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2020.5.3「神の計画」

エフェソの信徒への手紙1章1〜14節(新P.352)

1 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。

2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

3 私たちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。

4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。

8 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、

9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。

10 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。

11 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。

12 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。

13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。

14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。


1.神の秘められた計画を語るパウロ

①エフェソの信徒への手紙

 今日から皆さんと一緒に使徒パウロが記したエフェソの信徒への手紙を学び始めます。この手紙は先週まで私たちがこの礼拝で学んで来たフィリピの信徒への手紙と同じくパウロの手紙の中では「獄中書簡」と言う名称で分類されてきた手紙の一つです。この手紙を書いていたとき、パウロはローマで獄中生活を送っていたと考えられているからです。

 エフェソは現在のトルコの西部の地中海沿岸にあった町で、ローマの行政区分ではアジア州という地域にあった町でした。興味深いことにヨハネの黙示録はこのアジア州にあった七つの教会に書き送られた言葉として記録されています(1章1〜5節)。その黙示録ではこのエフェソ教会については、異端の教えの攻撃から真理を守り抜いた教会としては評価されているのですが、「最初の愛から離れてしまった」(2章4節)と言う点で非難されています。信仰について誤った理解や誤解をしている人たちに対して、正しい真理を伝えると言うことは教会に与えられた大切な使命であると言えます。しかし、それも行き過ぎてしまうとその人の誤った思想だけではなく、その人自身の人格まで否定してしまうような誤りが起こりがちなのです。

 いつの時代でも私たちには福音を正しく伝えると同時にイエスの愛を正しく伝える使命が与えられています。この使命に答えるためにも私たちは自分が今イエス・キリストが示してくださった「最初の愛から離れてしまって」いないかどうかを省み、その愛を回復できるように祈り求める必要があります。

 使徒言行録はパウロによって進められたエフェソでの伝道の記録を記しています(19章)。この記録によればエフェソと言う町にはアルテミスという異教の女神を祭った大きな神殿があったようです。エフェソの町はその神殿を中心に栄えた「門前町」であったと言うことができるのです。使徒言行録にはパウロの伝道によって、アルテミス神殿に関わる商売を行っていた人たちが不利益を被ったとういうことで騒ぎになると言う出来事が記されています。さらに使徒言行録はこの教会の役員たちとパウロの間に特別な関係があったことも記しています(20章17〜36節)。これだけパウロにとって特別な意味を持つ教会に送った手紙ですから、さぞかしこの手紙にはエフェソ教会についての様々な事情が記されていると思って読んでみると、実はそうではないところがあります。

 この手紙の内容は特別にエフェソ教会に書かれた手紙というよりはどこの教会の人々も学ぶべきキリスト教信仰について大切な教えが記されているのです。ですからこの手紙を記した写本の中には「エフェソ」と言う地名がないものも存在しています。聖書学者たちの見解ではこの手紙は様々な教会に回覧するようにして書かれ、また読まれた手紙だとされています。

 聖書を読む際に、私たちが一番心がけるべき点は、その内容が誰か自分とは違った他の人のために書かれたものだと考えるのではなく、自分のために書かれたものだと考えて読むことです。そのように読むとき聖書の言葉は今の自分に語りかけてくださる神の言葉となるのです。ですから私たちもこのエフェソの信徒への手紙を私たちのためにパウロが記した手紙であると考えながら読む必要があるのです。


②神の視点から状況を見直す

 皆さんは山登りがお好きでしょうか。今年は政府によって出された緊急事態宣言でほとんどの人が外出を控える事態になっていますが、本来ならこのゴールデンウイークに山に行かれると言う方もおられるかもしれません。最近は、登山の愛好家がたくさん増えていろいろな人が山に登るようになったせいもあるのでしょうか、山での遭難事故も増えていると言います。気軽な気持ちで山に登って、遭難してしまうと言うケースも多いのです。ところでもしあなたが山で道に迷ったときに、あなたならどうしますか。私はそのことについて以前こんなことを聞いたことがあります。山で遭難する人の多くは自分が登って来た元の麓に戻りたいと考えて道なき道を下って行きます。そしてさらに道に迷ってしまってどうにもならないと言うことが起こると言うのです。だから山道で迷ったなら下に降りるのではなく、山頂に向かって登っていくことが大切だと言うのです。それはどうしてでしょうか。眺めのよい山頂に辿り着けば、自分が今どこにいるかがよく分かるからです。そこで初めて自分の位置を確かめることができます。そしてこれから自分がどのように進めばよいのかも分かると言うのです。

 それでは私たちが自分の人生の道で迷子になったらどうしたらよいのでしょうか。そんなとき手探りで、行先も分からずに突き進むのはあまりにも無謀なことです。それは懸命な人間が行う方法とは言えません。また他の人が歩いて行く後に着いて行けばよいと言う人もいるかもしれません。しかし、もしその人自身が間違った道を進んでいるとしたら、その人の後をついて行った自分も同じ間違いを犯すことになります。人生で自分が進むべき道を失ったら、私たちも上に向かえばよいのです。それは聖書に記された神の言葉に耳を傾けることを意味します。なぜなら、そこには私たち人間の視点から考えられた言葉ではなく、すべてをご存知の神の視点から見えるこの世界が記されているからです。この世界はどこに向かっているのでしょうか。私たちはこの世界で何をすればよいのでしょうか。私たちは聖書に記された神の言葉からその正しい道を見出すことができるのです。パウロが記したこのエフェソの手紙はこれから行くべき道に迷う私たちに人間の視点ではなく、天地万物を創造された神の作られた計画を教えています。そのような意味でこのエフェソの手紙もまた、私たちの人生が進むべき指針を教える書物だと言うことできるのです。


2.変わることのない神の愛

 このフィリピの信徒への手紙の冒頭にはこの世界と私たち人類に対して示された神の絶大で完全な計画が明らかにされています。

「私たちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(3〜4節)。

 ここには驚くべきことが語られています。聖書は私たちに向けられた神の愛を語る書物であると言えます。その神の愛がどのようなものであるかを私たちに詳細に語るのが聖書の役割だと言ってもよいのです。しかし、この聖書の主題となる愛を私たちは十分に理解することができません。さらには度々それを誤解してしまう傾向があります。

 宗教改革者のマルチン・ルターは神の愛について大きな誤解を持って大人になりました。かつて彼の一番の悩みは神の怒りからどうしたら自分は逃れることができるのかと言うことだったと言います。なぜなら、かつてのルターは、神は自分の意志に従う者だけを愛し、そうでないものを厳しく裁かれる方だと思っていたからです。実はルターが神の愛をそう考えるようになった理由は彼の父親にあったと言われています。なぜなら、彼の父親はルターをかわいがった反面、ルターが自分の意に反した行動をするのを見ると突然に癇癪を引き起こして、彼を厳しく罰することがあったからです。ルターは自分の父親の姿を通して神の愛を理解しようとしたのです。だからルターは懸命になって神に自分を気に入ってもらおうと努力して来ました。しかし、どんなに努力を重ねても自分が神に愛されていると言う確信を持つことができないままルターは信仰生活を送っていたのです。このようなルターを心配した当時彼が所属していた修道院の院長はルターに聖書を読んで、そこに記されているまことの神の愛を知るように促しました。そしてルターはやがて聖書の言葉から不完全な人間の愛とは違う、完全な神の愛を知り、その愛に信仰の確信を置くことができるようになったのです。

 パウロはここで「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して…」と語っています。神の愛は、私たちがこの地上に存在するはるか前からすで私たちに向けられていたと言っているのです。つまり、私たちに向けられた神の愛は私たちの行動や考えに左右されることがないものだと言うことを聖書は語っているのです。自分の人生が都合よく進んでいる時だけ神の愛を確信し、そうできなくなってしまうと神の愛は自分から離れてしまったと思う、私たちがそのような考えを持つことは誤りであることをこの言葉は私たち に教えているのです。なぜならば神の愛は天地創造以後に起こった出来事に影響されて変わってしまうものではないからです。ましてや、私たちの人生に起こった出来事で変わってしまうものでもありません。パウロはローマの信徒への手紙の中でこの神の愛について次のような言葉を語っています。

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8章38〜39節)


3.神の救いの計画の目的

 エフェソの信徒への手紙は続けてこの神の愛の目的を次のように語っています。

「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(9節)。

 神は天地万物が創造される前から私たちを愛してくださいました。そのような意味で考えるならば、神は私たちを愛するためにこの天地万物を造ってくださったとも考えることができます。この世界は私たちを苦しめるために神によって造られたものではありません。私たちを神の子としてくださるために、また私たちに相続財産を与えるためにこの世界は神によって創造されたのです。

 ご存知のように私たちの改革派教会に大きな影響を残したスイスの宗教改革者ジャン・カルヴァンは「予定論」という教理を教えたことで知られています。救いとは予め神に選ばれて、神の子とされた者たちに与えられるものだと言うことを教えるのが予定論です。そしてこの教理はカルヴァンが作ったものではなく、聖書が教えているものなのです。カルヴァンがこの教理を大切にした理由は、当時のカトリック教会が人間の救いについて絶対的な決定権を持っていると考えられていたからです。これでは人間の救いはカトリック教会の決定によっていくらでも変えられることができてしまうことになります。カトリック教会が「お前は気に入らないから、破門だ」と言えば、その人は天国に入る権利を失ってしまうことになります。カルヴァンはこのようなカトリック教会の見解に対して反対しました。私たちの救いはこの世の誰かの決定によって左右されるものではありません。なぜなら、私たちの救いは神の決定に基づくものだからです。そして、その決定はどんなことがあっても変わることがないのです。私たちの救いは何が起こっても揺らぐことがないのです。このような意味で予定論は私たちに確かな救いの根拠を示す大切な教理だと言うことができるのです。

 スコットランドの宗教改革者ジョン・ノックスは迫害を受けてカルヴァンのいたジュネーブで一時亡命生活を送りました。そこでカルヴァンから改革派の教理を学び、再びスコットランドに返り生涯を宗教改革のために捧げたのです。当時、スコットランドを治めていた女王のメアリー・スチュワートはカトリックの熱心な信者であったために、彼の活動を徹底的に弾圧しようとしました。そのメアリーがもっとも恐れていたものはノックスの献げる祈りだったと言われています。どんなに武力を使ってもノックスによって指導された宗教改革の働きを誰も阻止することができなかったからです。そのノックスが晩年、病床で死が間近に迫ったときに、熱心に読んだのはカルヴァンが書いたエフェソの信徒への手紙についての説教であったと言われています。彼はその生涯の最後にこのエフェソの信徒への手紙を通して自分の救いの確かさを確信することができ、慰められて死んで行ったのです。

 このように慰めてと確信に満ちたエフェソの信徒への手紙を私たちはこれから学び始めます。この手紙の学びを通して私たちに向けられた神の愛の素晴らしさと、決して揺るがされることのないキリストによる救いの出来事に信仰の目を向けて行きたいと思います。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロは神をほめたたえながら、その神が私たちにどのような祝福を与えてくださったと語っていますか(3節)。

2.パウロは私たちに示された神の愛の特徴についてどのようなことを語っていますか(4節)。その神の愛は、私たちの知っている人間の愛とどこが違っていますか。

3.私たちがこのようにすばらしい神の恵みをいただくことができなのは、私たちが何をするためにだとパウロは教えていますか(6節)

4.私たちに対する神の豊かな恵みは誰を通して私たちに示されたのでしょうか(7節)。

5.あなたは私たちの救いが天地創造の前に予め神によって決められたものだという予定論の教理を今まで学んだことがありますか。もし、知っていたとしたら、あなたはこの教えをどのように理解して来ましたか。

2020.5.3「神の計画」