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2020.5.31「絶大な働きをする神の力」

エフェソの信徒への手紙1章15〜23節(新P.352)

15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、

16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。

17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、

18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。

19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、

21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。

23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。


1.神を知ること

①愛の必修条件

 今日も皆さんと共に使徒パウロの記したエフェソの信徒への手紙から学びたいと思います。今まで私たちは三回に渡ってこの手紙の冒頭の部分を学んで来ました。そこで三位一体の神の完璧で素晴らしい働きが私たちの救いを実現させたと言うことを私たちは学んだのです。

 今日の部分ではエフェソ教会の信徒たちのために献げるパウロの祈りの言葉が記されています。そこでまずパウロはエフェソの信徒たちについて自分が聞くことができた消息を取り上げて、そのために神に感謝の祈りをささげています。パウロの言葉によればエフェソ教会の人々は「主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛している」と言われています。聖書は私たちの信仰と愛は決して切り離すことができないと言うことを教えています。なぜなら私たちはイエス・キリストを信じることによって、隣人を愛するための根拠を得ることができるからです。本来、私たち人間は他人を愛する力を持っていません。私たちはいつも自分に利益を運ぶ者だけを愛する傾向があります。

 神を見失ってしまった私たち人間は自分の存在の根拠も分からなくなってしまっています。だから「自分はなぜ、生きなければならないのか?」、そんな問いを抱きながら自分の人生を生きなければならないのです。古代教会の有名な神学者アウグスチヌスは「神は私たち人間を神ご自身に向けて造られた。だから私たちは神の下に立ち返るまで、心の安らぎを受けることはできない」と語ったと言います。だから神を見失った私たちは普段、自分のことを考えるだけで精一杯で余裕がありません。隣人のことを心に留め、愛するというような力も私たちは持っていないのです。聖書はそのような私たちの人生を救うためにイエスがやって来てくださったということを教えています。このイエスが私たちの人生を引き受けて、責任を持ってくださるのです。だから、私たちはもはや自分のことだけを考えて生きる生活から解放されることができます。そしてそこから私たちが隣人を愛することができる力が与えられるのです。イエスが私たちを愛して下さったように、私たちもイエスの愛によって隣人を愛することができるようになるのです。パウロはエフェソ教会の信徒たちがこのような信仰生活を送れていることを聞き、神に感謝を献げることができたのです。


②もっと深く神を知れれば

 パウロはエフェソ教会の信徒たちをこのようにしてくださった神に感謝を献げると共に、そのエフェソ教会の人々のために神に願いをささげています。その願いとはエフェソの人々がさらに深く神を知ることができるようにと言うものでした。

 私たちは何とかして今の自分の人生を変えたいと思っています。世界を変えたいと思っている人もいるはずです。私たちが「今よりももっと素晴らしい人生を歩みたい」、「もっとよい世界を作りたい」と願うことは決して悪いことではありません。このような理想を持って生きることは大切なことであると言ってもよいでしょう。しかし、私たちはこの理想が現実とならないことにいつも心を痛めているのではないでしょうか。さらには失敗を何度も繰り返して、挫折感さえ感じて生きているのです。

 皆さんは「北風と太陽」と言うイソップ童話を聞いたことがあると思います。一人の旅人が着ている厚いコートをどちらが早く脱がせるかで北風と太陽が勝負をしたと言うお話です。最初に北風は強い風を旅人にこれでもかと吹き付けさせます。そうすることで旅人の着ているコートをどこかに飛ばしてしまおうとしたのです。しかし、これでもかと襲ってくる冷たい風に、旅人は必死に堪えて、コートで身を包みながら前に進もうとします。このように北風の作戦は大失敗に終わります。そして次は太陽の出番です。太陽は旅人の上に温かい日差しを降り注がせます。すると体の中から暖かくなった旅人は、堪らなくなって自分の着ていたコートを脱ぎ捨てたと言うお話です。

 私たちが自分の人生を変え、また世界を変えるために、様々な努力をするのはこの北風の働きかけと同じかもしれません。変えようとすればするほど、自分の人生に不安を感じて、自分の殻に閉じこもろうとするようになるからです。私たちに大切なことは自分に向け続けた目を神に向けることです。私たちを愛し、私たちのために救いの御業を行ってくださる神に目を向けるのです。そして私たちが神を知ればしるほど、私たちは自分を縛りつけて来た様々な拘束から解き放たれて、自由に生きることできるようになるのです。そしてそこで初めて私たちは自分に対しても、そして世界に対して正しい働きかけをすることができるようになるのです。

 パウロはそのために私たちにもっと神を深く知ってほしいと願い、そのために神に祈ったのです。


2.神を知るものに与えられること

①私たちの希望

 それでは私たちが神をもっと深く知ることができるなら、私たちの人生はどのように変わっていくのでしょうか。パウロは次のように語っています。

「そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」(18節)

 イエスの語られた有名な放蕩息子のたとえでは、父の下を離れた息子は遠い町で自分が持って来た財産を使い果たしてしまいます。その上で、その町に飢饉が訪れると、自分は生きて行くすべをすべて失ってしまったことに気づきます。彼に残されていた道はただ一つです。自分の父の下に返ることです。そう決心して、放蕩息子が家路につくと、父親はその息子を喜んで受け入れたと言うお話です(ルカ15章11〜32節)。

 聖書は神の下を離れた私たちをこの放蕩息子のようだと語っています。しかし、私たちがもしその過ちを悟り、神の下に立ち返るなら、神は私たちを喜んでご自身の息子として受け入れてくださるのです。そのとき希望のない私たちの人生が希望にあふれたものと変わります。私たちは神を深く知ることで私たちは自分が神の下から離れてしまっている罪人であることを知り、またその罪人のために神が救い主イエスを遣わして、私たちを救おうとしてくださったことを知ることができるようになるのです。


②神の力を知る

「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(19節)

 教会にやって来て間もない方が牧師にこんなことを語りました。「先生、私はキリスト教の神さまがどこにおられるのかやっとわかりました。おそらくここら辺ですね…」と言って、自分の胸のあたりを指し示したと言うのです。牧師がその理由を聞くと、教会に集まる人はいつも神に祈る時に、下を向いて、自分の胸のあたりにぼそぼそと小さい声で語りかけているので、たぶん、神さまはそこにいるのだろうと思ったと言うのです。興味深い笑い話です。

 パウロはここで私たちが「絶大な働きをなさる神の力」、それが「どれほど大きなものであえるか」を悟ることができるようにと祈っています。なぜなら、私たちがその絶大な神の力を知れば、私たちの信仰生活は大きく変わっていくからです。パウロは絶大な働きをなさる神の力が具体的にどのようなものであるかを次のように語ります。

「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」(20〜21節)

 私たちは、「人は死んでしまえばすべて終わる」と考えています。しかし、イエス・キリストは十字架にかけられた後に三日目に墓から甦られました。そしてその後、天に上り、真の王として今、すべてのものを支配してくださっているとパウロは語ります。そしてここに神の力が表されていると教えるのです。

 私たち自身は力を持っていませんが、私たちを愛してくださる神は絶大な力を持っておられます。だから、私たちがこの神の力を知れば知れるほど、その神への信頼が深められ、私たちは勇気をもって生きていくことができようになるのです。


3.キリストの体である教会

①目を開いていただく

 このように私たちが神を深く知ることは私たちの人生を変え、世界を変える力持っていると言えます。テレビを見ていると毎日、新型コロナウイルスに関する膨大なニュースが私たちの耳に入ります。それらのニュースからこの病に対する正しい知識を身に着けることは大切であるかもしれません。しかし、放送されるニュースがすべて私たちの生活に役に立つわけではありません。むしう、私たちは新型コロナウイルスに関する膨大な情報によって自分の心が恐怖に支配されてしまうと言うことが起こっています。どのような知識であっても、それをたくさん知ればよいと言う訳ではないと言えるのです。

 しかし、神を知ることはこれとは全く違います。聖書が語るように私たちが神を知れば知るほど、私たちはすべての思い煩いと恐怖から自由になり、この人生を希望を持って生きることができるようにされるのです。しかし、ここで「神を知ること」について忘れてはならないことがあります。それはここでパウロが神を知るために「心の目を開いてくださるように」(18節)と祈っているところに示されています。どんなに聖書を読んでも私たちの心の目が閉ざされていたら、私たちは神について何も知ることができないからです。

 イエスが復活された後、エマオと言う町に向かっていた二人の弟子は、その旅の途中で復活されたイエスに出会うと言う体験をしています。ところが、最初彼らは自分たちに近寄り、いろいろと話しかけてくださる方が復活されたイエスだと気づきませんでした。ところが彼らが町に着いて、宿でイエスと食事を共にしたときに、二人の心の目が開かれます。そして始めて、彼らは自分たちと一緒にいてくださった方がイエスであると気づくことができたと言うのです(ルカ24章13〜35節)。

 今日は聖霊降臨の出来事をお祝いするペンテコステの礼拝です。今から二千年前に弟子たちの上に約束された聖霊が降られました。イエスの弟子たちはそれまでいろいろとイエスから教えられ、イエスから様々な訓練を受けていました。しかし、彼らはこのときまでイエスの教えや訓練の意味を本当に理解することができないでいたのです。しかし、このとき天に昇られたイエスから遣わされた聖霊が弟子たちの心の目を開いてくださったのです。彼らはそこで本当に神を知る者となりました。だからこそ、かつてはイエスの十字架を前にして逃げ出すしかなかった弟子たちの生き方が、この聖霊降臨の出来事を境に大きく変わったのです。全世界に出て行ってイエスの福音を大胆に語る者と彼らは変えられたのです。


②教会はイエスとの出会いの場

 パウロは今日の聖書箇所の最後で教会について語っています。パウロはここで「教会はキリストの体」と言っているのです(23節)。今、復活されたイエスは天におられます。そのような意味で私たちは聖書に登場する弟子たちのように自分の目や耳でイエスの姿を見、またイエスの声を聞くことはできません。しかし、聖書はそれでも大丈夫だと私たちに教えているのです。なぜなら、キリストは教会と言う場所を私たちに与えてくださっているからです。教会はイエス・キリストと私たちの出会いの場です。今でも礼拝のたびに、教会では聖書の言葉が読まれ、見えるかたちでは洗礼や聖餐式が行われています。もちろん、聖書の言葉も、そのままでは単なる知識に過ぎませんし、洗礼や聖餐式も儀式に過ぎません。しかし、イエスはこの教会に集まる私たちにも聖霊を遣わしてくださり、私たちの心の目を開いてくださるのです。

 そのとき、私たちはあのエマオの弟子と同じように、自分が聞いている聖書の言葉がイエスからの語りかけの言葉であることを、洗礼や聖餐式がイエスの恵みが豊かに示すものであることを悟ることができるようになるのです。

 このように私たちが神を知れることはどんなに素晴らしいことでしょうか。神は私たちが神をさらに知ることができるために、私たち一人一人をキリストの体である教会に招き、聖霊を私たちに遣わして、私たちの心を開いてくださるのです。だから私たちはそのような神の御業に心から感謝をささげて、教会生活を送って行きたいのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.パウロはエフェソの信徒たちについて何を聞き、神に感謝を献げましたか。また彼らのためにパウロは何を神に願っていますか(16〜17節)。

2.パウロの言葉から私たちが神を知るために必要なことは何であると言うことが分かりますか(18節)

3.私たちの心の目が開かれ、私たちが神を深く知ることができるようになると私たちにどのようなことが分かるようになるとパウロは教えていますか(18〜19節)。

4.パウロは「絶大な働きをされる神の力」はどのような出来事を通して私たちに示されたと言っていますか(20〜21節)。

5.それでは教会とキリストの関係はどのようなものだとパウロは語っていますか(22〜23節)

2020.5.31「絶大な働きをする神の力」