。

17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、

18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、

19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。

21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」


1.遺産を分けてほしい

①愚かな金持ち

 数日前、インターネットで改革派教会の作った伝道番組「あさのことば」を聞いていたところ、ラジオ牧師の山下正雄先生が大変興味深い聖書の言葉を紹介していました。それは旧約聖書の箴言の30章に記された次のような言葉です。

「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。」(7〜9節)

 箴言の記者は自分の人生を狂わせてしまうような「偽りの言葉」から自分が守られるようにと神に祈ると共に、「貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください」とも祈っています。貧しくなることも、金持ちになることも両方とも自分にはよくないことだとこの聖書記者は考えているのです。なぜなら、金持ちになれば、自分の財産に頼ることで、主に信頼することを忘れてしまう恐れがあるからです。また、貧しくなれば、他人の生活を妬ましく思い、その他人から何かを盗もうとする気持ちが生まれて、結局は信仰の道から外れてしまう可能性があると言うのです。

 今日の礼拝では、イエスが語られた「愚かな金持ち」というたとえ話から学びます。せっかく得た財産を、結局は自分のために何も使うことができずに死んで行ってしまった金持ちが主人公となるお話を私たちは今まで何度も学んで来ました。このお話はそれを読む人なら誰でもわかるような簡単なお話です。しかし、だからと言って私たちはイエスがこのお話を通して教えようとされていることを本当に理解できているのでしょうか。たとえば私たちはこの物語を読んで、「ああ、私はこのたとえ話の主人公のようにたくさんの財産を持っている訳ではない。だから、彼のような誤りを犯す可能性はない。本当に良かった…」と思ったとしたら、それは本当に正しい読み方だと言うことができるのでしょうか。先ほどの箴言の言葉から考えると、私たちにとって金持ちになることも、貧しくなることも同じように誘惑になると考えることができます。もしそうならば、私たちは今日のたとえ話を「愚かな金持ち」と言う題名で考えるだけではなく、同じように「愚かな貧乏人」と言う意味でも考える必要があるのではないでしょうか。なぜなら、このイエスの語られたお話には、金持ちであっても、貧乏人であっても同じように陥る可能性がある誤りが語られているからです。


②財産を分けて欲しい

 今日の聖書箇所ではまず、イエスによってこのたとえ話が語られることになった原因が記されています。まず、この12章の最初の部分には数えきれない群衆がイエスの周りにやって来て、イエスを取り囲んだと言うエピソードが記されています。そしてこの群衆の一人がイエスに近付き、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」(13節)と願い出たと言うのです。現代であればこのような問題は裁判所で処理されるはずです。しかし、この当時は律法の専門家と言われる人々が聖書の教えに従って人々が持ち込む問題を処理することがよく行われていたのです。ですからこの人はイエスをその律法の専門家の一人として考えて、自分の抱えていた財産相続の問題を解決してほしいと願い出たのです。有名な放蕩息子のたとえ(15章11〜32節)では「自分に財産を分けて欲しい」と願い出た弟息子に父親が財産を分け与えるということが記されています。しかし当時、父親が存命中に息子たちに財産を相続させるということは例外中の例外で、本来は父親の死後に子どもたちがその財産を受け継ぐことが通例でした。

 おそらく、この人は自分の父親の死後に自分の兄弟が父親の財産を独り占めしてしまうと言うことが起こって困っていたのかもしれません。しかし、このように願う人に対してイエスは「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」(15節)と答えています。イエスは「それは私の務めではない」と言って、この人の願いを退けたように見えます。しかし、イエスは決してこの人を見放したのではないと思います。なぜなら、イエスはこの人の話をきっかけに「愚かな金持ち」のたとえを話してくださったからです。イエスは確かにここで彼の裁判官や調停人として働くことを拒否されました。なぜなら、イエスの本当の務めは人々に神の福音を伝えることにあったからです。ですからイエスはこの人の願いに対して、彼の思っていた以上の答えを準備され、彼に教えたと言うこともできるのです。


③貪欲に注意しなさい

 それではこの人の本当の問題はどこにあったのでしょうか。自分の分の財産を兄弟に取り上げられたこと以上に、彼の人生にとって大切であることについて、イエスはこう語りました。

「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(15節)

 「どんな貪欲にも注意を払いなさい」とイエスはここで警告を発しています。「貪欲」とは簡単に言ってしまえば「もっと、もっとほしい」と言う人間の心理を語っています。最初に引用した箴言には「わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください」と言う言葉があります。貪欲はこの定めを超えてまで「もっとほしい」と願う人間の心理を語っています。それではなぜ、人間は「もっと、もっとほしい」と思うような「貪欲」に心を支配されてしまうのでしょうか。イエスはその原因をここで続けて語っています。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」。このイエスの言葉を簡単に表現すると、人間の命はその人が持っている財産ではないと言っているのです。もし命が財産であればそれを人間は自分の力で手に入れ、自由に使うことができます。しかし、私たちの命は、私たちが自分で自由にできるような財産とは違うと言うのです。なぜなら、私たちの命は実は私たち自身のものではないからです。そしてこの勘違いから「貪欲」と言う問題が私たちの心に生じるのです。そしてこの真理を私たちに教えるために語られたのが、この「愚かな金持ち」のたとえだと言えるのです。


2.孤独な金持ち

 イエスの語られたたとえ話のストーリーは簡単です。ある金持ちの家の畑が豊作に恵まれました。すると金持ちは「このままでは作物をしまっておく場所がない」と心配になります。だからせっかく手に入れた収穫物を無駄にしてしまうことがないように、彼は古い蔵を取り壊して、もっと大きな新しい蔵を作ることを考えます。そして金持ちはその蔵が完成したときのことを想像しながら、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と自分に言ってやろうと考えるのです。この物語、よく読んでみると金持ちはまだその計画を実現してはいません。彼は自分が立てた計画が実現したときのことを想像して喜んでいるだけなのです。しかし、そのように考えて、ぬか喜びする金持ちに神は語りかけます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と。このたとえ話の主人公である金持ちは自分のために使おうと考えた物を、結局何も使うことができずに死んでしまいます。ですから彼の一番の問題は自分の命も、自分の財産と同じにように、自分の力で自由にすることができると考えたところにあると言えるのです。

 この物語をギリシャ語の原文で読むと大変面白いことが分かると言います。日本語では省略されているのですが、金持ちはこの短い文章の中で「わたしの作物」、「わたしの蔵」、「わたしの財産」とすべのものにわざわざ「わたしのもの」と言う言葉を繰り返し語っているのです。この金持ちの生き方の究極は最後に、「自分に言ってやる」(19節)と言うところに表されています。結局、彼が心の中にはいつも「わたし」、つまり自分ことしかなかったのです。この金持ちにはたくさんの作物を分かち合うことのできる友が、自分の喜びを伝える友が全くいません。このような意味でこの金持ちは孤独な人であったとも考えることができます。


3.神に目を向ける

①本当に恐れるべき方

 このお話を理解するためにはこの時にイエスがどんなことを弟子たちや群衆に話されていたのかと言うことを知ると、よりこのたとえ話の意味が分かってくると思えます。イエスはまず、この12章の最初の方で、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(4〜5節)と語られています。イエスは様々な恐れに支配されようとする私たちに、その恐れから解放される方法をここで語っています。私たちが本当に恐れなければならない唯一のお方を知っているなら、他の物を恐れる必要などなくなるとイエスは語るのです。なぜなら、私たちが本当に恐れなければならない唯一のお方はいつも私たちに目を留め、私たちを守ってくださる方だからです。

「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(6〜7節)

 愚かな金持ちの心にはこの神の姿が完全に忘れ去られています。もし彼が、自分に豊かな作物を与えてくださった神の存在を知っていたなら、彼の生き方は全く変わったものとなっていたはずだからです。


②烏のことを考えなさい

 また、イエスはこの「愚かな金持ち」のたとえを語り終えた後ですぐに次のような言葉を語っています。

「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」(22節)

 私たちはこの言葉をたぶんマタイによる福音書に記されたお話の方で覚えているはずです(6章25〜34節)。マタイではイエスは「空の鳥をよく見なさい」と語っています。しかし、このルカではその鳥がもっと具体的に「烏のことを考えてみなさい」(24節)と言われているのです。私たちは「空の鳥」と聞くと雀とか鳩とのようなもっと愛らしい鳥を想像しがちです。ところがイエスはここでその鳥を「烏」とはっきり言っているのです。真っ黒で大きなくちばしをもった烏がゴミ収集所を荒らしまわる姿を私たちは想像すると、烏に愛着を持つことができません。実はこの聖書が書かれたユダヤでも烏は同じように人々から嫌われる動物だったと言われています。人間から嫌われて、駆除の対象とされ、「いなくなってほしい」と考えらえている烏さえも、神は愛して保護してくださっているとイエスはここで語っているのです。神の愛の素晴らしさを覚えることができる表現であると言えます。

 もし、愚かな金持ちが烏さえ心にとめ、その烏の必要をすべて満たしてくださる神の存在を知っていたなら、彼は自分の畑で獲れた作物を自分のためだけにしまい込んでしまうことはなかったかも知れません。きっと彼はそれをもっと違う目的のために有効に使うことができたはずです。なぜなら、自分たちを守る神の存在を知る者は、いつも、自分に財産を与えてくださった神がそれを使って自分に何をすることを望んでおられるのかをまず、考えて行動するからです。そうすえばこの金持ちもきっと自分の財産使って、その財産を分かち合うことのできるたくさん仲間を得ることができたかも知れません。そして金持ちは自分の喜びを分かち合うことができる仲間を得ることができたはずなのです。


4.私たちは神のもの

 私が卒業した神戸改革派神学校は戦前、『神戸神学校』と呼ばれていました。その卒業生の一人に賀川豊彦という人物がいました。若くして結核を患い奇跡的に死の淵から回復することができた賀川は残された自分の命を貧しい人にキリストの福音を伝えるために使おうとしました。神戸のスラム街で活動を開始した賀川は貧しい人々の生活を改善することが大切であることを知ります。ここから賀川は次々と労働運動、農民運動、そして生活消費運動など様々な活動に手を染めて行きます。そして賀川は貧しい人々の生活を助けるために様々な組織を作ることに力を注ぎました。インターネットのホームページを見ると農協や生協そして病院など様々な組織の沿革の中に、賀川豊彦の名前が記されていることを今でも確認することができます。日本が戦争に負けた後は、賀川は平和な日本を再建するために内閣参与として働き、その上で総理大臣候補に上げられたこともありました。本当に一人の人間でこんなにたくさんのことができるのだろうかと思うほど働きをなした上で、彼は71歳で生涯を終えています。この賀川豊彦が私の卒業した神学校の先輩の一人であることに私は親近感を覚えています。

 以前、この賀川豊彦の生涯や活動を研究している私の友人からこんな話を聞いたことがあります。通常の労働運動や農民運動の活動家たちは、とにかく「資本家が悪い」、「地主が悪い」と主張して、彼らのような敵対勢力と戦い、彼らに勝利することが目的だと考えます。マルクス主義の用語ではこれを「階級闘争」と言う言葉で表現します。しかし、賀川豊彦の最終的な戦いの目的は階級闘争とは全く違うものでした。なぜなら彼は「資本家も、地主も、労働者も、農民も、まず神の前で悔い改めることが大切だ」と主張したからです。すべての人が神の前で悔い改めて、神を信頼して生きることができるとき賀川はそのすべての人々が助け合って生きることができる協同社会が実現すると考えたのです。このような意味で賀川はまさにすべての人が神を信頼して生きるようにとキリストの福音を語ったのです。「愚かな金持ち」や「愚かな貧乏人」はこの神を見失うことで、大切な命を無駄に使ってしまいます。ですからイエスが語る「神の前に豊かになる者」の生き方とは、神の前に悔い改めて、その神を信頼して、自分に神が与えてくださった命や財産を神と隣人のために使える生き方だと言うこともできるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 私たちに命を与え、私たちの必要を満たしてくださるあなたに心からの感謝をささげます。私たちもまた箴言の記者と同じようにあなたが私たちのたえに定めてくださったパンで養われ、あなたに感謝して生きることができるようにしてください。あなたが私たちのために委ねてくださった地上の宝を私たちが相応しい仕方で用いることができるように私たちに知恵を与えてください。特に今、世界は厳しい困難に見舞われています。私たちが知恵と力を出し合い、この困難を乗り越えて、共に助け合うことができるように、私たちを導いてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.このとき群衆の中の一人の人物はイエスに何を願い出ましたか。イエスはその人の願いにどのように対応されました(13〜14節)。

2.イエスは私たちがどのような誤りに陥らないようにと、ここで「愚かな金持ち」のたとえを語られたのでしょうか(15節)。

3.このたとえ話の主人公の金持ちの関心はいつもどこに向けられていましたか。彼が忘れてしまっているものは何でしたか(17〜20節)

4.イエスの語る「神の前に豊かにならない者」(24節)と私たちがならないためには私たちはどう生きる必要がありますか。

2020.5.10「愚かな金持ち」