2020.6.21「キリストは私たちの平和」
エフェソの信徒への手紙2章11〜22節(新P.354)
11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。
12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。
13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、
20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、
21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。
22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
1.心に留めておきなさい
①父と私の違い
子どもの頃、私の父はよくこんなことを私に言っていたことを思い出します。「お前たちはいいな。いつでも、食べたいときに、食べたいものを食べることができて…」。私の父は1927年、つまり昭和二年の生まれです。食べ盛りだった少年、そして青年時代に戦争を体験していました。だから父は戦争中の食糧不足、さらには戦後の混乱期に起こった戦中を上回るような食糧事情の困窮を体験しています。私が幼かったころ、父は自分の枕元にせんべいの袋を置いて、ときどきそれを取り出しては、ぼりぼりと音を立てて食べていたことを思い出します。晩年、父が大病をして病院に入院したときも、父は「あれが食べたい、これが食べたい」と食べ物の話を繰り返して語っていました。だからこんな私の父にとって食べたいものをいつでも、自由に食べられることは夢のようにうれしいことだったのかも知れません。
ところが、戦後に生まれ、日本の高度経済成長の真っただ中で育った私には父の言っていることはなかなか理解できませんでした。お店に行けば、食べたいものが何でも買えると言う光景は私にとっては当たり前のものだったからです。今考えてみると、私たちの世代がそのように何不自由なく暮らすことができたのは、すべてが無くなってしまった戦後の焼け野原からがむしゃらに働いて日本を復興させた父のような世代の人々の努力があったからだと思います。このように食糧不足の体験を痛いほど感じて生きた父のような世代の人々と、食べるものがあることを当たり前だと考えて育った私たちの世代の間には、食べ物に関する思い入れや、感謝の心に大きな違いがあると言えるのです。
②異邦人から神の民にされた人々
今日の聖書の箇所は次のようなパウロの言葉で始まっています。
「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました」(11節)。
「心に留めておきなさい」と言う言葉を別の聖書では「思い出しなさい」と訳しています。パウロはこの手紙の読者たちが今はすっかり忘れてしまっているものに、もう一度目を向けて、それを思い出してみなさいと勧めているのです。なぜ、パウロはこのようなことをエフェソの信徒たちに送った手紙の中で語っているのでしょうか。それは彼らが大切なことを忘れていたためでした。そして、そのことが原因で彼らの信仰生活の上で大きな障害が起こっていたからなのです。
エフェソと言う町は現在のトルコの西部の地中海沿岸に築かれた町でした。ここから海を挟んだ対岸にはギリシャがありました。聖書によればパウロがこの町にキリストの福音を伝えて、エフェソの教会の基礎を築いたと言われています(使徒19章)。このような土地柄のためにこの教会に集まる人々のほとんどはユダヤ人でなかったと考えられています。だからパウロはこの手紙の中で読者たちに向かって「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり」と語っているのです。
ここに登場する「異邦人」と言う言葉は、ユダヤ人が自分たち以外の外国人を、神と関係のない人々、神に捨てられた人々と考え、神に選ばれた自分たちとは別な人々だと言うことを表現するために用いた言葉です。だからパウロもここで「異邦人」を神と関係のない人々、希望のない人々であったと語っています。もちろん、パウロはエフェソの信徒たちが今はそうではないと言っています。彼らは現在では神に近いものとされているからです。つまり彼らと神との間にはしっかりとした関係が生まれているのです。なぜなら、その関係を築き、エフェソの信徒たちを神の民とするために救い主イエスがこの地上に来てくださって、救いの御業を成し遂げてくださったからです。そしてパウロがここでエフェソの信徒たちに「心に留めなさい」と勧めているのは、このキリストによって成就したすばらしい救いの出来事であると言えます。また、その出来事に基づいて、自分たちが今、キリストの体である教会の一員とされている恵みも心に留めなさいと言っているのです。
2.二種類のキリスト者の群れ
この手紙のパウロの勧めを私たちが理解するために、私たちが予め知っておくべきことあります。それはおそらく、当時のエフェソの教会の内部で発生していた深刻な問題です。ここまで語りましたように、エフェソの教会のほとんどのメンバーは「異邦人」、つまりユダヤ人ではない人々でした。しかし、元々キリスト教会はイエスの弟子として歩んだ人々から始まりました。その弟子たち、ペトロやヤコブのような人々も、そしてパウロもユダヤ人でした。さらに使徒言行録の記事を読むと、パウロは海外で宣教を開始するとき、必ずその町に移り住んでいたユダヤ人たちに福音を伝えるという方式を取っていました。ですからこのパウロによって築かれたエフェソの教会の中には異邦人だけではなく、ユダヤ人の信徒たちも含まれていたと考えることができるのです。おそらく、パウロの勧めの背後にはこの大多数の異邦人からキリスト者になった人々とユダヤ人からキリスト者になった人々、その二つの勢力の間に起こった問題があったと考えられています。そしてパウロはこの問題に対処するために、ここで勧めの言葉を語っているのです。
今日の文章の中に「手による割礼を身に受けている人々」(11節)、あるいは「規則と戒律ずくめの律法」(15節)と言う言葉が記されていますが、これはユダヤ人からキリスト者になった人々が大切にしていたものだと考えることができます。もちろん、パウロもこの手紙の中でそれらのものはすでにキリストによって「廃棄された」(15節)と語っています。だから私たちはキリストを信じる信仰によって救われるのであって、ユダヤ人のような生活を送る必要はないのです。
ところが人間は子どものときから身に着けた習慣を簡単に捨てることはなかなかできません。だからユダヤ人からキリスト者になった人々もそうでした。彼らもまたキリスト者になっても、今までの習慣を守りながら自分たちなりの信仰生活を送って暮らしていたのです。
私が結婚してすぐの頃、既に亡くなっている家内の父と一緒にファミリーレストランに入って食事をしたことがありました。そのとき家内の父は、注文した食事について来た味噌汁を見て、それを飲むのをすぐに止めてしまいした。なぜなら、その味噌汁は家内の父が子どものころから飲み慣れて来た、赤みそで作られたものではなかったからです。家内の父は白みそで作られた味噌汁に手を付けることができなかったのです。一方、私は今でも「赤みそ」で作られた味噌汁をおいしいと思って飲むことできません。今ではだいぶ慣れて来ましたが、岐阜に行く度に、そこに住む人々の習慣と私の育った場所の習慣が違うことを感じることがありました。
ユダヤ人たちには子どものころから厳しい食物についての規定を守ってきました。異邦人が食べているものの中にも彼らが食べることができないものがたくさんありました。また、ユダヤ人は子どものときから安息日といって土曜日の一日を特別に過す習慣を守っていました。そして彼らはキリスト者になってもこれらの習慣を持ち続けて生活していたと考えることができるのです。その一方でこれらの習慣を一切持たない、また理解できない異邦人からキリスト者になった人々がエフェソ教会では多数を占めています。このような異なった習慣を持つ人々が一緒に信仰生活を送る教会で問題が起こらない訳はありません。
パウロはこの異邦人からキリスト者になった人々と、ユダヤ人からキリスト者になった人々の間に起こった問題を知りました。そしてここでその問題についての解決策を提示しようとしたのです。そしてその解決策こそが「心に留めておきないさい」と言うパウロの勧めの言葉に表されているのです。
3.キリストによって教会に集められた私たち
①自分がキリストによって救われた恵みに心を留める
私たちは異邦人とユダヤ人と間に起こった問題と聞くと、何やら自分たちとは全く関係のない出来事のように感じてしまいがちです。そして、そう考えてしまうと、ここでパウロが語ろうとしている言葉も「自分とは関係がない」と言って、読み飛ばしてしまう恐れがあります。しかし、私たちがまず忘れてならないことは、私たちもパウロがここで語るように「異邦人」であった者たちであると言うことです。私たちもかつては神との関係から除外され、希望のない人生を送っていた異邦人の一人であったという事実を忘れてはならないのです。
また、それと同時に思い出すべきことは、私たちもまた、出生の違いから生まれる習慣や考え方の違いによって、教会に集まる兄弟姉妹との間でトラブルを抱えるという可能性があると言うことです。だから私たちはここで語られているパウロの言葉と決して無関係ではないと言うことができるのです。
子どものときから困っている人を見ると、黙って見過ごすことができないと言う家族の下で育ち、自分もそのようにすると言う人がいます。そのような人は、自分の周りで困っている人を見つけると。すぐに様々なアドバスをしたり、具体的に様々な行動を示して、その人を助けようとします。しかし、このような人の行動もいつも同じように評価されるわけではありません。むしろこのような人と考え方を異にする人は「なぜ、あの人は何にでも口を挟んでくるのだろうか…。頼みもしないのに、余計なことをしている」と考える場合があります。
また、今までの人生で様々な苦労を重ねてきた人は、むしろ、苦しんでいる人の心がわかるためか、安易にその人の人生に口を出すことを避ける傾向があります。自分が旧約聖書のヨブ記に登場するヨブの友人たちのように、返って相手の気持ちを苦しめてしまわないだろうかと心配しするからです。そのような人はまず行動する前に、隠れたところで神に助けを祈り求めます。しかし、その人の心の中を理解することが出来ない人は、「あの人は何もしないで、何で冷たい人なのだ…」とその人を非難することがあるはずです。私たちは様々な習慣や考え方の違いを持って教会に集められたものたちです。ですからそこに問題が起こらないと言うことはまずないのです。それでは私たちはこのようなときどうしたらよいのでしょうか。パウロは次のように語ります。
「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(16節)。
確かに私たちは違った習慣や考え方を持って教会に集められています。しかし、私たちは「烏合の衆」ではありません。ここに無秩序に集められた者たちではありません。ここに集められた者たちは皆、キリストによって救われた者たちなのです。それなのに私たちは目の前の問題だけを見て、私たちがキリストによって救われたという恵みの事実を忘れてはいないでしょうか。私たちが抱く敵意は、私たちがキリストの十字架を忘れてしまうところで生まれます。だからこそ、私たちは十字架にかかって私たちを救ってくださったキリストの愛に再び心を留める必要があります。そうすればこのキリストの愛が私たちの心に平安を与え、私たちが抱えている問題に私たちが冷静に対処することができるようにしてくだるのです。
②要石であるキリストに信頼する
そして私たちがもう一つ「心に留めるべき」ことがあります。それは私たちが今、このキリストの教会に集められていると言う事実です。
「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」(19〜21節)
お互いに違った習慣や考えを持つ者が教会に集められています。だからその一致は、その中の誰かの持つ習慣や考えに皆が倣うことにあるのではありません。教会は全体主義によって成り立つ場所ではないからです。ここでパウロが語っている「使徒や預言者たちの土台」とは聖書の言葉のことです。教会の一致は聖書の示す真理の上に私たちが立つときに実現します。さらにこの教会の要石はキリスト・イエスご自身であると言われています。この要石がなくなってしまうとその建物は影も形もなく破壊されてしまいます。それが要石の役目です。このキリストが要石になって私たちを教会に集めてくださり、私たちに聖霊を送って導いてくださるのです。だからこのキリストが集めてくださった者たちの中に、余計な者、いなくてもよい人は一人も存在していないのです。皆、一つの教会を作るためにキリストによってここに集められているからです。だからこそ、私たちはこの要石であるキリストの御業に信頼して、互いに兄弟姉妹の存在を認め合いながら、信仰生活を送っていくべきなのです。
教会は建物ではありません。キリストの御業を心に留め、その御業に信頼する者たちが集まる場所に真の教会は生まれます。私たちはかつて異邦人として、福音を聞く機会もなく、神とは無縁に生きる、希望のない人生を送っていました。しかし今は違います。キリストが私たちを救ってくださり、この教会に集めてくださったからです。この恵みを私たちは再び心に留めながら、感謝と喜びを持って教会生活を送って行きたいと思います。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様
私たちもかつてはキリストの福音を知らず、神から遠く離れた存在として、希望のない人生を送っていた異邦人の一人であったことを思い起こします。そしてその私たちのために御子イエスを遣わしてくださったあなたの恵みの御業に心を留めます。このキリストが十字架の御業を通して私たちに平和を与えてくださったことを感謝します。私たちがこのイエスの十字架を見つめ、平和をいただくことで、教会生活を送ることができるようにしてください。私たちが私たちをここに集めてくださった主イエスの御業に信頼して、お互いに祈り合い、励まし合ってキリストの教会をたて上げることができるよう私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.パウロはエフェソの信徒への手紙の受取人たちに対して何を「心に留めなさい」と勧めていますか(11〜13節)。
2.パウロが「キリストはわたしたちの平和であります」と言った理由はどこにありますか。キリストは何をすることで、私たちのどのような問題を解決したと言っているのですか(14〜18節)。
3.私たちが聖なる民に属する者、神の家族となり、聖なる神殿となるために、私たちの土台となったものは何ですか。また、誰が私たちのかなめ石となってくださったのですか(19〜22節)。
4.あなたが今、抱えている問題に対処するために、まずあなたが心に留めるべきものは何だと思いますか。