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2020.6.14「上席と末席」

ルカによる福音書14章7〜11節(新P.136)

7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。

8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、

9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。

10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。

11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


1.不自然な宴会

①現代人が学ぶべきマナー?

 この伝道礼拝では毎月、主イエスが語ってくださったたとえ話を聖書の中から選んで皆さんにお話して来ました。今日はルカによる福音書の14章に記されているたとえ話を学びます。そこで今日のお話の題名を「上席と末席」と名付けました。この題名が書かれた教会の看板を見てある方が「寄席のお話のようですね」と言われました。おそらく、「上席と末席」などと言う言葉は今では寄席のようなごく限られた場所でしか聞くことが出来なからかも知れません。だからその方はこの題名から「落語や寄席」を連想されたのだと思うのです。

 現代人にはあまり関心がないのかもしれませんが、日本に古くから伝わるマナーなどを学ぶと上座と下座という席の位置が大切になってくると言うことが分かります。誰かの家に招待された場合に、客はその家の主人の案内を無視して一番良い上座を捜して、勝手に座ってしまうことはマナー違反だと言えます。だから最初は下座に座るのが礼儀とされているのです。その点では今日の聖書箇所に登場するお話は昔からの日本のマナーを身に着けている人には当たり前のことで、今更イエスの口からお話を聞く必要はないと考えるでしょう。むしろ、そのマナーさえ知らず、勝手なふるまい傍若無人に行っている現代人こそ、このお話から学ぶきだと考えるはずです。

 しかし、よくよく考えて見れば分かるように福音書がわざわざこのたとえ話をここで取り上げたのは、読者に宴会の席でのマナーを教えるためではなく、もっと大切なことを教えるためであると言うことが分かって来るはずです。確かに、このお話の中には主イエスが伝えた神の福音、私たちにとって大切な真理が語られているのです。だからこのたとえ話は福音書に収録されていると考えてよいのだと思います。それではイエスはこのたとえ話を使って私たちにどのような福音を伝え、私たちの人生に祝福を与えるニュースを伝えようとしているのでしょうか。


②国会議員主催の食事会

 イエスのお話を正しく理解するためにはこのお話がいつ誰に向かって語られたものなのか…、そのことを予め知ることが大切だと言えます。実はこのお話は14章の最初の部分から繋がっていると考えることができるのです。

「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。」(1節)

 日時は、「安息日」つまり、ユダヤ人が神を礼拝する日として大切にしていた土曜日のお話です。今でも敬虔なユダヤ人は土曜日の安息日を厳しく守り、この日は一切の労働を休みます。安息日は神を礼拝する日ですが、それと同時にユダヤ人は家族や親しい友人たちと共に食事の席に着きます。食事の席で、神に感謝をささげ、自分たちの先祖から受け継いで来た神との約束を確認し、またその約束を子供たちに伝えることをします。それが安息日の食事の大切な意味であると言えます。

 ところがこの安息日の食卓の雰囲気は少し違っていました。イエスをこの食事会に招待したのはファリサイ派の議員であったと言われています。ファリサイ派は当時のユダヤ教の党派の一つで、多くの民衆に支持され、人々に大変大きな影響力を持っていました。議員とはユダヤの都エルサレムにあった「宗教議会」のメンバーであることを示しています。当時のユダヤはローマ帝国の植民地とされていましたから、この宗教議会の権限は大幅に制限されていました。しかし元々はこの宗教議会はユダヤ全土の律法、司法、行政のすべてを決定する集まりであったとされています。おそらくこの国会議員の食事会には当時の社会の有力者たちがたくさん集まっていたのだと思います。聖書はその客たちが一堂にして「イエスの様子をうかがっていた」と記しています。食事会に集まった人々の関心はイエスに向けられていました。イエスはどんな人物か、どんなことを語るのか、人々はそのような関心を持ってこの食事会に集まっていたのです。

 実はここで一つの事件が起こりました。そこに「水腫」と言う病気を患う人が現れます。当時のユダヤ人はこのような病の原因を宗教的に理解していましたから、病人を「汚れた者」と考えていました。おそらく、ファリサイ派の人々が彼をこの食事の席に招待したとは考えにくいので、彼は勝手に自分からこの家に入って来たのだと考えるのが妥当です。彼はイエスに「自分の病気を治していただきたい」と思ったのでしょう。ところが先ほども言いましたように、この日は安息日で、労働をすることは一切許されない日でした。そして人を癒すというのは医療行為の一つと判断されるので、決してそれをしてはいけないと多くの人は考えていたのです。ところが、イエスはその掟を無視して、この病の人をその場で癒されたのです。それはイエスがこの人を癒すことが神のみ心であると確信していたからです。そして「安息日」にはその神のみ心を行うことこそが、安息日の守り方としてふさわしいとイエスは考えたのです。


2.上席に座るのを好む人々

①案内を無視する客

 今日の部分は次のような言葉で始まっています。

「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。」(7節)

 この時、人々はイエスの様子を窺っていました。しかし、実はイエスもそこに集まっていた人々の様子をよく観察していたのです。そしてイエスはそこに集まる人が皆「上座を選ぶ様子に気づいた」と言うのです。国会議員の家で開かれた食事会です。当然そこに集められた人々も有力者たちであったに違いありません。彼らは当然のように上座に座ろうとします。「自分はそのような扱いを受けるべき価値のある人間だ」と考えていたからです。そこでイエスは今日のたとえ話を語られます。

 このたとえ話のポイントはまず、安息日の食事から結婚式の宴会に場面が変更されているところです。結婚式と言うのは皆さんもご存知のように、予め招待された客がどこに座るのかが決められています。私たちも結婚式に出席すると、受付で自分の座るべき場所が記された案内図をもらいます。その上、自分が座るべき席に行くと、そこにはちゃんと自分の名前が記された名札が置かれています。当時のユダヤでは、どうであったか詳しく分かりませんが。招待された人は自分が座るべき場所に案内されて座ることが当たり前であったと思います。その案内を無視して勝手に座ってしまったら、トラブルが起こってしまいます。しかし、イエスはファリサイ派の信仰生活はまさにこのような誤りを犯しているとここで指摘しているのです。


②信仰生活の目的が変わってしまった人々

 イエスはこのファリサイ派の人々の態度について別の箇所で次にように語っています。

「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。」(マタイ23章5〜7節)

 この言葉から考えるとフィリサイ派の人々の関心はいつも自分が人々からどう見られているかと言うところにあったことが分かります。人々に尊敬されれば、有頂天となり、ぞんざいに扱われれば怒りを感じ、がっかりしたりします。だから彼らはそうならないように、懸命になって人々に日々アピールすることに心がけます。だから彼らにとっては聖書を読むことも、そして神に祈ることも一つのパフォーマンスに過ぎません。そのすべては自分の存在を人々にアピールする手段となってしまうのです。これでは信仰生活の意味が大きく変質してしまっていることになります。実はそのことをよく表す物語である「徴税人とファリサイ派の人の祈り」を私たちは次回の伝道礼拝で学ぶ予定になっています。


3.へりくだる者として生きる

 イエスは今日のたとえ話で、その結婚式に「あなたを招いた人」が自分の座るべき正しい場所を教え、そこに招いてくれるまで待つこと…、それまではたとえ末席に座っていてもかまわないではないかとこのたとえ話で教えています。今日のたとえ話の第二のポイントはこの「あなたを招いた人」と言う存在です。私たちを信仰生活に招いてくださった方は誰でしょうか。それは私たちの主なる神です。その方がちゃんと私たちの座るべき席を準備してくださるのですから、私たちはそれを先取りして心配する必要はないと言うことをイエスはここで教えておられるのです。

 イエスは次のような言葉でこのお話を結んでいます。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(10節)

 「高ぶる者」とはたとえ話の中に登場する人々のように、自分で勝手に行動して、我先に上席に着こうとする人々の姿を表しています。神はそのような生き方を私たちに望んではおられません。神はちゃんと私たちが座るべき場所を準備してくださっているからです。だから、そのことを心配して信仰生活を送る必要は決してないのです。 それでは「へりくだる者」とは誰のことでしょうか。最もこの言葉に当てはまる生き方をされたのが私たちの主イエス・キリストです。使徒パウロはこのイエスの姿をフィリピの信徒への手紙で次のように描いています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(2章6〜8節)

 それではイエス・キリストは何のためにこのようにへりくだられたのでしょうか。それは神の計画をこの地上に実現させるためです。だからイエスは徹底的に神に従い、神の御心を実現するために生きたのです。このように聖書が語る「へりくだり」とは単なる「謙遜」の徳目を教えることとは大きく違っています。まことの「へりくだり」とは私たちの人生を通して神に従い続けることを言っているからです。だから、神によって信仰生活に招かれた私たちは、神に従い続けることが大切です。そうすれば、神はやがて私たちを私たちのために準備して下さった場所に導いてくださるのです。イエスはこのたとえ話で信仰生活の目的が全く違った場所に向かってしまっているファリサイ派の人々の生き方を批判し、彼らの誤りを正そうとしたと考えることができます。


4.神の約束を信じて、信頼して生きる

 私たちは確かにいつも、自分が人々の間でどのように取り扱われているかに関心を持って生きています。そのため人々の目を気にして生きてしまうので、不自由な生活を送らざるを得なくなっています。イエスはそのような私たちが神に従うことによって、本当の自由を得ることが出来るようにと教えているのです。最近、リジョイス誌の聖書日課で旧約聖書の登場人物ダビデの生涯が何度も取り上げられていました。ダビデは大変興味深い人物です。大胆に神に従う一方で、大胆に罪を犯し、失敗を重ねます。そのたびに悔い改めて、神に立ち返ると言うダビデの生き方には私たちを引き付ける魅力が隠されているように思えます。私はダビデが息子アブサロムに裏切られ、王座を追われて、エルサレムを脱出するときに示した彼の姿勢がとても好きです。

 戦いに敗れた落ち武者のようにダビデはエルサレムの都から脱出します(サムエル記下15章)。そのときダビデに従う人々は、当時エルサレムの都に安置されていた神の箱を担いで逃げ出そうとしました。そうすればどこに行っても、神が自分たちに味方してくださると思ったからでしょうか…。ところが、そのことに気づいたダビデは、彼らに言って神の箱をエルサレムに戻すように命じます。そのときダビデはこのように語っています。

「神の箱は都に戻しなさい。わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように。」(25〜26節)

 ダビデはここで神への信頼を告白しています。そして自分がいるべき場所を決めてくださるのは神御自身であるとまで語っています。ダビデがこのように信じることができたのは、神の約束を信じることができたからです。だから、ダビデは絶体絶命の窮地に立たされながらも、人々の評価に振り回さることなく、神に従い続ける生き方を貫くことができたのです。

 私たちに対する神の約束もはっきりとしています。神は私たちを愛して、私たちのためにイエスを救い主として遣わしてくださったからです。確かに私たち自身は神に招かれるべき資格を持っていません。しかし、イエスはその私たちのために十字架にかかることで、その資格を私たちに与えてくださったのです。このイエスによって私たちは天国の祝宴に招かれています。神の子として神と共に生きることができるようにされているのです。だからこそ、聖書は私たちに、自分がどこに座ることができるかなど心配することはしないで、ただ、神に従い続ける生活をしなさいと教えているのです。そうすれば、やがて神が私たちを私たちにふさわしい場所に導いてくださるからです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様

 私たちのために父の家に場所を準備してくださった主イエスに心から感謝をささげます。だからこそ主イエスは私たち「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私を信じなさい」(ヨハネ14章1節)と語ってくださいました。このあなたの約束を信じて、生きることができるようにしてください。私たちを神ならぬ者の目から解き放って、自由に毎日の生活を送ることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスがこのたとえ話をされたのはどのような場所でしたか。そこでどのようなことが起こりましたか(14章1〜6節)。

2.イエスはファリサイ派の議員の家で開かれた安息日の食事会に集まった人々の様子から何に気づかれましたか(7節)。

3.婚礼に招待された人は何を待つべきですか。また、それまでどのように待つこと大切だとイエスは教えていますか(9〜10節)

4.どうしてこの宴会の席に集まった人は上席に着こうとしたのでしょうか。このことからこの人たちが持っていたどのような関心が分かりますか。

5.イエスはこのたとえ話を語りながら、私たちの信仰生活についてどのような生き方を送ることを勧めていますか(11節)。

6.あなたの信仰生活では宴会の席で上席に座ろうとした人々のような問題はありませんか。私たちが自由に生きるためには、日々の信仰生活で何を優先することが大切だと考えますか。

2020.6.14「上席と末席」