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2020.5.17「キリストと神の計画」

エフェソの信徒への手紙1章3〜14節(新P.352)

3 私たちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。

4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。

8 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、

9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。

10 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。

11 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。

12 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。

13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。

14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。


1.どうして神に選ばれたのか?

 今日も使徒パウロの記したエフェソの信徒への手紙を学びます。パウロはこの手紙の冒頭から私たちのために立てられた神の素晴らしい計画について語り出しています。私たちはこの神の計画によって「選ばれた」者たちであることを語っているのです。この「神による選び」と言う事柄を考えるとき、自分は「選ばれた人」たちの中に入っているのだろうかと不安を抱く人がいます。そう考えざるを得ない原因は私たちの側にあります。私たちは自分のことをよくよく考えて見ても、到底この神の選びにあずかれるような存在ではないと思えるからです。そう考えると、「神による選び」という教理は私たちの信仰に確信を与えるものではなく、むしろ、私たちを不安にさせる教えとなってしまいます。

 私が高校入試の合格発表を友達と一緒に見に行こうと思っていときのことです。わたしの母は「恥ずかしいから行かない方がよい」と私に言うのです。なぜなら、「友達が合格していて、自分だけが不合格になってしまったらどうするのだ」と母は考えたからです。母の頭の中ではもうすでにわたしの不合格は決まっているようです。それもそのはず、当時の私は勉強が苦手で、家でまじめに受験勉強をしていると言う姿を母は見たことがなかったからです。勉強机に向かうとすぐに居眠りを始める私を見ていて、「これはダメだ」と母は確信したのでしょう。私も母以上に自分のことをよく知っていますから、そう母に言われると不安になりました。そして「それもそうだな」考えて、合格発表に見に行くことを辞めてしまったのです。この後、実は自分が試験に合格していたことが分かったとき、私も、私の両親も飛び上がるようによろこんだことを思い出します。

 パウロの手紙を読むとき、私はこの高校の受験発表の出来事を思い出します。なぜならパウロは、自分のことを考えるなら到底、神に選ばれることはできないと思っている私たちが神に選ばれたことを、神が天地創造の前から私たちを愛してくださって、私たちをキリストにおいて選んでくださったことをここではっきりと語っているからです。パウロは本当だった神に選ばれるはずのない私たちが、神に選ばれたと言っているのです。それではなぜ、私たちには神に選ばれた者となったのでしょうか。


2.イエス・キリストと神の計画との関係

①変わることのない神の計画

 前回学びましたように、パウロは「天地創造の前に」神が私たちを選んでくださったとここで言っています。つまり、この神による選びは天地創造後に起こる様々な出来事にも全く影響されない、絶対に変わることない確かな選びであるということを教えています。これは私たち人間が立てる計画とは対照的です。なぜなら、私たちの計画は状況によって絶えず変わっていくものだからです。

 私が青森に住んでいたときに既に、六ケ所村と言うところに政府は核燃料再処理施設を作る計画を立てていました。アメリカ軍の飛行機が絶えず飛び交い、ときどきいろいろなものを落としていくようなアメリカ軍基地のある三沢市の近くに建てられるこの施設はとても危険だと言うことが当時から問題になっていました。先週のニュースでこの再処理施設の利用がやっと政府によって認可されたという話題が取り上げられていました。ところが話によると、政府の計画でこの再処理施設から生み出される燃料を使って発電するはずだった施設は中止になってしまっていて、この再処理施設の意味はもはやなくなっていると言うのです。人間の計画は新しい状況に応じて変わって行きますし、またふさわしい計画に変える必要があります。なぜなら、人間はすべての出来事を予め見通して、すべてを支配することはできないからです。しかし、神は違います。神は天地万物すべてのものを支配し、そのすべてを用いてことができるお方です。だから神はご自身の立てた計画を必ず実現される方なのです。だからこの神の計画によって選ばれた私たちの「選び」は確かなものであり、決して変わることはないと確信することができるのです。


②イエス・キリスト

 神の計画は私たち人間の持っている条件で変わることは決してありません。だから私たちがよいことをしたから神に選ばれるのでも、悪いことをしたから神に見捨てられると言うことでもないのです。それなら私たちはどのような根拠で神によって選ばれたと言えるのでしょうか。そのことを理解するために必要になるのが、ここでパウロが何度も語る「主イエス・キリスト」と言う存在です。イエス・キリストは真の神の子でありながら、私たち人間と同じ存在となられ、私たちのために十字架で命を献げることで、私たちの救いを完全に実現してくださいました。私たちの選びは、私たちが持っている何らかの条件ではなく、このイエス・キリストによって実現したとパウロは強調するのです。

 この聖書の箇所を読み返すなら、そこに「主イエス・キリスト」、あるいは「キリスト」、そして「御子」という言葉が何度も何度も繰り返されて記されていることが分かります。神による計画、そしてその計画に基づく私たちの選びは、このイエス・キリストというお方を通して実現しました。そして私たちが神によって選ばれていることを知り、確信するためには、私たちの信仰の目をこのイエス・キリストに向けることが大切であることをパウロは教えているのです。

 そのためにパウロは3節で「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」と教えています。神に選ばれた私たちに神から与えられる天のあらゆる霊的な祝福はこのイエス・キリストを通して私たちに与えられると言っているのです。

 また、4節でパウロは「神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」と言う言葉を語っています。これは私たちがキリストによって選ばれたこと、キリストこそが私たちの選びの根拠であることを教えています。さらにパウロはさらに7節で「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」と語ることで、どうしてイエス・キリストが私たちの選びの根拠となられたのかについても説明しています。

 確かにわたしたちは神に選んでいただけるような者たちではありません。しかし、キリストがご自身の命を懸けてなしてくださったすべての御業を私たちのためのものとしてくださったのです。だから神は私たちをこのイエス・キリストによって選んでくださったと言うのです。どんなに優れた人間であっても神の要求に答えて完全に生きることはできません。しかし、イエス・キリストは私たち人間と違い、その要求に完全に答えることできるお方です。そのお方が私たちの選びの根拠となってくださることで、私たちは神による選びの対象とされたのです。私たちの選びの根拠は、このイエス・キリストの上に置かれているのです。


3.何のための選びなのか

 実は私たちがキリストによって選ばれたということを知ることは私たちの信仰生活にとってはとても大切な意味を持っています。なぜなら、私たちがこの真理を忘れてしまうことで様々な誤りを自分の信仰生活で犯す可能性が生まれるからです。

 たとえば、この選びを根拠にして「自分たちは他人より優れている」と主張する人々が生まれました。これは「選民思想」と言う言葉でも呼ばれるものです。彼らは「自分たちが神から選ばれたのは他の人々よりも自分たちが優れている証拠だ」と主張するのです。今でも、世界の様々な国々で問題となっている人種差別の根底にはこのような誤った信仰理解が原因になっている場合があるようです。たとえばアメリカで公然と人種差別の思想を象徴するような人たちが、普段は教会に通うような熱心なキリスト教信者だと言うようなことが起こっています。このような「選民思想」は私たちがキリストによって選ばれたことを無視したり、軽視するところから生まれるものだと考えることができます。

 聖書はこのような選民思想が明らかに誤りであると言うことを明確に指摘しています。たとえば旧約聖書では神がイスラエルの民を選ばれた理由を次のように説明されています。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」(申命記7章7節)。イスラエルの民はむしろ他の意国々の民に比べて「貧弱」な民族でしかなかったのに、神はその民族を愛され、ご自身の民として選んでくださったと聖書は語っています。

 また、パウロも神による選びの出来事を取り上げて次のように語っています。

「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(27〜28節)。

 ですから自分がイエス・キリストによって選ばれたことを知る者は自分自身を誇ることは決してできません。「自分は神から特別に選ばれている者だから」と言って他の人々を軽蔑したり、差別することはないのです。

 それではキリストと言う方を根拠にして神によって選ばれた者は、自分を誇るのではなく、何を誇りとすることになるのでしょうか。パウロは次のように語っています。

「(それは)神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(6節)。

 私たちがキリストによって神に選ばれたのは、自分ではなく、自分を選んでくださった神をほめたたえるためなのです。神が私たちを選んでくださったのは、私たちが神をほめたたえて生きるためだとパウロは言っています。このほめたたえると言う言葉は神を賛美する、また礼拝すると言う意味を持つ言葉です。ですから、私たちが今日この礼拝に集まって、神を賛美しているのは、キリストによって選ばれた者が示す当然な反応だと言えるのです。私たちは自分を誇るのではなく、私たちを選んでくださった神をほめたたえるためにキリストによって救われたからです。


4.どこに確信を求めるべきか

 神の選びを考える際に、イエス・キリストを抜きにして考えると、私たちの信仰生活は不自由で確信のないものになってしまいます。かつて信仰の自由を得るためにアメリカ大陸に渡った人々の中にピューリタンと呼ばれる人がいました。日本語では「清教徒」とも彼らは呼ばれています。実は彼らのルーツは私たちと同じ改革派の信仰を持っていた人たちで、神による選びを教える「予定論」を信じていた人たちでした。ところがアメリカの文学などでも取り上げられることですが、この清教徒と呼ばれる人たちの一部はとても禁欲的で、堅苦しい人々であったようです。

 聖書は私たちに禁欲主義を教えてはいません。なぜなら神が与えてくださったすべてのものを感謝して用いることが信仰者に与えられている使命であると教えているからです。しかし、このピューリタンがむしろ堅苦しい禁欲主義者になってしまったのには理由がありました。なぜなら、彼らは自分が神から選ばれているという証拠をキリスト無しで得ようとしたからです。彼らは「自分は神に選ばれているのだろうか」と言う疑問に対して、「神に選ばれている者はその信仰生活でも善き実を結ぶことができるはずだ」と考えました。選ばれた者の証拠はその信仰生活で判断できると考えたのです。だから、彼らの信仰生活はむしろ、自分が神から選ばれているかどうかを確かめるものとなってしまったのです。こうなると、彼らの生き方は聖書に登場するファリサイ派や律法学者の生き方と同じようなものになってしまいます。なぜなら、ファリサイ派の人たちも聖書の律法を守ることで自分が神から選ばれていることを確かめようとしたからです。一部のアメリカの清教徒たちはそのような意味で律法主義者に逆戻りしてしまったのです。

 自分が神によって選ばれていると言うことをキリスト抜きで知ろうとする人たちは律法主義者のような信仰生活を送ることしかできません。しかし、私たちが神によって選ばれていると言う証拠はキリストによってしか知ることはできないのです。なぜなら私たちはイエス・キリストの御業によって、神によって選ばれた者たちだからです。

 私たちはアメリカの一部のピューリタンのように自分の信仰生活の中で自分が神から選ばれている証拠を確認しようとする過ちを犯していないでしょうか。自分のことだけを見つめて生きる者は、そこからは決して自分が神によって選ばれている証拠を見出すことはできません。それでは合格発表を見に行けなかった私と同じように、自分は不合格だと思い込んでしまう他ないのです。しかし、私たちの選びの根拠はすべてこのイエス・キリストに置かれています。だからこそ、私たちは今日も私たちの信仰の目をこのイエス・キリストに向け、私たちが神から選ばれていることの素晴らしさを確信し、その喜びを持って神を賛美し、礼拝する生活を続けていきたいのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 今日も礼拝を献げることに困難な事情が伴うなか、私たちがここに集められ、神をほめたたえることができた幸いを心から感謝いたします。また天地創造の前より、私たちをキリストを通して選んでくだったことを心からほめたたえます。私たちがいつも信仰の目をイエス・キリストに向けることで、正しい信仰の確信を得て、喜びを持って歩むことができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロは私たちがキリストによって選ばれていることを「天地創造の前に」と言う言葉で説明しています。それではこの言葉にはどのような意味がありますか(4節)。

2.私たちが神から選ばれたことについての根拠はどこにあるとパウロは続けて語っていますか(5、7節)。

3.私たちが神から選ばれたことによって、自分を誇ったり、他人を見下すことはどうして誤りだと言えるのですか。

4.神から選ばれた私たちは、どのように生きるようにされるとパウロは教えていますか(6節)。

5.あなたは自分が神によって選ばれた者だと言う証拠をどこから見つけだそうとしていますか。

2020.5.17「キリストと神の計画」